94 車内で二人
車内は二人きりだった。
アマヴェンナさんにも同乗を促したのだが、車の外を護衛するためにあっさり断られてしまった。
では癒やし手の人を、とお願いしてみたが、人手が足りないからとさっさと出発してしまわれた。これ以上の癒やしは体に障るから、とも言っていた。
とおくんの体は癒やしは効くけれど、それ以上に体自身が持つ力が追いついていないようだ、とは癒やし手さんの意見だ。
癒やしの効果が発揮できない。癒やしをどれだけ重ねても、体が追いついてこなければ意味がないのだと。
理屈だけではどうにも理解できなかったけれど、そういうものらしい。
そのため、後は自己治癒力を高めるしかないのだそうだ。
自己治癒力は体自身に自然に備わっているもので、今とおくんの自己治癒力は満足に発揮できていない。いわば、封印されている状態なのだそう。
封印が解けるのは時間の問題だと癒やし手の人は豪語していたので、それを信じたい。
しかし、……自己治癒力。この世界では基本的に病気といった概念はどうなっているのか、実に気になる。
そういえば私、こっちに来てから冬にさしかかるというのに風邪を引いていない。毎年季節の変わり目には体調崩すのに、今回は元気そのものだ。
まぁこれは栄養バランスの取れた食事や、十分な睡眠といった生活の改善が多いに関係していそうだけれど。
そんなわけで、車の中にとおくんと私の二人きりなのである。
とおくんは向かいの座席に座り、クッションに上半身を乗せて楽な姿勢を取っている。目を瞑っているから、寝ているのかもしれない。
顔色もさっきよりは良くなったようだし、そっとしておいてあげようと窓の外を眺めながら全く揺れない車内での空の旅を満喫していると、不意に向かいから声がした。
「おねーさんはさ、この旅が終わったら向こうに帰るの?」
とおくんの言う「向こう」は、日本のことだろう。
三ヶ月経つと何だか日本にいたときのことが遙か昔のことのようにも思えてくるから不思議だ。
そして、突然振られた話題に、これまで帰りたいと心から思ったことがないことに気づかされて、愕然とした。
「その顔は、帰りたいって考えもしなかったってことでいいのかな」
どうやらとおくんも、私の顔を見ただけで考えていることが分かるらしい。
「あ、いや、帰るとかよりも、まずこの世界をどうにかする方が先じゃない? 帰ること考えてる余裕がなかったというか」
「ほんとに?」
クッションに身を預けながら、探るような目でとおくんがこっちを見上げている。誤魔化そうとする心を見透かされているような気がして、否定の言葉が続かなかった。
「まぁいいや。僕は戻らないつもりだから、おねーさんが戻ることを選んでも残っても、どっちでもいいし」
元の世界に帰りたい、とすぐさま答えられなかった私の後ろめたさを気遣うようにとおくんは言った。
少しの迷いも見えない、決して戻らないという強い意志が感じられるトーンだった。
「でも、もし、万が一の話だけど、救世に失敗したら? そしたら、この世界は終わっちゃうんだよ?」
「うん、そのときはそのときだよね。どうせ僕、向こうに戻ってもそう長くは生きられないし」
さらりと、何の重さも感じさせない軽さで、とおくんは大きな爆弾を投げた。
聞き間違いかと固まる私の様子を、じっととおくんは見つめていた。その瞳から真実を探ろうとする私の心を見透かすように、とおくんは続けた。
「僕、病気なんだよね。それほど長く生きられないと思う。——けど、こっちの世界でなら生きられるみたいなんだよね」
ポンポンと、言いたいことだけが飛んでくる。
何の解説もなく、こちらの反応も求めず、ただとおくんは言いたいことだけを吐き出してくる。
受け止めきれない、とこちらがギブアップするまで、次々に言葉と情報を重ねてくる。
「あっちにいたときも、別に死んでもいっかなーって投げやりだったけど、こっちに来てから、もしかしたら病気が治って健康で生きられるかもって思ったら、元の世界に戻りたくないなぁって現金にも思っちゃったんだよね」
