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71 大神殿の宝物庫




 大神殿にある宝物庫は、聖なる広間を経由しなければならないらしい。


 先日訪れた際に案内された聖なる広間を縦断し、たどり着いた祭壇の奥に、近寄れば分かるものの遠くからではそれと判別できない扉がある。そこから地下に進めば着くそうだ。

 

 扉には鍵も何も付いておらず不用心では、と思っていると、先を行くユエジンさんが無骨な石壁に手を触れ、周囲に光を灯しながらこちらを見た。


「宝物庫は聖なる広間の真下にあります。聖なる広間自体悪しき心を持ったものを寄せ付けない場所であり、宝物庫はさらにその守護が強い。鍵などかけずとも、よこしまな思いを抱くものは何人たりと入ることはできません」


 ははぁ、便利なセキュリティシステムだ。


 幅二メートルほどの石畳の廊下を進み、さらに螺旋状の階段を降りる。


 地下に向かうにつれ、空気がひんやりと冷たくなっていく。


 澱んでいるわけではないけれど、空気の流れがそれほどないからか、吸う息に濃度の濃さを感じた。


 なんと表現していいのか分からないが、喉の浅いところでつっかえるというか、こう、深呼吸するのが難しい感じだ。


 何階分か分からないほどの段数を降りた頃、動いているのにも関わらず体が随分冷え切っているのに気づいた。


 吐く息が白い。そっとアマヴェンナさんが持っていた上着をかけてくれた。


「ありがとう、アマヴェンナさん」

「いえ、宝物庫は保存の魔法が掛けられており、それによって空気が冷えるのです。宝物庫の中に入ってしまえば快適な温度が保たれていますので、どうかそれまでご辛抱ください」


 カツン、カツンと靴音がこだまする。


 ぎゅっと上着の襟をかき合わせて少しでも冷気を遮断しながら進むと、ユエジンさんが止まった。ようやく到着したらしい。

 

 開いた扉の向こうは、まるで豪華なホテルのロビーを彷彿とさせる設えの、さながら博物館のような空間が広がっていた。


 落ち着いた色調の内装。壁には天井まで届く書架。

 色とりどりの背表紙の本がずらりと並んでいる。

 壁以外にも等間隔で並ぶ私の胸ほどの高さの棚には、本以外の資料が展示されているようで、目を見張るほど大きな宝石が付いたアクセサリーや王冠、甲冑、錫杖や木箱といった、大きさも種類もさまざまなものが、どれも整然と並べられていた。


 一歩足を踏み入れると、途端に空気が変わる。


 それまで纏っていた空気がどれだけ冷たく重苦しいものだったのか、呼吸してみてよく分かった。息が吸い込める。


 肺一杯に吸い込めることに感動しながら、ユエジンさんが迷いのない足取りで進む後ろをさらについていった。


 それは鍵のない宝物庫の中で最も重要なものだと、一目で分かるものだった。


 赤い天鵞絨の布の上に鎮座し、ガラスケースに守られた一冊のノート。


 よく知っているメーカー名が表紙に印刷されている、日本ではごく一般的なノートだ。それが、こんな異世界の地で、上質な赤い布をクッションにこれ以上ないほど丁寧な扱いで飾られている。


 不可思議な光景に、ふと笑ってしまった。


 ノートの表面は折り目や汚れもあり、使い込まれていることが良く分かる。表紙には「齋髙伊蕗」と書かれていて、その字は、先日アマヴェンナさんが書いて見せてくれた字とそっくりで驚いた。


 左開きの表紙の上部には、「化学」の文字、そしてその上には二重線が引かれ、上の余白に「なんでも帳」と書かれている。


 それを見た瞬間、唐突に胸がぎゅっと締め付けられた。


 存在したんだ。ここに、確かに、「齋髙伊蕗」という人が。


 その手書きの文字を見た瞬間、それまでは想像上の人物でしかなかった存在が一気に肉を持ち、温度を持った存在へと変化していくのを感じて、しばらくの間、じっとその「なんでも帳」を見つめることしかできなかった。


