一.五百年後の前世は?
シャカシャカ、とボールに入った白い粉と水を混ぜながら、窓辺から差し込む太陽の光に、目を細める。
カノンとして、私が異世界召喚した日から、十日が経った。
あの日、召喚されたほんの二、三時間は、起きた事に対し動揺しパニックになり、途方に暮れた。ここがどこかもわからず、洋画に出てくるような風景のある街を歩いていた。
まさか事故に遭ったのは間違いで、あのとき知らず知らず外国に売り飛ばされたのかとか…悪い方へと考えがいった。
そんなふうに彷徨っていたら、治安の悪い路地裏に入っていて、気付いたら柄の悪そうな人たちに囲まれていた。
その一番前にいた一人に、ある筈のない牙が見えたのだ。その瞬間、ここは前世の世界で、自分はその世界に召喚されたのだと気づいた。
襲ってくるヴァンパイアから逃げ場なく、また殺されてしまうのかと思った。
そのとき、助けてくれた人に、今の私は世話になってもらっている。
助けてくれたクリスさんは、ハンターだ。
前は敵だったハンターに助けられて、初めは警戒した。
彼等が残酷なやり方で時に過激にヴァンパイアを狩っては、一部の者を奴隷にしていた最悪な人間達だと知っていたからだ。だから再び訪れた危機に悲鳴を上げて、近づく彼を攻撃した。でも、クリスさんはまったく怒ることなく、むしろ怯えて攻撃した私に優しい言葉をかけてなだめ、理解してくれたのだ。
それに、彼は孤児院で子供達を育てている神父様だった。
そのとき一緒にいた孤児院の子供に対する態度が、すごく優しくて暖かくて…彼が前世に会ったハンター達とは違うのだと思ったのだ。
そんな出会いから、優しい神父のクリスさんに拾われた私は彼がいる孤児院で暮らしている。
孤児院にいるのには年齢が上だし、世話になるばかりではと、家事のお手伝いや小さい子の面倒を見ていた。
ちなみに、クリスさんはかなりのイケメンだ。
実のところそれもあってか、彼がハンターでも、何故か嫌な気はしなかった。
優しいと感じたからなのか、まぁ、とにかく、クリスさんのようなハンターもいるのだと認識した。
「はぁ…やっぱ、怠けてるな」
召喚された時やクリスさんとの出会いの回想を終え、現実に引き戻された。
混ぜる手を止めて、菜箸のように長い竹箸をテーブルに置くと、右肩を回し手をブラブラと動かしながら、気持ち良さそうな日差しに一息つく。
最近また、あの殺される悪夢を見続けていた。そのせいであまり寝付けなかったのだが、今日は久しぶりにぐっすりと眠れた。この世界にきて初めてだった。
この世界といえば、ヴァンパイアはもちろんのこと、ファンタジー系の話には欠かせない魔法という非科学的なモノも存在している。また、この世界には階級制度があって、国民は貴族と平民に分かれていた。
貴族は与えられた領地を治め、一つ一つのマナーや学問、剣術などを学び、社交界に出て、優雅な暮らしをしており、平民はその領地の中で働き蜂のように毎日を忙しく暮らす者や、商売を営み街に貢献する者、貴族に仕える者などがいる。
それは少し中世ヨーロッパの時代のような、身分格差が所々見え隠れしており、前世のあの時代から全く変わらなく、マシになったのは奴隷制度がなくなったこと。
まぁ、一部の場所ではまだ秘密裏にあるようで、これはクリスさんに教えてもらった。
後は、貴族の女性もちゃんと働いて、男性と変わらず性別や人種差別もない。あるのは、ヴァンパイア側の派閥争い。
今、王と呼べるまとめるヴァンパイアがいないらしい。
その争いが人間の方にも影響されている。でも、人間側がヴァンパイアの存在を理解しているのはいい(これは昔なかった)。ただ、未だにそれに対しヴァンパイア側は戒律があり、ハンター協会が人とヴァンパイアの中立の立場に立ち、問題解決をしている。
それ専門の役所もあり、異種族の結婚、ヴァンパイアの糧となる血も正当な手続きをすれば、病院から貰えるようになっていた。つまり、私は、前世の自分が成し遂げようとしていた、人とヴァンパイアの共存された後の世界に飛ばされたわけだ。
「あれから五百年後の時代か…。誰がこの理想を現実にしたのだろう?」
人間側からではない。ヴァンパイア側からでしかできない事だ。親玉だった自分が下をまとめていた能力はあったと自負している。
「でも、それも叶わず、あんな事件が起きていたんだ」
忘れもしない。
ヴァンパイアは血を重じんでいる。その血を受け入れた者を仲間に加えている。
自分のアデルの血族となる者は、希少だった。
あまり仲間を増やさなかったからだ。王というよりも、たまたま当時のヴァンパイアの中で彼が最強だったから、彼は王のように孤独に居続けなければならなかった。
そんな立場の自分に、仲間を、ましてや結婚などできるわけがなかった。
「理想は現実し得ないから、理想と呼べるわ」
ポツリと誰にともなく呟き、ヴァンパイアだったときの、アデルの立場を思い、肩を落とした。
「これから…どうしよう」
昼食用に作ろうとしているパンと生地となる白い粉、ベフリ粉を見つめる。
自分もまだ知らない、この世界で起きたあの事件の真相が知りたい。犯人を探し出すという最終目的以外にも、あのとき何故、あんなことが起きてしまったのか、それが一番知りたかった。
「それにはまずは、昔の知人に会わないといけないなぁ」
アデル時代の知人といえば、彼の一番の理解者であり、親友のユリウスだ。だが、彼が今どこにいるのかわからないし、捜しに行くにもそのあても、そのための交通費も、五百年経ったこの世界の土地勘すら、何も知らない。
「はぁ〜…」
再び、ため息が漏れた。
「カノンさん」
そのとき、後ろから声がかかった。ハッと我に返り振り返ると、厨房の入り口にクリスさんが笑いながら立っていた。
「先ほどからため息ばかりついているね?何か、あったのかな?」
「え…っ。ああ、ちょっと夜寝付けなくて…。それよりクリス神父。どこかお出掛けですか?」
いつもは神父服なのだが、今日は珍しく私服を着ている。スーツ姿などは初めてだ。
「ああ、今から知人に会いに…。あ、そうだ。気晴らしにカノンさんもどうですか?」
「私も?ですが、まだ今日の昼食用のパンが出来てなくて…。それに知人の人に会うのなら、私は邪魔になるのでは?」
何枚か焼いてはいるが、全員分の量には足りない。それに珍しい余所行きの格好しているところから、余程大切な人に会いに行くのだろう。もしかしたら、恋人かもしれない。
だって、こんなにカッコよくて良い人が、モテないはずがなかった。
「邪魔なんて…。むしろ、居てくれた方が助かります。それにカノンさんはこの国をあまり知らないと聞いたので、ちょうどいい機会です。そちらの専門の彼に教えてもらうといいでしょう」
にこにこの笑顔に、何故か有無を言わさぬ迫力がある。私は微かに息をのんだ。
たまにクリスさんはこういう雰囲気を漂わす。
こういうときの彼の誘いを断るのは大変で、後が怖い。普段優しいから、そう感じるのだろう。
ニコニコする彼を見つめ直し、私は自分に拒否権はなさそうだな、と感じ、諦めて彼の申し出を受け入れた。
ちなみに昼食用のパン作りは、院長であるクリスさんが決めた時点で、私以外の担当者と専属シェフであるキリエさんに任せてもらう事にした。