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消えた第二艦隊、静かな世界へ

作者: 仲村千夏

山口多聞様企画をありがとうございます。


戦艦大和を題材にした作品は数多くありますが、その多くは「戦うこと」「沈むこと」を描いてきました。

本作ではあえて、戦えない状況、何もできない時間を描いています。


もし戦争が終わる前に、戦場そのものが消えたら――艦も軍も役目を失ったとき、人は何を選ぶのか。

その問いに対し、派手な結論や救いではなく、静かな終わりを用意しました。


この物語は仮想戦記でありながら、戦果も勝敗も描きません。

ただ、人が戦争から降りる瞬間を見つめています。

戦いだけがすべてではない、という一つの可能性を提示できれば幸いです。

 一九四五年四月七日、午前十時過ぎ。


 南西の空は、低く垂れ込めた雲に覆われていた。

 もともとは曇天の予報だったはずの海は、いつの間にか色を失い、鉛のような重さを帯びている。風は刻一刻と強まり、白波が艦首を叩く音が、甲板にいる者の足元から響いてきた。


 戦艦大和は、その中心にあった。


 第二艦隊は定められた陣形を保ち、黙々と南下していた。

 誰もが理解している。――帰るつもりのない航海だということを。


 艦内には、不思議な静けさがあった。

 恐怖ではない。高揚でもない。

 長く続いた戦争の末にたどり着いた、覚悟の澱のようなものが、艦全体に沈殿していた。


「敵情、変化なし」


 電探室からの報告は、淡々としていた。

 だが、その言葉の裏には、誰もが同じ映像を思い描いている。水平線の向こうから迫る、無数の艦載機。その時が来るまで、もうそれほど猶予はない。


 ――そのはずだった。


 午前十時二十分。


 突如として、風向きが変わった。


 大和の巨体が、ゆっくりと軋む。

 突風が甲板を横切り、対空砲の砲身が一斉に唸りを上げた。海面は一瞬で荒れ狂い、空と海の境界が溶けていく。


「天候、急変!」


 報告が上がるより早く、視界が失われた。

 雨ではない。霧でもない。

 それは、世界そのものが歪んでいく感覚だった。


 雲が、渦を巻いている。


 雷鳴が走ったが、音は遅れて届いた。

 いや、届かなかった。

 音が途中で途切れ、代わりに耳鳴りのような静寂が広がる。


 艦橋の窓越しに見える海が、色を変えた。

 濃紺でも灰色でもない、見たことのない深い緑。

 波のうねりが止まり、水面が不自然なほど平らになっていく。


「――艦長!」


 誰かが叫んだ。

 その声も、遠い。


 次の瞬間、重力が反転したかのような錯覚が艦内を走った。

 身体が浮く。胃が持ち上がる。

 大和の四十六センチ砲が、悲鳴のような軋みを上げる。


 そして。


 唐突に、すべてが終わった。


 嵐は消えていた。


 空は、抜けるように青い。

 雲一つない快晴。

 さきほどまで艦を叩いていた風も、波も、まるで最初から存在しなかったかのように、静まり返っている。


「……海が、違う」


 誰かが、呟いた。


 見渡す限り、水は続いている。だが、水平線がない。

 遠くには、緩やかな山並みが連なり、湖を取り囲むようにそびえていた。

 緑に覆われた巨大な島が、すぐ近くに見える。


「ここは……内海か?」


「いや……」


 航海長が首を振る。

 海図に該当する地形は、どこにもない。


 電探は沈黙していた。

 敵影はおろか、航空機の反応もない。

 無線は、雑音すら拾わない。


 ――世界から、切り離された。


 その感覚だけが、確かにあった。


 ーー


 一方、遠く離れた別の海。


 米海軍潜水艦の司令室では、混乱が起きていた。


「目標ロスト……繰り返す、目標ロスト!」


 さきほどまで確実に捉えていた巨大な反応が、突如として消失したのだ。

 海域に異常なし。爆発もなし。沈没音もない。


 あり得ない。

 戦艦大和級が、痕跡も残さず消えるなど。


 だが、それが事実だった。


 第二艦隊は、この世界から姿を消した。


 ーー


 再び大和の艦橋。


 沈黙の中で、艦長はゆっくりと息を吐いた。


「……全艦、状況確認を続けろ」


 その声は、落ち着いていた。

 だが、誰もが理解している。


 これは、作戦の続きではない。

 特攻でもない。

 帰還ですらない。


 ここから先は、誰も知らない航海だ。


 静かな湖の水面に、十隻の軍艦が浮かんでいる。

 その姿を、祝福する者も、迎え撃つ者も、いなかった。


 ただ、空はあまりにも青く、

 あまりにも、穏やかだった。


 ーー


  湖は、驚くほど静かだった。


 第二艦隊が転移してから、すでに数日が経過している。

 あの日の嵐が嘘のように、空は毎朝澄み渡り、湖面は凪いだ鏡のように青空を映していた。風は柔らかく、冷たさも、湿り気もない。日本近海の春とは、どこか質の異なる穏やかさだった。


 戦艦大和は、湖の中央付近に錨を下ろしている。

 周囲には矢矧、そして駆逐艦群が、かつての陣形を思わせる配置で浮かんでいた。だが、その姿はすでに「戦時」のそれではなかった。


 対空警戒は緩和され、弾幕を想定した配置も意味を失っている。

 電探は沈黙したまま、空にも水上にも敵影は存在しない。


 ――戦う相手が、いない。


 その事実が、じわじわと艦隊全体に染み込んでいた。


 島への上陸は、転移翌日から始まった。

 湖畔に広がるその島は、想像以上に大きく、緩やかな丘と森林、そして清水に満ちていた。危険な獣も見当たらず、植物は食用に適したものが多い。魚も豊富で、湖そのものが、巨大な食糧庫のようだった。


