43 地上に舞い降りた天使
「嬉世ちゃんも、疲れてない? 野営なんて初めてでしょ?」
「はい。ですが用意はほとんど騎士団の方々がしてくださったので、私たちは何もしていないんです。魔のものにも出くわしませんでしたし」
「私はほとんどこの宮殿から出ないから分からないんだけど、外はどんな感じなの? 魔のものの被害が見えるとか、暗い雰囲気とか?」
「今回の遠征では街道を通らず空から街の様子を見たのですが、魔のものに襲われた街はこう、空気が澱んでいるような印象を受けました。土地自体が人を寄せ付けなくなるようで、生き延びた人たちは別の集落で生活していると聞きました。……正直、こんなにゆっくり遠征していていいんだろうかという気持ちになりました」
三つ子の真珠を握りしめたまま、嬉世ちゃんは気落ちした様子で視線をさまよわせた。
嬉世ちゃんの癒やしは自分自身にはかけられない。だからこそ、嬉世ちゃんには気分転換が必要だと感じた。
さっと周囲を見回してみると、いつの間にかメイドさんたちがブランケットを掛けてくれたようでぐっすり眠りこけている真楯くんととおくん、部外者が入り込めない良い雰囲気の輪音ちゃんとはるくんがいる。うーん。
嬉世ちゃんの気分転換といえば、ピアノなわけだけど、今ここで弾くのはちょっと憚られる。ぐっすり寝てるから、きっと起きはしないと思うけれど。
さてどうしようと悩んでいると、どういうわけだかメイドさんがやってきて「こちらに」と言うではないか。
戸惑いながら付いていった先は元いた部屋から少し離れた広間で、そこにもピアノが設置されていた。
いくら私が顔に出やすいからって、ここまで読み取られるともはや言葉なんていらないんじゃないかとさえ思える。
「どうしてこの部屋に?」
嬉世ちゃんは戸惑ったように広間の中を見回している。
ほらやっぱり普通の人は私の表情だけじゃ何を考えてるかなんて分からないよ。良かった、私の思考が筒抜けじゃなくて。
「あそこのピアノ、弾いてみない? ほら、部屋だと弾けるような雰囲気じゃなかったから。ここだと気分転換に弾き放題! 私も聴き放題で嬉しいし」
「弾きたいです!」
私のためにわざわざこの部屋まで案内してくれたんですね、と嬉世ちゃんは私に感謝しているけれど、それは違う。メイドさんの功績だ。
そしてそんなメイドさんは、いつの間にかピアノの近くに設置したテーブルと椅子にお茶とお茶菓子を並べ始めた。働き過ぎではないだろうか。
嬉しそうにピアノに近づいていった嬉世ちゃんは、足取りも軽やかだ。さっきまでの暗い表情とは異なり、目も輝いている。ほんとにピアノが好きなんだなぁ。
この世界ではリュージーネリアと呼ばれるこの楽器の見た目は、ほぼピアノだ。
ピアノに慣れ親しんでいる嬉世ちゃんからしても、音色が少し違うだけで弾き心地もほとんど変わらないらしい。
椅子の位置を確かめて軽く座り直し、嬉世ちゃんは鍵盤に指を乗せた。
静寂にすっと入り込む、音の並び。
怒濤のように、正確に一定の速さで紡がれていく旋律は機械にも等しく、揺らぎも見せない。音の洪水のように上がっては下がるめまぐるしい音の波に圧倒されているうちに、また別の曲へと移っていく。どれも音の強さ、速さ、リズムが一定で崩れもしない。
一体どんな風に指を動かしているんだろうと手元に目を向けるけれど、動いているっていうのが認識できるだけで、指の動きを目で追えない。
すごい勢いで右から左へと動いていく。発声練習の時に音階を徐々に上げたり下げたりするけれど、何となくあれに似ている。
ということは、これはピアノの発声練習で、指をほぐしているのだろうか。
音の威力は、すさまじい。胸に迫る勢いに圧倒されているうちに、音は止んだ。
ふぅ、と嬉世ちゃんが息を吐く。一度鍵盤から指を下ろし、姿勢を整えた。
あ、曲に入った。
ポーン、と響く音は、先ほどまでとは全く違う、軽やかで繊細な音だった。
ああ、この子はピアノを弾くために生まれてきたのかもしれない。
月並みで言い古された言葉が浮かんでくる。それ以外の言葉が見つからなかった。
音が生み出される。時に力強く、壊れそうなほど繊細に、流れるように、心浮き立つように弾んで。
ただただ圧倒される中、音楽への造詣が深くない私でも一つだけはっきり分かることがある。
これはもう、趣味の域を軽く超えている。素人目でもプロの演奏だと言われても納得するような技量と表現力だ。
どれくらい経っただろう。ピアノと一体になって弾き続ける嬉世ちゃんは、疲れの色も見せない。むしろ生き生きと顔を輝かせている。
どこかで聞いたことがある曲も混じっていたけれど、ほとんど知らない、おそらくクラシックだ。
次の曲は、と耳を澄ませると、どこかで聞いたことがある曲だった。
リズミカルに音が跳ねて心を躍らせる。わくわくするような、キラキラした星を眺めるような……ああこの曲、「きらきら星」だ。
馴染みのあるきらきら星の曲調からかなりアレンジされているけれど、跳ねて遊ぶ音たちがキラキラと輝いて消えていく流れ星のようだ。
愛らしい満点の星をスノードームに集め、力一杯振って散らばる星がきらめくような、そんな調べを奏でている。
きらきら星を弾く嬉世ちゃんの表情は星よりもずっとずっとキラキラしていて、音を奏でに行く指はたおやかに宙を舞って、踊っているかのよう。
これもう妖精姫じゃ言葉が足りない。
——天使。そうだ地上に舞い降りた、聖なる音楽を奏でる天使だ。
最後の音が宙に解け、ふっと静寂が落ちる。音の響きが溶けいるのを聞き届けてから、嬉世ちゃんは腕を下ろした。
「久しぶりにがっつり弾けました。楽しかったです」
晴れやかな笑顔に、張りのある声で嬉世ちゃんは言った。
余韻にどっぷり浸かって拍手するタイミングを逃してしまった私は、見惚れるようにその笑顔に見入ったのだった。




