84 美幼女の名前
「まあぁ!! なんてことなの!? あなたたち……っ!」
なぜか背中に回り込んだ美幼女が私を座らせ、肩にかかる髪の毛を払い、うなじの辺りに指を走らせている。
以前美幼女がしるしを付けたところだ。
「そんな、まさか、もう……!?」
訳が分からない。分からないけれど、分かることが一つだけある。
またしても、美幼女劇場の幕が開いてしまったということである。
「あぁ……そう、それならもう、わたくしから言うことは何もないわ。そう、まぁ、こうなることは予想していたとはいえ……複雑だわ。手が早すぎではなくて? でもこれで一つ懸念事項は消えたわね。あなたが受け入れているなら、わたくしから伝えられるのは、感謝だけよ」
どういうわけか嵐は落ち着いたようで、美幼女は神妙な表情で私の正面に立つ。
座り込む私からは、少し見上げる位置にある美幼女の顔。そのご尊顔が、至近距離にある。
少しつり上がった瞳はアメジストの色をして、煌めいている。その瞳の中に私が映り込んでいた。
ふわりと揺れる美幼女の髪が、かすかに私の頬に触れそうになる。ふんわりと花の良い香りがした。
「この世界を救う、異世界からのお客人。救世と献身に心からの感謝を。わたくしで力になれることがあれば、何でも言って頂戴。力を貸すわ。——そうだわ、私、あなたに魔法の使い方を教えようとここに連れてきたのよね。でももう魔法は使いこなしてるみたいだし。そうね、もう一つ大切なことを」
美幼女はいつものごとく一人でさっさと話を進めてしまう。あの、とかえーと、とか口を挟ませてくれる隙がない。
差し出された両手に思わず手を乗せると、ぎゅっと握られ引き起こされた。
美幼女の手は以前にも握ったことがあるけれど、子どもらしい柔らかさと体温の高さが心地良い。
私よりもずっと小さな手なのに、包み込むような強さと温かさを感じる、不思議な手だ。
「ああ、やっぱり、あなたはこの世界を救うためにいらしたのね」
「いえ、私はただのおまけで、救世主たちの召喚に巻き込まれただけの一般人です」
「あら、誰がそんなことを?」
「え? ええっと、周知の事実といいますか。神官長や王太子殿下からもおまけと呼ばれていますし」
知っている限りの権力者の名前を出すと、美幼女はきょとんと目を丸くして、初めて聞きましたという表情をしている。
おや? 掌中の珠では? お知り合いどころか深い仲なのでは?
「ユエジンさんとリーンフェルド殿下って、ご存じですか?」
「知ってるわ、もちろん。でも……おまけって?」
「私、神様に名前を取られてしまって、ここではおまけって呼ばれてるんです」
「そう、ユエジンやリーンフェルドが言っていたの?」
「……はい」
あの二人を呼び捨てにしてるってことは、いよいよもってこの美幼女はただ者ではない。特にリーンフェルド殿下を呼び捨てにできるって、よほどの存在だろう。掌中の珠、恐るべし。
確かに、隠しきれない気品と自信に満ちた振る舞いは高貴な立場を想像させるけれど。
「そういえば、名乗り忘れていたわ。わたくしは、ルツェリーナ。あなたのお名前を聞いてもよろしくて?」
にこりと微笑む美幼女は、天使も裸足で逃げ出すほどの可憐さと、幼女とは思えないほどの艶やかさを纏っている。
至近距離で見る微笑みに、うわぁ、と胸を押さえて落ち着けと唱えた。
ルツェリーナちゃん。
とっても可愛らしい名前である!
