20 必要なものは、食材図鑑
日々は瞬く間に過ぎ、かれこれ一ヶ月が過ぎようとしている。この世界の生活にも慣れ、メイドさんにお世話してもらうことにも抵抗がなくなってきた。
いよいよもって元の世界に戻った時が恐ろしいけれど、せっかくなのでこの世界を満喫しようと思えるようにもなってきた。
そう思えているのも、私が騎士団の訓練に参加することや、魔のものや戦闘を目の当たりにすることもなく、穏やかな日々を送れているからだろう。
何の責任も負わず、日々自分のやりたいことに費やせるなんていつぶりだろうか。小学生以来じゃないだろうか。
この一ヶ月、私がしたことと言えば、迎賓館でもあるこの宮殿の探検。これは全部屋制覇するのに一週間かかった。
次の一週間は、宮殿周りの庭や併設されている騎士団訓練場を探検した。その次の週からはこの世界の常識について調べるため、図書館にこもった。
召喚された時から言葉に苦労しなかったけれど、文字も勝手に日本語に変換されるようで、見たこともない文字なのに読めるのが面白く、初めの一週間はとにかくいろんな本を読みあさった。
本にも魔法がかかっているのか、読んでいるところで分からない単語があれば、なぞるだけで余白に意味が表示されたり、緻密に描かれた挿絵は映像のように動いたり、拡大縮小が自由にできたりするなど、面白い機能がたくさんついていて、中身よりもどんな仕掛けがあるのかの方に夢中になった。
そうして私が読書に夢中になっているのを知ったメイドさんたちが、おすすめの本を持ってきてくれるようになった。
そんな私が今気に入っているのが、この世界の貴族名鑑だ。
この貴族名鑑、名前や家系図には姿絵が描かれていて、それがとんでもなく美麗で眺めているだけでも楽しいのである。
さらにその土地それぞれの特産や植物、風景が精緻に描かれているのを見るのも面白い。
挿絵がたっぷりあってこの世界についても学べるので、凶器になりそうなほど分厚いその本をテーブルに広げて読みふける毎日なのである。
「レナハント領は、ええとキーナイが有名、と。キーナイ?」
今日は王都より南に位置する郊外を治めるレナハント領のページだ。
最初の一行目に、最近夕食によく登場する、味が鴨っぽい肉の名前が出てきた。
「えーっと、レナハント伯爵が治めるその土地は、王都の二倍もの広さを誇り、北部には高い山脈が連なっている。自然豊かな土地は穏やかな気候で実りも多く、農業を中心に養鶏……ん? 鶏じゃないや、ちょっと読めないこの字」
時々こうして読めない字に遭遇するものの、何となく動物なのかな、というイメージは湧く。
多分地球と動物の種類が違うからだと思う。初日に見たキパールとかいう生き物とか、カメレオンみたいな馬みたいな生き物とか。
だからこれもきっと、何かの動物なんだろうなと思い、何となく『キーナイ』と書かれた部分をなぞってみた。
瞬間、その下に余白が現れて、カラフルな怪物が口を大きく開けて暴れている絵が浮かんできた。
頭は鳥、くちばしは黒く鋭く、大きく開く。
目の周りにはカラフルな縁取りが幾重にも及び、鶏冠のように頭のてっぺんから出ている羽は動く度にキラキラ光る毒粉を振りまいている。
身体は虎のような黄色と黒の縞模様、背中にはたてがみのような黒い毛が生えていて、尻尾はむち打つように素早く辺りの空気まで裂く。
——そんな解説が、リアルな絵とともに視界を埋め尽くしていく。
「ひっ!」
見慣れない異様な生き物を、絵とはいえ不意打ちで目に入れたことと、視界を覆うほどに流れ込んできた情報に驚き悲鳴を上げてのけぞると、室内にいなかったはずのメイドさんがさっと現れて私をかばうように立った。
く、くのいちっ!?
「いかがされました、おまけさま」
心臓が弾んだままの私は、頷いてみせるだけで精一杯だ。
胸に手を当て、今見たものと起こった状況を飲み込もうとしている間に、現れた三人のメイドさんはテキパキと仕事をこなしていく。
一人は異常がないか室内及び他の部屋を確認、一人はおそらくお茶を入れに、残りの一人は周囲を警戒しながらも場を離れず、私が落ち着くのを待っている。
何という見事な連携プレー。この間、一言も発さずである。この世界にはテレパシーがあるのかもしれない。
ようやく私が声を出せるようになった時には、テーブルの上には貴族名鑑ではなくお茶とお菓子が置かれていた。
「ありがとうございます」
最近気づいたけれど、どうやらこの部屋には九人のメイドさんが付いてくれている。
というより、私と輪音ちゃんと嬉世ちゃんそれぞれに、三人のメイドさんが担当として付いてくれているらしい。
休みなどはその三人で交代で回しているらしく、顔ぶれは変わらない。一ヶ月経った今では、かなり親しみを持っているし、信頼している。
「おまけさま。差し支えなければ、何が起こったかお伺いしても?」
お茶を一口飲んで落ち着いた頃に、メイドさんが話しかけてくれる。
ちなみにこのメイドさんたち、名前をかたくなに教えてくれない。
必要であれば番号をつけて呼んでくれていいと言うのだけれど、なぜこうも名前を教えたがらないのか、そっちの方が気になってしまう。
あれかな、名前を知られると魔法で隷属させられちゃうみたいな世界なのかな。……え、もしかして当たりじゃない?
