44 諦めと迷い
前回の投稿時、間違えて完結済みにしてしまっていたようです。まだしばらく続きます。
完結済みだと思って読みに来てくださった方、本当に申し訳ありません。……頑張ります!
「ピアノは四歳から始めました。親は嗜み程度に習わせるつもりだったんでしょうけど、習い始めると楽しくて。幸い一日中弾き続けても誰にも文句を言われない環境だったので、朝起きてから寝るまで、思う存分ピアノが弾けることに感謝していました」
家庭環境は複雑だけど、与えられる環境は一般的な高校生よりも恵まれていると、高校生とは思えない大人びた表情で嬉世ちゃんは言った。
その顔はもう庇護されるだけの子どもではなく、叶わないことへの執着を断った諦観が滲んでいた。
「コンクールに出たいと言っても、きっと無関心だろうと思っていたんです」
与えられた環境の中で自由の範囲を探る。
嬉世ちゃんにとっての自由は、ピアノを弾き続けることだった。
弾き続ける中で、師事していた先生からコンクールへの打診を受けたそうだ。それまでずっと、ただ自分を満たすためだけに弾いていたけれど、外の世界の人たちにも響くのかもしれない、とそのとき嬉世ちゃんは思った。
それまで、嬉世ちゃんのピアノの聴衆は幼い義弟と輪音ちゃんだけだった。だから、それ以外の人たちがきよちゃんのピアノを聴いてどう感じるのか知りたくなったのだという。
「けれど私の考えは否定されました。嗜み程度で良いものを、玄人並の技術を身につける必要はないと。私たちはプレイヤーになる必要はなく、評価する側でなくてはならないと。私は反発しました。評価する側であるならなおさら、プレイヤーであったことが生かされるだろうと。だから一度だけでいい、コンクールに出させてもらえないかと」
きっと嬉世ちゃんのことだ。これまでにここまで引き下がることはなかったんだろう。それを脅威と感じたのかもしれない。反抗期だと片付けるには強すぎる思いを見たのかもしれない。
「おじいさまは許してはくれませんでした。うちではおじいさまが法律なんです。おじいさまが全ての裁量権を持ってる。だから、おじいさまがダメだと言うならそれはもう金輪際話題にも出せない。……でも私、諦めきれなくて。コンクールで弾く予定だった曲を、ずっと練習し続けてるんです。未練がましいですよね」
コンクールに出たいという気持ちを弔うためだけの練習を、嬉世ちゃんはずっと続けている。
寂しそうに笑う嬉世ちゃんの視線は鍵盤に向かっていて、それは諦めとかすかな希望にすがるような複雑な思いが滲んでいた。
「それがここに召喚される二日前の出来事です。私は、帰りたいとは思いませんでした。家に帰るといつもピアノを弾いていたのに、それが二度とできなくなった。だから家にいるのも、居場所をなくしたように感じていて。この世界に来て、ピアノももう一度弾けるようになって、私の望んでいたものを手に入れたという気さえしています。——この世界は窮地に瀕しているのに、非常識にもほどがありますよね。それでも、私は召喚されて良かったと思っています」
小さな声で、潜めるように落とされた言葉は罪悪感が漂っていた。下ろした両手は軽く組まれていて、そこに視線を落として嬉世ちゃんは儚げに笑う。
「だからといって、逃げ続ける訳にはいきませんから。もちろんこの世界を救うためにできることは全力を尽くして、これからどうしたいのか、もう少し迷っていたいんです」
単純に時がくれば帰れると考えている私とは違い、嬉世ちゃんたち救世主には課せられた使命がある。その重責に堪えながら、帰ることも考えなければならない。
安穏と過ごすだけの私とは立場が違うのだと、分かっていたはずなのに覚悟の違いを見せつけられたような気がした。
頑張って、とも私にできることなら何でも協力する、とも言えなかった。
どんなに言葉を尽くしても、嬉世ちゃんの覚悟に寄り添うには、足りない気がしたから。