「……ここは、敵地ではないな」


 伊藤整一中将は、島を見渡しながら、そう呟いた。


 第二艦隊司令長官。

 史実であれば、この航海はすでに終わっているはずだった男は、今、異世界の湖畔に立っている。


 軍帽を外し、風に白髪を揺らしながら、伊藤は静かに考えていた。


 作戦は消えた。

 命令も、目的も、帰還先もない。


 あるのは、五千を超える人員と、十隻の艦艇、そしてこの穏やかすぎる世界だけだ。


「司令長官」


 参謀の一人が、控えめに声をかける。


「島内の調査結果ですが……食料、水、居住に支障はありません。少なくとも、当面は」


「……そうか」


 伊藤は頷いた。

 当面、という言葉に含まれる重みを、互いに理解しながら。


 艦内の様子も、日を追うごとに変わっていった。


 起床ラッパは鳴る。点呼も取る。

 だが、その後に続くのは訓練ではなく、畑の開墾や、漁の準備だった。


 水兵たちは、慣れない土を踏み、木を伐り、網を編んだ。

 砲術員が鍬を握り、機関兵が薪を割る。

 最初は戸惑いもあったが、やがて誰もが黙々と作業をこなすようになった。


 不思議なことに、不満は少なかった。


 銃声も、爆音も、空襲警報もない。

 夜は暗く、静かで、星がよく見える。


「……生きてるな」


 ある晩、若い水兵が焚き火を見つめながら、ぽつりと呟いた。

 隣の者は、何も言わずに頷いた。


 生きている。

 それは、これまで当たり前ではなかった感覚だ。


 伊藤中将は、艦上からそれらの様子を見ていた。


 大和の巨大な甲板は、今では作業場となり、集会所となり、時には子ども――いや、若者たちの笑い声が響く場所になっている。


 彼らは、もう戦うことを前提にしていない。


 その事実に、伊藤は安堵と、得体の知れない不安を同時に覚えていた。


 夜、司令長官室で一人、地図を広げる。


 もちろん、そこに意味はない。

 この世界の海図など、存在しないのだから。


「……帰れぬ、か」


 声に出してみても、答えは返らない。


 湖は閉じている。

 海までは数十キロ。

 運河を掘るには人手も、道具も、時間も足りない。


 仮に辿り着いたとして、その先に何があるのかも分からない。


 そして、帰還の兆しは――ない。


 伊藤は、艦隊を見下ろした。


 戦艦大和。

 世界最大の戦艦。

 しかし今、それはただの巨大な浮き構造物にすぎなかった。


 弾薬は使われない。

 主砲は沈黙したまま。

 装甲は、誰も脅かさない。


「……お前たちは、役目を終えたのか」


 問いかけるように呟く。


 だが、答えは分かっていた。


 役目を終えたのは、艦ではない。

 戦争そのものだ。


 それから、さらに時が流れた。


 島には簡素な住居が建ち、畑には芽が出た。

 規律は残っているが、もはやそれは「戦時のもの」ではなく、「秩序」として機能している。


 誰も逃げない。

 誰も争わない。


 伊藤は、その光景を誇らしく思いながらも、同時に覚悟していた。


 ――このままでは、いけない。


 艦隊は、宙ぶらりんだ。

 戦うために存在し、戦う場を失った艦艇は、やがて重荷になる。


 いつか、決断が必要になる。


 その時が、確実に近づいていることを、伊藤整一は誰よりも理解していた。


 穏やかな湖面の下で、静かに、だが確実に、終わりへの時間が流れていた。


 その日は、驚くほど静かな朝だった。


 湖面には霧が薄く漂い、朝日が山々の稜線から差し込んでいる。

 風はなく、水は一切波立っていない。

 まるで、この場所そのものが、何かを待っているかのようだった。


 戦艦大和の艦内放送が、久しぶりに全艦へ向けて流れた。


