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95 車内で二人 2


「こないだ話したと思うけど、うち母子家庭で、もうすぐ母親が再婚するの」


 話すのに夢中になっていたから気づかなかったけれど、ふと視線を向けたとおくんの表情は、至極真剣だった。


「それで、今の家も引っ越すって。だから私の荷物取りに来て欲しいって連絡が来たの」


 父親と別れた後、新たに引っ越した家だ。


 郊外の小さなアパート。そこで、十歳の私は就職する年まで暮らすことになる。


 母は仕事で家を空けることが多かったから、一緒に過ごした思い出はほんのわずかだ。それでも、私にとっては「家」だった。


 久しぶりに帰った実家には、少なくない荷物が置いたままになっていた。


 私の荷物を勝手に処分するのは忍びなかったんだろう。確認して、処分するなら自分でして頂戴と言われた。


 懐かしい匂いと家具に囲まれて、不意に過ぎる思い出に郷愁を駆られながら、もう戻る場所はないんだなと思った。


 そうして、私はまとめられた自分の荷物の上に、一つ、懐かしいものを見つけた。


 つたない文字で、それでも当時ありったけの時間をかけて、一文字一文字、丁寧に書いたものだ。それを私は、よく覚えている。


 仕事ばかりで家を空けがちだった母に、わたしができることを探した結果だった。


 何かの役に立ちたかった。役に立って、私がいて良かったと言われたかった。


 必要とされたかった。


 結局、「お手伝いけん」と書かれた二十枚綴りの手作りの券は、一度も使われることがなかった。


 それが、まとめられた荷物の上に置かれていた。


 使った形跡もなく、汚れた形跡もない。きっとどこかにしまったままだったんだろう。時間が止まったままのように、そのままの姿で、そこにあった。


 ただそれだけなのに、要らない、と言われた気がした。


 きっと私の被害妄想だ。


 おそらく母は、そんな意図はなかっただろう。大事にしまったまま、私の手で書かれたものだから私が処分するのが適当だと思ったのだとしても不思議じゃない。


 でも、当時渡した私の気持ちごと返されたように感じた。


 少なくとも、母にとっては必要なものではなかった。新しい家に持っていきたいと思えるほど、大切なものではなかった。処分を委ねるほど、どうでもいいものだった。


 十歳の、必死で母のためにできることを、と探した私の気持ちも、行動も、もしかしたら私の存在そのものさえ、要らなかったのかもしれないと思い知らされた。


 これからの母の人生にも必要はないんだと、言われているように思えた。


 そんなはずはない、私は愛されている。


 ——だって私は、お母さんが大好きだもん。


 愛を乞えば、間違いなくもらえると思っていた。伸ばした手は、必ず掴んでくれると。


 けれどそれは、いつも叶えられた試しがないことに、私はようやく気づいた。


 それだけだ。


 それだけのことが、取り返しがつかないくらい、決定的に居場所をなくした、と私を追い詰めた。


 時間なのか、家なのか、母の愛情なのか、分からないけれど、もうこの世界に居場所がないと感じたことだけは覚えている。


 訥々と、まとまらない話を終えると、とおくんは静かに口を開いた。


「自分は愛されてたと思う?」


 投げたボールは緩くカーブを描く。高く、受け止められるだけの余裕を持って、遠く。


 いつものような、尖った刃先のような声ではなく、自分が放った言葉の責任を取る覚悟を持った声だった。


「愛されてたよ。じゃなきゃ、この年まで育ててくれてないでしょ?」

「そっか」


 疑いたくない。せめて自分は愛されていたと、思いたい。必要な存在であったと思いたい。


 ためらいなく言い切る私に、とおくんは優しい笑みを返してくれた。


「うん、話してくれてありがと。大丈夫、ちゃんと約束した通り、誰にも話さないから」