「あの、すみません。困りますよね、こんなこと一方的に話されても。私、この世界に来て、おねえさんに出会えて良かったです。こんなことでもなければ、おねえさんやみんなとも会えなかったと思いますから。この出会いに感謝しています」
ああほら、やっぱり妖精の国なんだ、ここ。
本来なら私が気遣わなきゃいけないところを、妖精姫自ら気遣ってくれてる。
自分の不甲斐なさに落ち込みながら、そっと嬉世ちゃんの頭を撫でた。嬉世ちゃんは突然の私の暴挙に驚いて瞳を大きく見開くものの、されるがまま、私のしたいようにさせてくれる。
「ごめんね、何の力にもなれないことが悔しくて、何て言っていいか分からなくて。言葉が見つからなくて。けど、話してくれて、ありがとう」
固まったまま私の行動を受け止めていた嬉世ちゃんは、ふっと力を抜いて笑った。
「おねえさんが、ほんとにお姉さんなら良かったなぁ」
そう、ほんとに小さく小さく呟いて、私の気が済むまで頭を撫でさせてくれたのだった。
どれくらいそうしていたのか、それまで私たちを見守り続けてくれていたメイドさんが声をかけてきたのは、随分経ってからだと思う。
「おまけさま、そろそろお勉強のお時間です」
そういえば午後も勉強会だって約束してたんだった。
でも嬉世ちゃんを置いていくわけには、とメイドさんに目で訴えかけてみるものの、無表情が返ってくるばかり。
普段私の心の声を的確に読み取るメイドさんであるからして、これは譲れないってことなんだろう。
「嬉世ちゃん、ごめん。私もうそろそろ行かなきゃ。嬉世ちゃんはどうする?」
「私は、できればもう少しピアノを弾いていたいです」
「この部屋でしたら夕食まで自由に過ごしていただいて構いませんよ。メイドも控えておりますので、ご用があればいつでもお呼びください」
見れば嬉世ちゃん付きのメイドさんも壁に控えていた。いつの間に。
じゃあまた夕ご飯で、と手を振って部屋を出ようとした、そこで見たものに、私は思わず足を止めた。
風もないのにふうわりと揺れるドレスの裾。
音もなくその場に現れた美の結晶に、私は息を止めた。その美しさと、再会の驚きに。
「おねがい。もう時間がないの。一緒にきて」
切迫した状況を訴えるような表情は、悲愴感に満ちていてこちらの胸まで痛くなる。突然現れた美幼女はそう宣って、滑らかな手を伸ばして私の手を引いた。
「え、あの、でもどこへ?」
「詳しく説明しているひまはないのよ。とにかく急がなくちゃ」
急かされるままに扉に向かう私の腕を、反対側に引く腕がある。強い力に、思わず背後につんのめった。
「おまけさま、一体どちらへ?」
私の腕を引っ張ったのは、メイドさんだった。その後ろで嬉世ちゃんもネックレスを握りながら不安そうにしている。
「あの、どこかは分からないんですけど、どうも急を要するようで」
「——一体、どなたとお話しているのです?」
「え、メイドさんですよね? 一体どちらへ? って、質問しましたよね?」
もしかして幻聴か?
メイドさんの質問の意図が分からず戸惑いながらも前後に引っ張られる腕の痛みを感じていると、メイドさんの表情がさらに険しくなる。
同時に、美幼女の腕を引っ張る力も一段と強くなった。
ちょっ、裂ける裂ける!
「のんきに問答している時間なんてなくってよ。急いでるって言ったのが聞こえなかったの!?」
ああほら、怒りのスイッチ入っちゃうとあとはもう沸騰するまで一瞬だから。ここはとりあえず美幼女の機嫌を取っておきたい。
「大丈夫です、今行きますよ。あの、ちょっと出てきますね。すぐに戻るんで……」
「おまけさま、そちらにどなたかいらっしゃるのですか? なぜ腕を前に出しておられるのです?」
滅多に感情を乱さないメイドさんの声が、揺れている。
美幼女が掴んでいる私の腕を見つめているけれど、どうにも美幼女の姿を捉えられていないよう。……ん?
「あの、ここにくだんの美幼女がいらっしゃるんですが、もしかして見えない、とか……?」
おずおずと切り出した質問に、メイドさんも、嬉世ちゃんも表情を変えて首を振った。