「――全艦長、ならびに主要士官は、司令長官室に集合せよ」


 短く、簡潔な呼び出しだった。

 内容を察した者も、そうでない者もいたが、誰一人として遅れる者はいない。


 司令長官室には、第二艦隊の中枢が揃っていた。


 伊藤整一中将。

 大和艦長・有賀幸作大佐。

 軽巡矢矧艦長。

 そして、各駆逐艦の艦長たち。


 全員が立ったまま、伊藤の言葉を待っていた。


 伊藤は一同を見渡し、静かに口を開いた。


「……諸君」


 声は穏やかだった。

 怒気も、悲壮感もない。


「我々がここに来てから、相応の時間が経った。状況は、誰もが理解しているだろう」


 誰も答えない。

 必要がないからだ。


「帰還の兆しはない。外海への進出も、現実的ではない。この湖は閉じている。我々は、ここで生きるしかない」


 伊藤は一度、言葉を切った。


「そして――」


 その先を、全員が待っている。


「第二艦隊は、もはや艦隊としての役目を果たしていない」


 否定の声は上がらなかった。

 沈黙が、それを肯定していた。


 有賀艦長が、一歩前に出た。


「司令長官。……大和は、浮いているだけの存在です」


 重い言葉だった。

 それを口にするまでに、有賀がどれほど考えたかは、誰の目にも明らかだった。


「弾も、燃料も、使い道がない。威力を持たぬ兵器は、ただの重荷になります」


 伊藤は、静かに頷いた。


「その通りだ」


 次に、矢矧艦長が口を開く。


「艦を維持するために人員を拘束し続ける意味も、ありません。……この世界では、我々は戦争を続けていない」


 駆逐艦の艦長の一人が、低く言った。


「司令長官。兵たちは、もう“戦う覚悟”ではなく、“生きる覚悟”で動いています」


 伊藤は、深く息を吸った。


「だからこそ、今日ここに集まってもらった」


 彼は、机の上に置かれた一枚の文書を示した。


「第二艦隊を――解散する」


 一瞬、空気が張り詰めた。

 だが、それは動揺ではなかった。


「艦艇は、すべて自沈させる。意図的に、静かにだ」


 誰かが、目を伏せた。

 誰かが、歯を食いしばった。


 有賀は、ゆっくりと敬礼した。


「……大和艦長、有賀幸作。賛成いたします」


 その声は、揺れていなかった。


「大和は、すでに戦う場所を失っています。ならば、役目を終えさせるのが、艦長の責務です」


 続いて、矢矧艦長。


「同意します。矢矧もまた、兵を縛る存在であってはならない」


 駆逐艦各艦長も、一人ずつ、同じ言葉を口にした。


「異存ありません」

「賛成します」

「責任は、我々が取るべきです」


 全員の意思は、一致していた。


 伊藤は、最後に言葉を付け加えた。


「――同時に、ここに宣言する」


 彼の視線が、艦長たち一人ひとりを捉える。


「第二艦隊に所属する全兵員の兵役義務を、ここに解除する」


 その瞬間、室内の空気が変わった。


「階級は、今日をもって意味を失う。以後、諸君らは軍人ではない。……生きる者だ」


 誰も、すぐには言葉を発せなかった。


 有賀が、ゆっくりと帽子を脱いだ。


「……了解しました」


 その声は、艦長ではなく、一人の人間のものだった。


 決定は、その日のうちに全艦へ伝えられた。


 甲板に整列した兵たちに向け、伊藤整一中将は、はっきりと告げた。


「諸君。第二艦隊は、本日をもって解散する」


 ざわめきは、ない。


「艦は沈める。だが、諸君は沈めない」


 誰かが、息を呑む音がした。


「ここから先、諸君らは自らの意思で生きよ。軍命は、もう存在しない」


 静寂の中で、誰かが敬礼した。

 それが合図のように、全員が敬礼した。


 それは、命令への敬礼ではなかった。

 別れへの敬礼だった。


