92 タヌキと葉っぱと失恋と
「おそろいですね。みなさまのグリパレも、準備ができているようです」
外の広場へと向かうと、ユエジンさんがいた。フード付きのマントをかぶってはいるものの、見える部分が整った顔面なので、余計に美しさに磨きがかかって見える。
三ヶ月で大分慣れたとはいえ、この世界の顔面偏差値は呆れるほどに高い。
いつものカラフルな刺繍の神官長の礼服ではなく、神官たちが身につけているごく簡素な礼服に質素なマントを身につけている。それなのに見える顔面が輝いているだけで全体が美しく見えるのはどういう現象か。
タヌキの着ぐるみを着せても、この人だったらイケメンに見えるのかもしれない。
なんて。
思ったのがいけなかったのかもしれない。
思い浮かべたのが間違いだったのかもしれない。
お呼びですか、と脳裏にあのタヌキがチラ見えしている。壁からひょこっと顔だけ出したタヌキが、頭の葉っぱをひらひらさせて「お呼びですね」とやってくる。
呼んでいない。ちょっ、呼んでないって!!
「ただ、騎士団の方で調整が必要になったとのことで、今少し時間がかかるようです。どうぞこちらでお待ちください」
「じゃあ僕、ちょっとホールの隅で横になってる」
「では私がご案内します。それから、第二騎士団から癒やし手を派遣しましょう。出発までに少し疲れを取った方がよろしいのでは?」
「うん、お願い」
とおくんとユエジンさんが去った後ろを、私も遅れて付いていくことにした。
「おまけさま?」
「あ、えっと、トイレ! ちょっとトイレ行ってきます」
呼び止めるアマヴェンナさんを振り切って、私は小走りで騎士団員たちが集まる中をかき分けてトイレへ、ではなく、どこか隠れる場所へと向かった。
魔法は何度も練習した。だから分かる。
タヌキが突然頭に現れるときは————。
ポン、と弾ける音がした。
『ほら、やっぱり変化しちゃった』
思い通りに変化できるときもあれば、こうして突然頭の中にタヌキが現れて、「もうすぐ変化させちゃいますね」と伝えに来るのだ。
タヌキが変化させてるのか、私がタヌキに引きずられて変化しているのかは分からないけれど、とにかく変化してしまったものは仕方ない。
とりあえず周囲からは見えないところで変化できていたはずだ。戻ろう、と意識を集中させようとしたところで、強い風が吹いた。
『わ、わ、わぁー!』
ものの見事に飛ばされてしまう。まずい。このまま遠くまで飛ばされたら戻れなくなっちゃう。
えーっとえーっと、と慌てていると、不意に風が止んだ。
風は一瞬だったようで、高くまで舞い上がったにしては、それほど距離は移動せずに済んだ。
良かった、と胸をなで下ろしながら地面につくまでひらひらと他の葉っぱに混ざって揺れていると、不意に声が聞こえた。
「あれは器だ。器として接しろ。それが、お前の役割だ」
強く、拒絶を許さない口調だった。
どこかで聞いたことがある威厳に満ちた声に周囲を見渡すと、ひらひらと揺れる視界の中、二人の男が見えた。
「そうではなかったか、リーンフェルド」
一人はリーンフェルド王太子殿下だ。その王太子殿下を、呼び捨てで呼ぶ人間。
「もちろん忘れてはおりません、父上」
さっきは遠くて視界に収めることすらできなかった、この世界で最も高位にある貴人、王陛下がそこにいた。
ゆらゆらと揺れるのは、重力に従って地面へと向かうからか、それとも私の緊張からか。
「ならば徹しろ。魔のものを討つことが最優先だ。器はそのためのもの。だから私は許可したのだ」
厳しい声は、息子を相手にしているものとは思えないほどに凍えた温度をしていた。
表情を見たくても、葉っぱはすでに地面について、二人の腰の辺りまでは視線が上げられるけれど、高い位置にある表情までは見えない。
「私の大事なルーチェを奪ったこと、決して許しはしない」
ぞっとするほど冷たい声で王陛下は言い捨てて、その場を去って行った。
どくん、どくんと警報のように頭の中で鼓動が響いている。
聞いてはいけない話だったような気がする。そんなトーンだった。
聞いてしまったからには元の世界には戻せないとか、そういう類いの。
何のことだかさっぱり分からないけれど、その危険度だけははっきり分かるような、毒を持つ生物を前にしたときに似た絶望感と焦燥感だけが募っていく。
この場から、そっと、気づかれないように逃げなければ。
ルドから教えてもらった身体強化の魔法を発動させて、ここから移動して安全な場所で元の姿に戻ろうそうしよう。
「器じゃありませんよ、父上」
王陛下が去って行った後を見つめながら、王太子殿下はそっと言葉を落とした。
聞こえなくて良い、届かなくて良い、ただ吐き出したい、それだけの、小さなつぶやきだった。
その言葉を拾えたのは、多分私がいる位置が王太子殿下の足下からそう離れていなかったからだろう。
「ずっと守ってきた——私にとっては、何よりも大切な人だ」
わずかも波を感じさせない凪いだ湖面に、染み入るように消えていく、かすかな、けれど胸が苦しくなるほど切ない声だった。
ずっと守ってきた、何よりも、大切な人————。
膨らみすぎた感情は、弾けるときに一度しぼむんだろう。
一つ息を吐いて言葉を飲み込んで、落ち着けられたと思ったタイミングであふれ出してしまう。
王太子殿下の表情は見えなかった。ただ声だけが、何よりも強く、彼の心を伝えていた。
恋の消火活動なんて、必要なかったな。
ふと数十分前の自分の様子を思い出して、滑稽さに笑ってしまった。思いを抑えつける方法も分からないなんて悩んでおきながら、こんなにもあっさりと思いは砕け散ってしまう。
ずっと守ってきた、何よりも大切な人、器。
それらの言葉から連想されるのは、一人しかいない。
美幼女だ。
様々な魔法が使える美幼女のことだから、おそらく王陛下からは便利な道具、器としてしか扱われてないのだと予想する。
王陛下の言っていたルーチェとは、「私の大事な」という枕詞からして、おそらく王妃殿下だろう。
王妃殿下が封魔の人柱として魔のものを封じるために身を賭しているのは、誰もが知るところだ。
どういったいきさつがあったか予想はできないけれど、王妃殿下を封魔の人柱にすることに、王陛下は反対したけれど王太子殿下は賛成したのかもしれない。
そこから二人は行き違い、最終的に美幼女をめぐって意見の食い違いが生じた。結果として、美幼女を器として使いたい王陛下と、愛する人ゆえに器にはしたくない王太子殿下、という構図ができあがった。
こんな感じだろうか。待って、自分の想像力が怖い。
それなら、美幼女に対する王太子殿下の必死な様子も分かる。大切な人が王陛下に利用されるかもしれないなんて、恐怖だろう。最高権力者なわけだし。
なら、私にできることは何だろうか。
二人が幸せになれるために、私ができることは。
地面に体をくっつけながら考える。
なんてちっぽけなんだろう。
空が遠く、広がっていた。
例えば、私がすごい魔法の能力を持っていたら。
例えば、王太子殿下に匹敵する美貌を持っていて、誰からも認められる知識を持っていて……。
そうだったら、違っただろうか。
どこにも伸ばせない手を握りながら、ちっぽけな葉っぱのまま。
しばらく私は大地の匂いの中で、失恋の痛みに慣れるまでを過ごしたのだった。




