夏の夜、扇風機の前にて
夏の午後、縁側に腰をかけて、手に持ったアイスキャンディーがじわじわと滴を落としていくのを眺めていたことを思い出す。窓の外からは扇風機の風がぐるぐると回って部屋の中を泳ぎまわり、肌にはひんやりとして心地よいのに、どうしてかアイスには厳しく、あっという間に柔らかくなってしまう。不思議で仕方がなかった。涼しいはずの風が、どうしてアイスを溶かしてしまうのか。子供の頭ではうまく説明がつかず、ただ「アイスは暑がりだから」と自分なりの答えをつけて納得するしかなかった。
そういった不思議は、夏の日常のあちこちに転がっていた。
たとえば、打ち水をすると一瞬ひやりと涼しくなるのに、しばらくすると余計に蒸し暑くなること。水が涼しいのなら、ずっとそのまま涼しさを閉じ込めていてくれればいいのに、と幼い心で思った。けれど水はすぐに蒸発して、逆に暑さを増す。大人になってしまえば湿度のせいだと説明できるけれど、子どもの頃は、まるで水がわざと意地悪をしているみたいに感じた。
蝉の声もそうだった。
朝早くは涼しい木陰で「ミンミン」と澄んだ声を響かせていたのに、昼の太陽が真上にくると一斉に叫ぶように鳴きだして、余計に暑さを思い知らせる。どうして自分たちが暑いときに限って、蝉も大きな声を出すのだろうか。彼らも暑さに耐えきれなくて叫んでいるのかもしれない、などと子どもなりに考えて、でも本当のところは分からずに木の根元をじっと見つめていた。
また、夜になると街灯の周りに小さな虫たちが集まってくるのも不思議だった。真っ暗な空の下で、せっかくの涼しさが戻ってきたというのに、わざわざ熱を帯びた光に群がって、くるくると命を削るように飛んでいる。なぜ暗闇ではなく光を選ぶのか、子どもには理解できなかった。夏の夜の神秘の一部のように思えて、じっと見上げていると自分まで引き込まれてしまいそうだった。
氷の入った麦茶が時間とともにどんどん薄くなっていくのも、どうしてなのだろうと不思議に思った。冷たさをくれる氷が、同時に味を奪っていくなんて矛盾している。氷がそのままの形で冷やすだけなら良いのに、と子どもの僕は真剣に考えた。最後に残った水っぽい麦茶を飲み干しながら、少しだけがっかりした気持ちになるのも、夏の記憶のひとつだ。
そして何より、不思議だったのは時間の流れだ。夏休みはあんなに長いはずなのに、気がつけばあっという間に終わってしまう。朝から夕方まで遊んでもまだ時間はあると思っていたのに、八月の終わりには宿題の山が残っていて、時計の針が急に速く進んだかのように感じられた。夏の太陽は、僕たち子どもにだけ早歩きで通り過ぎていくのではないか。そう思うほど、あの時間の短さは不思議だった。
こうして振り返ると、夏は「なぜ?」でできていたように思う。
涼しいはずの風でアイスが溶けることも、水が涼しさを奪っていくことも、蝉の鳴き声が暑さを増すことも。大人になった今なら、きっと説明できる理屈はいくらでもあるだろう。けれどあの頃の「分からない」という感覚の方が、ずっと鮮やかで胸に残っている。答えを知らないまま、不思議だと思えること自体が、子どもの特権だったのだろう。
今でも夏の夜に扇風機の前でアイスを食べていると、少しずつ溶けていくその滴を眺めながら、あの頃の自分が心の中に戻ってくる。「なんでだろう」と首をかしげて、ただ風と溶ける甘さを味わっていた小さな自分が。
そして僕は思う。あのときの不思議を忘れずにいる限り、夏は永遠に終わらないのかもしれない、と。