自分で思いついて自分で首を絞めるお決まりのコースをたどった私は、げっそりしながらもメイドさんの質問に答えるべく、貴族名鑑を指さした。
「驚かせちゃってごめんなさい。ちょっと、貴族名鑑読んでる中で見たことのないものがあって……」
「身体に痛みや異常などはございませんか?」
「いえ、ないです。あの、一つ聞いてもいいですか?」
「わたくしどもで答えられることでしたら、なんなりと」
そう言って前回名前を教えてくれなかったわけだけど、そこで二の足を踏んではいけない。確かめねば。
私がおいしいと感激したあの食べ物が、この世界に来て食べた中で一番おいしいと感じた食べ物が、まさかあの得体の知れない生物だなんてこと、なんてこと、ないって言ってくださいお願いします。
「レナハント領についての項を読んでたんですが、気になる記述がありまして。あの、キーナイが有名って書かれてたんですが、キーナイっていうのは、えーっと、生き物、ですよね?」
きっと私がしゃべっている間にも察しのいいメイドさんは何が言いたいか気づいているだろうに、しゃべり終わるまでしっかり待っていてくれる。
多分、仕える相手の言葉を遮ってはならないってルールがあるからなんだろう。
「はい、レナハント領はキーナイの産地として非常に有名でございます。キーナイの産地は他にもございますが、優れて美味であることから、特にレナハント領のものを“レナハント・キーナイ”と称し、他と区別することを許されております。おまけさまに召し上がっていただいておりますものも、レナハント・キーナイでございます」
穏やかな口調で淡々と告げるメイドさんは、躊躇いなく爆弾を落とした。
「美、味……めし、あがって?」
「ええ、昨日のディナーでもお召し上がりでした」
「同じ名前の別ものではなく?」
「わたくしは古ルヴェルシュベイン語、古典リュット語を習得、全ての言語の祖である失われたイオヴェ語にも親しんでいますが、キーナイという語はこのキーナイを表す以外にございません」
うわあぁ、やっぱりぃ!!
今私に必要なのは貴族名鑑なんかじゃない!
食材図鑑だ!!
ここで私は一つ深呼吸し、ざわめきが止まらない心を落ち着かせることにした。ちょっと整理しよう。
「さっきキーナイっぽい生き物の絵を見たんですが、食べられるとこ、あります?」
「よろしければ絵をご覧になった上で細かく説明いたしましょうか? もしくは実物をさばくところを見ていただいてもよろしいですが」
もう一人のメイドさんが、「料理長に確認してまいります」と今にも部屋を出て行きそうだ。連携がすごい。テレパシーか。
「い、いいです、大丈夫です、見たくないです! 往生際が悪かっただけなんですごめんなさい」
そうですか、と呟くメイドさんはどこか残念そうだ。
何でだ。こんなにめいっぱい嫌がってるのに。
「もしお気が変わられたらいつでもお申し付けくださいませ。他にも何かご要望はございませんか?」
ああ、わかった。要望を出させようとぐいぐいくるメイドさんの前のめりな職務態度に、私はピンときた。そう、これはきっと。
私のお世話で、暇なんだ!
自慢ではないが、私はこの宮殿の敷地内から出ることがない。
行動制限がかけられてるわけではないが、一度街に出てみたいと要望を出してみたところ、その日の夕方に王太子殿下がこの部屋に訪れ、なぜ街に出たいのかの意向調査が行われた。
要望だけでこんな大事になるのであれば、実際に街に出るときはもっと大事になると予想できたので、丁重に要望を取り下げさせてもらったのは二週間前の話だ。
そんなわけで、この一ヶ月敷地内をうろうろするか本を読むかしかしておらず、メイドさんとしては張り合いがないのだろう。
むしろメイドさんに他の仕事をしてもらってもいいような気もするけれど、それを私が言っては角が立つ。
何かないか、と私は必死で頭を動かす。
そのときふと、貴族名鑑が目に入った。それから脳裏をよぎる、メイドさんのさっきの言葉。
「なら、あの、もし良ければなんですけど、お暇な時間に先生になってもらえませんか? 分からないところを教えてもらうだけでいいんですけど」
さっき、失われたなんとか語にも親しんでるって言ってたから、このメイドさん、きっとものすごい才媛なんだと思う。
その頭脳を私みたいなポンコツの授業で披露するのは不本意かもしれないけど、教えてもらえると私もやる気がでる。メイドさんも、もしかしたら少しは仕事に張り合いが出るかもしれない。
でもきっと断られるかな、仕事の範疇外だろうし。と、そんなに期待しないで答えを待っていると、
「わたくしで良ければ、お教えさせてくださいませ」
めでたく快諾してもらえたのである。