言葉は軽い。けれど、内容は重い。
おそらく、私が思っているよりもっとずっと。
「生きられるかもしれないって希望を与えられたらさ、死にに帰るのは無理だよ。少なくとも僕は無理だ。だから僕は日本に戻る気はないし、むしろ戻ったら死を待つだけだからこっちに残る気満々なわけだけど、おねーさんはどうすんの?」
覚悟を決めた目がこちらを見ている。
同じ熱量で返事ができなくて言葉に詰まる私に、とおくんは追い詰めるでもなく、世間話でもするみたいな気軽さで言葉を続けた。
「僕、あんまり人に興味持たないし、基本的に他人なんてどーでもいいってタイプなんだけど、おねーさんのことは気になるんだよね。あ、口説いてるわけじゃないから! その気になんないでね、迷惑だし」
そうだ、教育的指導が必要だとちょっと前に考えていた、と次々に繰り出される毒舌に記憶が掘り起こされる。
ここで一言ガツンで言い返してぎゃふんと言わせたい気持ちが募ってくるも、とおくんの言葉は止まらない。
「だっておねーさん、心も体も健康そのものって感じじゃん。負の感情なんて滅多に抱かなさそう」
今まさにあなたに対して抱いてましたけど。教育的指導って拳使ってもいいのかなって腕力に訴えようとしてしまいました。
心の中で懺悔していると、とおくんは好奇心で光る瞳を向けてくる。
「そんな健全な肉体に健全な魂は宿るを体現してるような人がさ、こっちの世界に呼ばれるって何があったんだろうって、気になるんだよね。まぁおねーさんはただ巻き込まれただけで、僕たちとは事情が違うのかもしれないけどさ」
でも、ととおくんは言う。
「こっちの世界に引き寄せられる何かがあったのかもしれない。生きるのに疲れたって思うことが。それ、良ければ聞きたいなぁ」
にっこり、と目を半月にしてとおくんが笑う。心から楽しそうに、答えを期待するように。
「とおくんってさ、前々から思ってたんだけど、ちょっと……かなり、悪趣味だよね?」
「ははっ、そうだよ。性格もひねくれてるしね」
自分が不幸なときはもっと不幸な人の話を聞くことで、自分はまだ大丈夫だと安心するみたいな、優越感を得たくなる気持ちは分からなくもない。
人の不幸話は人ごとだから楽しめるという面もあるのかもしれない。
ただ、それを本人を前にして「死にたい気持ちになった出来事教えて」って楽しそうに聞くのは、ちょっと人としてどうかと思う。
でも。
「まぁ、そんな若くして余命なんて重いもの背負ってちゃ、そうなっても不思議じゃないのかもしれないね」
とおくんは、自分の話はあまりしない。
突然神隠しの話とか投下してくるけど、基本的に人と深くなれ合うことをしない。
人と深く付き合うことを避けるのが、長く生きられないという絶望からだとしたら。割り切った付き合いで、上辺だけの関係だけで満足するようになったのだとしたら。
「……おねーさんは、砂糖菓子以上に甘いよね」
「ん?」
「何でもない。で、おねーさんの事情は教えてもらえるの? 僕、口は堅いよ」
「特に事情と言えるほどのものじゃないんだけど……ただ、疲れたなって思っただけ」
「どういうことに?」
クッションを抱きしめて座席に上半身を寝転ばせながら、とおくんはウキウキした声でこっちを見上げた。目がキラキラしてる。そんなにゴシップが好きか。不幸話が好きなのか。
ちょっととおくんの性格の曲がりっぷりを心配しながら、どう話せばいいのか悩んだ。
「んー。まぁ仕事でも疲れててさ。今の仕事、特にやりたい仕事だったわけじゃなくて、できる仕事だから選んだの。公務員なんだけど、安定してるし、安心でしょ? そういう理由で選んだ仕事だから、ちょっと壁にぶつかると、この仕事続けていく意味あるのかなとか思っちゃって」
それでも、辞めるまでの強い思いまでは至らない。このまま続けていくんだろうと、思っていた。休憩もままならないブラックだけど、必要とされている安心感があった。
休まれては困る、という雰囲気に、私は必要とされているんだと、錯覚しては安心する。続けている理由は、もはやそれだけだった。