「は、はい、私も申し遅れましてすみません。さきほども申し上げたように、私はおまけと呼ばれています」
クセでぺこりと会釈すると、美幼女は分かりやすく機嫌を損ねた。
「違うわ、そんな通称でなく、本名を尋ねているのよ」
いいからさっさと教えなさい、という圧を感じる。
う、でもあれ苦手なんだよな、名前言うときにこう、ぐにゃって感じになるの。
名前を奪われているからか、口に出すとちゃんと伝えられないようにか、空間ごとねじ曲げられるような変な圧力を感じるのだ。
嫌な度合いで言ったら、黒板に爪を立てたときの音に感じるものと近い感じがする。
しかし両腕を組んでさっさと教えろと迫る美幼女に逆らうことは、もっと怖い。
「遙宮ちよこ、です」
ぐぅっと胃の底から引っかき回されるような感覚がした。
音とともにぐにゃりと空間が歪められる感覚。
いくら覚悟していても、やっぱり慣れない、とげっそりしながら美幼女に視線を向けると、ふーんと口を尖らせていた。
その表情は気位の高い美幼女、もといルツェリーナちゃんがすると、ものすごい「効果は抜群だ」を発揮する。
え、待って、ちょんと尖った口がめちゃくちゃ可愛い。何これ。ぎゅってして良いってこと?
「チヨコ」
どぎまぎと浮き足立っていた思考が途端に静かになる。
どうして、とこぼれた声がかすれた。
「チヨコ。チヨコ、……確かに歪められているわね。しかも呼んだものの特定までして追跡魔法まで——本当に、気が遠くなるほどの執念だわ」
いやになるわね、とため息交じりにルツェリーナちゃんは言う。肩をすくめた仕草まで様になってしまうルツェリーナちゃんは、何度か虫を払うように顔周りを手で振り、私を見た。
「まぁ、これなら確かに呼べる者は限られるわね。あなたがおまけと呼ばれる方が良いならそう呼ぶけれど、私はチヨコと呼びたいわ。どうかしら?」
これまで、おまけかおねーさんか、後は名を伏せしものとかあだ名ばかりで、私をチヨコと呼ぶのはツルさんとルドくらいだった。
少しずつ自分の名前を取り戻しているようで、単純な私はそれだけで嬉しくなった。
「ちよこ、と呼んでもらいたいです」
自分で呼ぶときはやっぱり嫌な感覚が襲ってくる。これさえなければ誰彼構わず名前を呼んでと言えるのに。
「良かった。それなら、チヨコと呼ばせてもらうわね。それにしても、自分で自分の名を言うのでさえ負担になるなんて。こんなやり方は悪手でしかないわ。全く、何を考えているのかしら」
最後の方はブツブツと独り言のように言いながら、ルツェリーナちゃんは私の前に手を出した。握手?
「私の魔力を渡しておくわ。大丈夫、今度は倒れたりしないわ。今後のためにも、少しずつ私の魔力に慣らしておかないと」
本日二度目の手繋ぎである。うん、やっぱり柔らかくて温かい。すべすべの肌はなめらかでみずみずしくて、同じ肌とは思えない。
「ほんとうに、心地の良い手ね」
「あ、ありがとうございます。ルツェリーナちゃんの手も、気持ち良いです」
褒められたお返しではないけれど、本心から褒めるとルツェリーナちゃんは驚いたように私を見た。
え、褒められるのなんて慣れすぎて、逆にシンプルな褒め方が新鮮とか!?
ルツェリーナちゃんの心境を推し量ろうとするも、私などが読み取れるわけもない。
「……久しぶりに、名を呼ばれた気がするわ」
そうか。ルツェリーナちゃん、高貴な人すぎて気安く名前で呼んではいけない人なのでは。
私大丈夫だろうか。迂闊にルツェリーナちゃんに会いました、とは言いふらさない方が良いのかもしれない。
「私が私に戻ったみたいだわ」
しみじみとそうこぼすルツェリーナちゃんは、まるで大人の女性のように見えた。
「ありがとう、チヨコ」
優しい微笑みに心が躍る。握られた手をそっと握り返すと、身体中に温かさが広がっていくようだった。
そのまま、湯船に浸かったときのように全身がぽやぽやと温かく、自然に力が抜けていく。
あれ、何か力入らない。
そう思っているうちに、まぶたまで開けていられなくなり、そのまま私は眠ってしまった。




