46 魔のもの
ぼんやりと浮かび上がるように、周囲の水滴を吸い寄せているかのように、何もなかったはずの空間に、黒い靄のようなものがふわふわと漂い始めたのだ。
「ひっ、えっ、何これっ」
慌てたのは私だ。こんな異様なもの、見たことない。アメーバのように自由に形を変えて、意思を感じさせる黒い靄。——あれ、何かそんなの聞いたことがあるな。
「これが、魔のもの……」
ぽつりと嬉世ちゃんの声が落とした言葉に、この世界で得た情報がめまぐるしく頭の中を巡っていく。
そうだ、魔のものだ。え、魔のものって、あの魔のものだよね!? いや、こんな間近にいて大丈夫なの!? 確か魔のものって、人に取り憑いて内側から食い破るエイリアン的なやつだよね!?
「どういうこと? どうして魔のものがここにいるの、それにこの気配……」
美幼女の表情は見えないけれど、戸惑っている様子はその声から十分に察せられた。
おそらく魔法の力も桁違いみたいだし、このメンバーの中で一番強いだろう美幼女の不安そうな声は、自他ともに認める最弱メンバーとしては不安を煽る要素でしかない。
そうだ、メイドさんは、と視線を動かしたとき、黒い靄の動きが変わった。
それまでふわふわ自由な動きを楽しんでいたらしい魔のものは、現れたときと同様突然にその姿を消した。
「消えた?」
内側から食い破られる恐怖が去ったと、ほっと胸をなで下ろしていると、メイドさんの鋭い声が響いた。
「伏せてくださいっ!」
ガサガサッと大きなものが草木を猛スピードでかき分けてくる音がする。どこから、と視線を動かしたところで、それが目の前に姿を現した。
足の数は分からない。身体の両側に無数の足があるその生き物は、堅いうろこで全身を覆った、ワニのような生き物だ。
口が大きくて、目は三つ以上ある。頭から飛び出した触角のようなものは鎌状になっていて、非常に鋭いのが遠目で見ても分かる。おそらく旧生物のココオベワだろう。
ただ図鑑で学んだものよりも一回りは大きく、何よりその身に黒い靄を漂わせている。
確かココオベワは非常に穏やかな性格で、普段は人目にはつかないところに生息していて、その生態が謎に包まれているほどだと書かれていたと思う。
それなのに、目の前のココオベワはよだれをダラダラ垂らし、こちらを襲う気満々だ。
異様な光景に、美幼女が口を開いた。
「見せたかったものはこれじゃなかったけど、これも見ておいてもらった方がいいわ。もう時間がないのが分かるわよ。ね? 魔のものは、私たち人だけでなく、旧生物をも餌食にし始めたの」
視線だけをこちらに向けて、美幼女は現実を見ろと促してくる。
「これがココオベワじゃなくてもっと攻撃的な旧生物だったら、今のわたくしでは手に負えないわ」
ふぅ、と一つ息を吐くと美幼女はまっすぐココニベワに向き合い、その眼力を強めた。
黒い靄がざわめいている。ココオベワの動きも止まり、まるでスイッチを切ったかのように動かなくなった。
「え、死んだんですか?」
「違うわよ、一時的に仮死状態にしてるだけ。一度戻りましょう。ここはもう安全な場所ではないみたい。まさかここまで魔のものが現れるなんて、想定できなかったわたくしのミスね、ごめんなさい」
素直に謝る美幼女に、私は感動してしまった。
これまでの上司は何でもかんでもこちらの責任にしてくるのが常だったから。この美幼女は沸点は非常に低いけれど、それほど悪い子ではないみたいだ。
さぁ、と手を握るように差し出されたので、危険が去ったことへの安堵の息を吐きながら手を延ばした。
小さな白い手は、これまで見た誰の手よりも頼もしく見える。
けれど、その手に触れることは叶わなかった。
延ばした瞬間、私の手の平に熱が走ったからだ。
「き、きゃああぁぁっ!!」
「おまけさまっ!」
「どういうことっ!? 確かに仮死状態にしたわっ!」
周囲の混乱をよそに、私は一人何が起こったのか理解できずにいた。ただ、手の平が熱い。その熱が、こぼれ落ちていくように地面に鮮やかな赤を落としていく。
ああ、これ、血だ。熱いのは、血が溢れてるからだ。
おそらくさっき仮死状態だったココオベワの触角に裂かれたんだろう。
血が溢れて傷口が分からないけれど、手の平が心臓になったように脈打ってるのは分かる。
目の前のことが処理しきれず、溢れ出す血と同様、全身から力が抜けていくまま私は地面にへたり込んだ。
「おねえさん、大丈夫ですか!? 今治しますねっ!」
座り込む私の肩を支えながら、嬉世ちゃんがネックレスを握り込んで力強く請け負ってくれる。
そうだ、嬉世ちゃんの癒やしなら、すぐに治る。
ココオベワは逃げたようで、ひとまず周囲に危険はなさそうなのか、メイドさんもやってきて私の手を高く上げ、傷口をハンカチで押さえてくれた。
美幼女はどうしただろうとゆっくり視線を動かすと、真っ青な顔をして少し離れた場所からこちらを見ていた。
まるで取り返しのつかないことが起こってしまったかのような、この世の終わりを目の前にしているかのような表情だ。もしかしなくても、この怪我を気にしているのだろうか。
大丈夫なのに。嬉世ちゃんがいるから、癒やしの力ですぐに治るのに。
ぼんやりと静けさを感じながらゆっくりと閉じていくまぶたをどうにかして押し上げる。
開いた視界に、美幼女の今にも泣き出しそうな顔が見えた。その唇が、震えながら動く。
「ごめんなさい」
音は聞こえない。ただ、唇の動きがそう言っているのだと伝えてくる。
気にしないで、と私も唇を動かそうとするのに、かすかに動くだけで伝えられている気がしない。
そういえば、さっきまで聞こえていた嬉世ちゃんとメイドさんの声も聞こえなくなった。
「すぐに、帰すわ。手当を」
今度の声ははっきり聞こえた。
けれど視界は真っ暗で、眩しいほどの美幼女の姿は、どこにも見えなかった。