 カタン、とかすかな音を立てて、ガラスケースを丁寧な手つきで外すユエジンさんをぼんやりと眺めながら、より鮮明に見える表紙の文字に心拍数が上がった。


「どうぞ、おまけさま。お手にとってご覧ください」


 数ヶ月前まで、それは日常の中のどこかで、当然のように存在していたものだった。


 日本では当たり前の風景に溶け込んでいたそのノートは今、この世界でたった一つしか存在しない。


 触れれば溶けてしまう雪の結晶に手を伸ばすような気持ちで、慎重にそのノートを受け取った。


 うん、懐かしい。この厚みも、重みも、肌触りも、手書きの文字も。


 懐かしいとは思うけれど、それが「帰りたい」には繋がらないことを知る。


 郷愁に駆られはするけれど、どうしても帰りたいという強い思いがわき上がってくることはない。その事実に、後ろめたさを感じた。


 ソファがあると案内され、そこで落ち着いて読むことにした。


 表紙は何度もめくっているからか、硬さが薄れて手に良く馴染む。


 一ページ目から三ページ目までは、授業の内容が書かれていた。


 表紙には名前の他に「1-E」と書かれていたから、おそらく高校一年生なんだろう。書かれている公式も、確かに高校の時習ったもののような気がする。


 ということは、私とそれほど変わらない時代の人だったんじゃなかろうか。


 以前、ユエジンさんがこの世界と地球とでは時間の流れが違うと言っていたから、この世界の数百年前の出来事も地球では数週間前ということもあるのかもしれない。


 時間の整合性について考え始めると進めない気がしたので、考えるのは止めて四ページ目に進むことにした。


『ようやく落ち着いたので、毎日書ける気は全然しないけど、日記を書こうと思う』


 可愛らしい文字は大きさが揃っていて読みやすく、落ち着いている。


『夢の中の登場人物だと思っていたのに、実際にゴリムレラにこの世界に連れてこられた時は驚いたけど、可愛い生き物がたくさんいて、ここでの生活も悪くないかなと思えてきた』


 出だしでまず躓いてしまう。


 夢の中で逢瀬を繰り返していたのか、さすがゴリムレラ。とか、可愛い生き物がたくさん? とか疑問が吹き出してくるけれど、とりあえず進もう。


『この世界の人たちはみんな優しくしてくれるし、生活も全然困らない。それにやっぱり生き物たちがみーんな可愛い!!!! 言葉も通じるし、文字も読めるし、ただ私の書いた日本語はこっちの言葉に変換できないみたいで、そこだけはちょっと不便かな。ゴリムレラに言ってみたら、「イブキの書いた神聖で美しい文字をこちらの言葉に変えるだなんて、そんなもったいないことできるわけがない」って言われた。ゴリムレラって、時々良く分からないことを言う』


 ……そうだった、ゴリムレラ、愛が重いんだった。


『ゴリムレラに「日本にはいつ帰れるの?」って聞いたけど、悲しそうな顔で「ずっと一緒にいて欲しい」って言われたから、とりあえず一緒にいることにしようと思う。この世界と日本とじゃ時間の進み方が違うみたいで、本当に戻りたくなったら私が戻りたい時間に戻せるって。すごいファンタジー! 魔法みたいなのも見せてくれたし、明日は私にも魔法の使い方教えてくれるみたい。楽しみ!』


 …………犯罪の香りしかしない。


 飴をちらつかせて誘拐する手口にしか見えないのは、私の心が薄汚れてるからだろうか。


『最近ゴリムレラの元気がない。どうしたのって聞いても、悲しそうに何でもないって言う。これまでは私がぎゅってすると笑ってくれてたのに、最近は避けられてるような気もする。大丈夫かな』


 大丈夫か大丈夫じゃないかで言ったら、多分大丈夫じゃない。囲い込みセンサー、発動してると思う。


 ノートを持つ手が少し震えた。うっかりページを飛ばしそうになって、慌ててページを手で繰る。


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