64 世界の時間と記憶
嬉世ちゃんが姿を消して、初めに取り乱したのはエクランくんだった。慕っていたお姉さんがいきなり目の前で消えたのだから、取り乱すのも当然だ。
ツディーネがぎゅっと抱きしめている間に、エクランくんは心身ともに疲れきったようで、ツディーネにしがみついたままぐっすり眠ってしまった。
その場に座り込んだまま、じっと嬉世ちゃんが消えた場所を見つめ続ける輪音ちゃんに声をかけることもできずにいると、階下が騒がしくなり、突然扉が開いた。
現れたのは、今日もきらきらしい王太子殿下とユエジンさん、そして騎士団長だった。
三人は部屋の状況を確認すると、私たちにソファに座るよう促し、アマヴェンナさんはお茶を用意しに退室した。
騎士団長はエクランくんに目を留め、ツディーネに目配せして頷いている。うん、お父さんの目をしている。
「帰還の門が開かれたと聞きました。開かれたのはキヨさまのものですね」
王太子殿下の静かな声はたずねるものではなく断定するもので、否応なく私たちに現実を突きつけた。
私たちが答えるまえにユエジンさんが言葉を足す。
「この部屋の床に残っている痕跡は、キヨさまのもので間違いないでしょう。帰還の門は開かれ、そして閉じた。問題が生じた形跡はたどれないので、無事に元の世界に戻れたでしょう」
その言葉に、安心していいのかよく分からない感情になる。
「元の世界に帰るかどうかは救世主の希望だって聞いていたけれど、突然何の覚悟もなく戻されることもあるのかな?」
「とお、起きてたのか」
「うん、嬉世がいなくなったから癒やしが消えて目が覚めちゃった。通りで身体が重いわけだよ。休んでる間にこんなことになってるなんてね」
まだ眠いのか目を擦りながらとおくんははるくんの隣に座ってふわぁ、とあくびする。
うん、誰よりも自然体。
この世界のそうそうたるメンバーを前にして緊張感の欠片も見せないとおくんは、退廃的な色気をダダ漏れさせていて、尊敬の念すら抱く。
思えばとおくん、あの神隠し激白のときからかなり自然体になってる気がする。
「トオさまの質問に関しては、私がお答えしましょう。帰還の門はもちろん救世主が望んだときにしか現れません。たとえ大いなる神であるイヴェリーンが望んだとしても、あなた方の意思に反して元の世界に戻すことは不可能です。そういう契約ですから」
ですので、とユエジンさんの声は低くなる。
「わずかでも、元の世界に帰りたいという意思がキヨさまの中に芽生えたのでしょう。ただそれは帰還の門を発動させるほどの思いではなかった。かすかな郷愁だったかもしれません。そこに、元の世界からのキヨさまを呼ぶ強い思いが引力となって、引きずられたのではないかと予想しております。あの方はご自分に望まれた役割を投げ出し、突然この世界を去ることをよしとしない性分でしょうから」
突発的な防ぎようのなかった出来事だと告げられる。
「元の世界の嬉世を呼ぶ強い思いって?」
気になることを言語化したのは真楯くんだった。
「帰還の門が開かれれば、元の世界で召喚した日、場所に戻れると申し上げましたね。しかしこれはより正しく言えば、召喚された日ではあるものの時間はずれるかもしれないということです」
ユエジンさんの声は穏やかで、私たちの表情を見ながら理解できているかを確認している。
「この世界とあなた方が住む世界での時間軸は異なっています。どちらも進む時間の速さは異なるとはいえ、時は止まることなく刻んでいる。あなた方が召喚されてから、この世界で過ごす時間はあなた方の世界で過ごす時間の数万分の一となるよう調整しています。ですので、あなた方の世界でもすでに一時間近くは経過しているでしょう」
ユエジンさんがちらりと室内にある置き時計を見た。地球にあるのと変わらないデザインの時計。秒針が振れる速度も、違いがあるとは思えなかった。
それでも、この世界と元の世界では時間の進み方が違うという。
「その間に、キヨさまを心から求める者が、キヨさまを呼んだ。おそらくキヨさまが元の世界に戻りたいと願った理由でもあるでしょう。呼ぶ思いとキヨさまの元の世界に帰りたいというかすかな思いが重なって、帰還の門は開かれた。極めて異例なことです」