  夕刻、湖は不思議なほど静まり返っていた。


 風はなく、水面は磨かれた金属のように空を映している。

 まるで、これから起きることを拒むでもなく、迎え入れるでもなく、ただ受け止める準備をしているかのようだった。


 最初に沈められる駆逐艦の甲板には、すでに誰もいない。

 必要な物はすべて陸に降ろされ、艦は空っぽだった。


 弁が開かれる音は、小さかった。


 ――ごう、という低い音が艦内から響き、水が流れ込む。


 誰かが、息を呑んだ。


 艦はすぐには沈まない。

 ゆっくりと、信じられないほどゆっくりと、喫水線が上がっていく。


 岸に集まった兵たちは、誰一人として言葉を発さなかった。


 若い水兵の一人が、堪えきれずに顔を覆った。

 肩が震え、嗚咽が漏れる。


「……ちくしょう」


 小さな声だった。

 怒りでも、悲しみでもなく、どうにもならない感情の塊だった。


 隣に立つ年配の下士官は、ただ黙ってその肩に手を置いた。


 駆逐艦は、やがて傾き、甲板が水に触れた。

 艦首が沈み、艦尾がわずかに持ち上がる。


 その瞬間、一人の兵が、思わず敬礼した。


 命令ではない。

 誰かに見せるためでもない。


 それを見て、また一人、さらに一人と、敬礼が広がっていく。


 誰も号令をかけていないのに、隊列が整っていた。


 艦は、湖に呑まれた。


 波紋が広がり、やがて消える。


 次に、矢矧。


 軽巡洋艦は、どこか軽やかに見えた。

 それでも、沈む速度は変わらない。


 伊藤整一中将は、少し離れた高台から、その光景を見ていた。


 双眼鏡は使わない。

 その必要はなかった。


 白い手袋をはめた両手を、静かに背中で組み、ただ目で追っている。


 その横顔には、涙はなかった。

 だが、表情は硬く、深い皺が刻まれている。


 彼は知っていた。

 これは命令ではなく、選択の結果だということを。


 矢矧が沈みきると、湖は再び静まった。


 そして、最後に残されたのが――大和だった。


 湖の中央に浮かぶその姿は、あまりにも大きく、あまりにも重かった。


 近づくため、小舟が出された。

 伊藤中将と、有賀幸作は、同じ舟に乗っていた。


 櫂の音が、水面に小さく響く。


 有賀は、振り返らなかった。

 ただ、大和を見上げている。


「……立派な艦でした」


 ぽつりと、有賀が言った。


 伊藤は、少し間を置いて答えた。


「ああ。誇っていい」


 それだけだった。


 甲板に上がり、有賀は一度だけ、艦内を見回した。

 誰もいない。

 音もない。


 最後の弁が開かれる。


 大和は、すぐには反応しなかった。

 まるで、沈むことを拒んでいるかのように。


 だが、やがて――。


 水が、静かに流れ込む。


 巨大な艦体が、わずかに軋んだ。


 岸では、誰かが声を殺して泣いていた。

 別の者は、歯を食いしばり、涙を流さずに敬礼を続けている。


 伊藤中将は、湖岸に立っていた。


 大和が傾き始めた瞬間、彼は、ゆっくりと敬礼した。


 その動作は、年老いた軍人のものだったが、迷いはなかった。


 帽子の庇の下で、目がわずかに潤んでいる。

 だが、涙は落ちない。


 落とさないのではない。落とす資格がないと、彼自身が思っていた。


 大和は、ゆっくりと、確実に沈んでいく。


 甲板が水に触れ、主砲が姿を消し、やがて艦橋も見えなくなる。


 最後に残ったのは、艦尾の一部だけだった。


 それが沈む瞬間、湖面が大きく揺れた。


 ――ごう、という音が、水の底から響いた。


 そして、すべてが終わった。


 水面は、再び凪いだ。


 そこに艦はない。

 だが、誰一人として、その場を離れなかった。