「いや、別に隠すようなことでもないけど、聞きたい人もいないと思うから、忘れてくれていいよ。それよりとおくん、体はほんとに大丈夫なの?」


 こっちでは病気は治るかもって言ってたけれど、その自信はどこから来るのだろうか。さっきだって倒れかかってたし、病気が進行しているということはないんだろうか。


「さっきも癒やし手の人が言ってたでしょ? 僕の体がこの世界に馴染めば、多分もう大丈夫なはず」

「……悪化してたりしない?」

「これで悪化とか、向こうにいたときの僕の状態知らないから言えることだよ」


 私の発言を、的外れだとばかりにとおくんが鼻で笑う。

 ということは、これよりもっと状態悪かったってことか。


「それに、向こうにいたときは薬でコントロールしててあの状態だったからね。こっち来てから薬なんて飲めてないし、普通に暮らしててこの状態ならかなり改善してるんだよ。これでもね」

「あの、これは別に悪気があって言ってるわけじゃないんだけど——本当に治る、の?」


 最後の方は聞きづらいことを聞いてる罪悪感で小声になってしまった。そんな私の心情を知ってか、とおくんはあっけらかんと言い放つ。


「だってユエジンさん言ってたし」

「何て?」

「こっちの世界ってさ、基本的に病気ってものがないんだって。だから僕の病気も、この世界に体が馴染むに連れて治っていくだろうって」

「……病気がない世界?」

「ね、ほんとかなぁ。まぁ信じるしかないよね」


 うーん。異世界常識の基本しか勉強してないから何とも言えないけれど、ユエジンさんが言ってたなら信憑性は高い気はする。


 まさか治らないのに期待を持たせるような、そんな人間性を疑うようなことはしないと信じたい。


「体、しんどい?」

「うーん、だるいって感じ。重くて、動かすのが億劫なんだよね。でも最初の頃より大分丈夫になってるって思うよ。騎士団長も鬼の訓練メニュー出してくるし」

「ああ、そういえばこないだ言ってたね」


 きっと訓練も頑張ったんだろう。とおくんの声はうんざりした響きながらも、どこか誇らしげだった。


 その様子に、昨日のとおくんの姿が重なった。


「あの、さ、余計なこと言うかもしれないけど、とおくんって、ほんとにはるくんのこと好きなんだね」

「なに急に」


 突然の話題転換、しかもはるくんのこととあって、なぜかとおくんはさっきまでの親しげな口調から攻撃的な口調に戻ってしまう。


「昨日、とおくん、命を賭けてもいいって言ってたでしょ?」

「あー」


 とおくんの話を聞いた今なら、あのときのあの言葉の重みは変わってくる。


 とおくんは、日本では常に死と隣り合わせだった。身近に死を感じ、死ぬことの恐怖と闘ってきた。


 だからこそ、命を賭けるという言葉は重い。


「あの言葉は、私がとおくんなら気軽には使えない。だから、はるくんのこと、本当に信頼してて、大切で、誰よりも認めてて……っ!」


 ボスッ、とクッションが目の前に飛んできた。


「寝るから。おねーさんちょっと静かにしてて」


 上半身を座席に横たえ、両腕で顔を隠すようにしてとおくんは眠りの体制につくことをアピールしてくる。


 けれど私は気づいてしまった。それがとおくんの照れ隠しであることを。


「……図星」


 ぼそっと勝利のつぶやきを落とすと、「うるさいよ!」と図星だと認めんばかりの反論が返ってきて、私は思わず声を上げて笑ったのだった。


「言っとくけど、あれは僕の思い通りにしただけだから! 輪音っていうかせもできたし、これではるは元の世界に戻らないって安心できるだろ」

「……とおくんって、結構愛が重いタイプね」

「ほんとうるさいよ、おねーさん」


 ちょっと引いてしまうレベルである。まぁ二人一緒にこっちの世界に召喚された辺りで、絆の深さは知れるけれど。


「じゃあ、あとはとおくんの体を治すだけだね」


 こぼれた言葉に応えはなかった。

 けれど沈黙は穏やかで、居心地の良いものだった。




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