話し終わっても、誰も口を挟まない。私はただただ、理解するのに必死だった。
「帰還の門の契約については、少し見直す必要があるかもしれない」
「そうですね。救世主様方の意思を何よりも尊重するように、内容の変更を打診しましょう」
契約とやらの見直しについて議論を詰める王太子殿下とユエジンさんを置いて、真楯くんはそっと輪音ちゃんに聞いた。
「元の世界で嬉世を強く求める者って、心当たりある?」
「……多分、弟だと思う。あの子、嬉世ちゃんのこと、好きだから」
凪いだ海のように静かな輪音ちゃんの様子に、心がざわめいた。
一番心を寄せていた親友がいなくなって取り乱してもおかしくないのに、現実を受け止めてすっかり消化してしまったかのように、輪音ちゃんはいつも通りの明るさを覗かせている。
「うん、あの子なら、嬉世ちゃんが予定の時間に帰ってこなかったら呼び出しそう。それにきっと、嬉世ちゃんが帰りたいって思ったのは、その弟を思い出したからだと思う。嬉世ちゃんあの子のこと、とても大切にしてるから」
嬉世ちゃんのことを話す輪音ちゃんは、どこか誇らしげにも見える。それが見せかけの明るさにも映って、胸が締め付けられた。
しんみりした空間に切り込んだのは、安定のゴーイングマイウェイ、とおくんだった。
「半身がいなくなったってのに、案外平気なんだね」
言い方!! 切り込み隊長もいいとこですよ。
確かにこの世界に二人一組で来たとおくんとはるくん、嬉世ちゃんと輪音ちゃんは、お互いが元の世界で一番大切な者同士だから一緒に召喚されたんじゃないかって仮説を立ててたけれども。
「悲しいなら悲しいって顔すればいいのに」
「とお」
「それとも衝撃すぎてまだ理解できてない感じ?」
「やめろ、とお」
そうだよ、とおくん口走る傾向があるからほんと心臓に悪い。ちょっとお口にチャックしてよう!?
「悲しい……? 悲しいっていうより、やっぱりなって感じと、良かったなって感じの方が近いかも。嬉世ちゃんは私がこっちに引きずり込んだんじゃないかって思ってたし、もし最後まで一緒にいたとしても、戻るか戻らないかは嬉世ちゃん自身が決めることだから、早めに戻れて良かったのかなって思う。あーでも、こっちで一緒に過ごした記憶が消えちゃうのは寂しいなぁ」
元の世界に戻ったときは、こちらの世界の記憶は全て消えてしまうと言っていた。私たちと過ごした記憶もなくなってしまうということだ。
それは私も寂しいな、としんみりしていると、王太子殿下との話が終わったのかユエジンさんが口を挟んだ。
「そうですね。それに、もしモトネさまがこちらに残ることに決めた場合、あちらの世界でモトネさまと過ごした時間も含め、モトネさまに関する全ての記憶を失うでしょう」
「え、それ初耳ですが」
「ええ、今初めて申し上げました」
邪気のない笑顔は聖職者の嗜みなのか。
またそうやって色々隠して後出しするんだから、と憤慨していると、凍り付いたようにこちらを見つめる瞳と出会った。輪音ちゃんの瞳だ。
「どういう、意味ですか? 嬉世ちゃんが私のこと、忘れちゃうんですか?」
「先ほど申し上げたように、この度の救世はあなた方の世界での一日が終わる頃までに果たされる予定です。言い換えれば、あちらの世界における召喚された日が終わる頃がタイムリミットということです。それまでに魔のものは討たれるか、この世界は終わります。ですから、もしこの世界の救世が果たされ、この世界に残ると決めた場合、あちらの世界でのあなた方の痕跡は全て消え去ってしまいます。——はじめから、存在しないものとなるのです」
まるで聞いたことのないお話ですけど。
「ああ、付け加えねばなりません。あなた方はいつでも元の世界に帰れると申し上げましたが、それは救世が果たされるまで、そして果たされた直後までです。その際こちらに残ると決められたのであれば、二度と元の世界に戻ることはできません。その覚悟も、決めておいていただく必要がありますね」
次から次に与えられる情報に、嬉世ちゃんが元の世界に帰ってしまった悲しみに浸りきれない。
「それって初めに言っておくべきことじゃない?」
誰もが唖然とする中、いち早く反撃したのはとおくんだった。