 伊藤整一中将は、敬礼を解き、静かに呟いた。


「……諸君、ご苦労だった」


 それが、第二艦隊に向けた、最後の言葉だった。


 朝は、いつもと同じように訪れた。


 空は淡い青に染まり、山々の稜線から陽が差し込む。

 鳥の声が、湖畔の林から聞こえてくる。

 風は穏やかで、冷たくもなく、暑くもない。


 だが、その朝は、決定的に違っていた。


 湖面に、何もない。


 昨日まで、そこにあったはずのもの――巨大な影も、艦影も、鉄の輪郭も、すべてが消えていた。


 水は凪ぎ、ただ空を映している。


 最初にそのことに気づいたのは、早起きの水兵だった。


「……あ」


 声にならない声を漏らし、湖を見つめる。

 そのまま、しばらく動かなかった。


 やがて、人が集まってくる。

 誰も騒がない。

 誰も指をささない。


 ただ、黙って水面を見ていた。


 敬礼する者はいなかった。

 泣く者も、もういない。


 昨日、すべてを出し切ったのだ。


 伊藤整一は、少し遅れて湖畔に現れた。


 軍帽は被っていない。

 白手袋もしていない。


 ただの、年老いた男のように見えた。


 彼は、立ち止まり、湖を見た。


 そこに艦隊があったことを、誰よりもよく知っている。

 そして、もう二度と浮かばないことも。


 伊藤は、深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。


「……静かだな」


 独り言のような言葉だった。


 隣にいた有賀幸作が、小さく頷く。


「はい」


 それ以上、何も言わなかった。


 二人とも、もう艦長でも司令長官でもない。

 役職で語るべき言葉は、すでに使い切っていた。


 朝の作業が、始まる。


 畑に向かう者。

 湖に網を投げる者。

 小屋の修繕をする者。


 誰かが号令をかけたわけではない。

 それでも、自然と体が動いていた。


 長いあいだ、軍隊として生きてきた名残は、まだ残っている。

 だが、それはもう命令ではなく、習慣だった。


 若い水兵が、鍬を持ちながら呟く。


「……今日から、俺たち、何なんでしょうね」


 年配の男が、少し考えてから答えた。


「さあな」


 それから、空を見上げて言う。


「でも、生きてる」


 それで十分だった。


 昼近く、伊藤は湖畔の石に腰を下ろした。


 かつて、艦隊を指揮していた場所だ。

 今は、ただの静かな岸辺にすぎない。


 湖の底には、大和がある。

 矢矧も、駆逐艦も、すべて眠っている。


 だが、それを思っても、胸は不思議と苦しくならなかった。


 彼らは、戦わずに終わった。

 それでいい、と伊藤は思えた。


「……これでよかったのだろうか」


 誰にともなく呟く。


 答えは返らない。

 だが、湖は何も否定しない。


 水面は穏やかで、ただ光を反射している。


 夕方、子ども――いや、もはや子どもと呼ぶには背が伸びすぎた若者たちが、湖畔を走っていく。

 笑い声が、風に乗って広がる。


 昨日まで、ここは軍港だった。

 今日は、ただの暮らしの場所だ。


 伊藤は、その光景を見て、目を細めた。


 軍人としての人生は、終わった。

 だが、人としての時間は、まだ続いている。


 沈んだのは、艦だ。

 沈んだのは、戦争だ。


 人は、沈まなかった。


 夜が来る。


 焚き火が灯り、星が空を埋め尽くす。

 湖は暗く、深く、静かだ。


 その底で、鉄の巨人たちは眠っている。

 もう、目覚めることはない。


 だが、その上で、確かに――新しい一日が、続いていく。

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