32 掌中の珠
「と、ユエジンさんはおっしゃってるんですが、これほど熱心におっしゃってくださってるのをむげにするのも私の心が痛みますし、私もまだ知りたいことがあるので、ユエジンさんに教えてもらいに行ってもいいですか? もちろん、大神殿に行くときは事前に許可をいただくとお約束します」
宮殿外に出るのが問題なんだとしても、事前に申請しておけばどうにかならないだろうかと思いながら言葉にしたものの、王太子殿下の表情は渋いままだ。
「いかな近い将来天下を統べるに相応しい素質を備えた殿下といえど、無辜の民の学ぶ意欲を摘み取るようなことはなさいませんでしょう? それでは暴君もいいところだ。掌中の珠を傷つけられそうになり焦る気持ちはお察しいたしますが」
ふぅ、とため息を吐きながらユエジンさんは苦言を呈する。
そのまま王太子殿下を説き伏せてくれればいいものを、「そう思いませんか、おまけさま」と私も会話に巻き込もうとしてくる。
「おまけさま、殿下は現在、気を荒げていらっしゃる。それというのも、常日頃それはもう手を尽くして気にかけていた大切なものが、あわや傷つけられるという事態に見舞われたからです。殿下、事後処理もおありでしょう。おまけさまには私がついていますから、どうぞ」
ここで私は「掌中の珠」というワードに引っかかった。その言葉を聞いて、ある美幼女が思い浮かんだのだ。
「その掌中の珠って、四、五歳くらいの女の子ですか? お人形みたいに可愛い」
思いついたまま発した言葉に、返ってきた反応は予想以上のものだった。
「っ、会ったのか!? どこで会ったのです? どんな話を!?」
王太子殿下との付き合いはごく最近の短いものだけれど、この人がこんなに取り乱すなんて夢にも思わなかった。
むしろ取り乱したことなんて生まれてこの方ありません、ってくらい穏やかそうなのに。
ちょっ、やめて、顔は変わらず美しいんだからそんなに近寄ってこないで!
「う、え、あ、ちょっ、ちょっと離れてください! 答えますからっ!」
全力で両腕を突っ張り、迫ってくる王太子殿下を押す。
全然びくともしないけど、ひーひー言ってる私を哀れに思ったのか、きちんと距離を取ってくれた。
良かった。もう少し自分の美貌が凶器になると自覚してもらいたい。
「あの、今日ユエジンさんと別れたあと、臙脂色のドレスを着た女の子に会ったんです」
必要最低限の情報を口にしただけで、二人には思い当たる人物がいたらしい。その顔は何とも形容できないものだった。
やはり王太子殿下の掌中の珠であったか。
「名前は名乗っていませんでしたが、濃紫の髪に、同じく紫の瞳の、見たこともないような美幼女でした。容姿だけでなく声も涼やかで可愛らしく、思わずうっとりするほど心地良いものでした。見た目は四、五歳くらいなのに随分しっかりしていて、生粋のお嬢様って感じで、私に命じる姿は貫禄さえ感じるほどで。ちょっと情緒は不安定でしたが、そこもまた魅力的に映りました。地団駄踏んでる姿なんて、自分で感情を制御しきれないっていう生命力に溢れていましたし、ああそれから」
「おまけさま、幼女の特徴については非常によく分かりました。ありがとうございます。ところで、その幼女とはどのように過ごしたんですか?」
話し続ける私の言葉に割り込むようにユエジンさんが問いかけてきた。
「過ごした時間はほんのわずかです。森の中へ行って、座ってと言われたので座って、背中に回って何かしたかったようです。そこで何か、思いがけないことがあったようで、何だか怒りだして、服を脱がされました。で、しるしを付けるとか言って首の後ろを触られて、そこからちょっとよく分からないです」
私が一通り話し終えると、しん、と室内に沈黙が落ちた。
ユエジンさんは頭痛がするのか頭を片手で押さえている。
「問いただしたいところは多々ありますが、それは後でじっくりお話するとして。その幼女はしるしを付ける、と言っていたんですね?」
「はい」
先ほどまで浮かべていた微笑は痕跡すら残さず綺麗に消えていた。
真剣な表情で、ユエジンさんは私に、後ろを向いて触れられたところを見せるよう指示した。
倒れたときには肌着代わりのワンピースだけしか身につけていなかったけれど、メイドさんが着せてくれたのか寝間着代わりの比較的厚手のワンピースを着ていたので、そのまま二人に背を向けて下ろした髪を片方に流してうなじをさらした。
自分で触れてみても、特に何も違和感はない。
「殿下、余計なことはなさらないでくださいね」
ユエジンさんが釘を刺す声が聞こえる。
「あの、何か変わったことありました?」
「見た目は特に変わっていないようですよ。本来であれば見て分かるしるしであったようですが、顕在化させるほどの魔力量がなかったのでしょう」
「……しるしって一体なんですか?」
もういいですよ、と言われて髪を整え、二人の正面に向き直って居住まいを正す。
ユエジンさんは疲れたような笑みを浮かべ、王太子殿下は穏やかさとはほど遠い険しい表情をしていた。




