未来への投資
「〇〇ってアニメ、めっちゃキモくね?」
「最近話題のあれ? 私、あれは生理的に受け付けられないわー」
今流行りのアニメ映画、いわゆるオタクと分類されている人達からは人気で、その他の一般人からしたらただの妄想にしか見えないらしい。その映画には原作があり、僕はちょうど、その原作を読み終わった時にこの会話を聞いた。
僕の高校では、アニメ好きもしくはゲーム好きは下に見られる傾向がある。言い換えれば、スクールカーストで下の方という事だ。クラス内でその下の方にいる人達が迫害を受けている光景は珍しくなく、僕はそれを外で眺める側だった。学生の本分は勉強であり、部活に打ち込み、仲間と友情を育む学生生活こそ至高のものであると、親から常々聞かされていた世界を本当に信じていた。
親は、アニメを許さなかった。漫画も、その存在価値を絶対に認めなかった。唯一、まだマシという事で買う事を許されていたのは、小説だった。しかしながら、やはりアニメ調の表紙のものや、彼らの中での下らない青春ものは、読んでさえもいないのに、いつのまにか本棚から消えていた。
*
僕には、1人の幼馴染がいた。彼の名前は西野陽平。僕と彼にはかほどの接点も無かった。ただ家が近いから。そういう理由で、僕たちは小さい頃、よく一緒に遊んでいた。彼はよく僕に、仮面ライダーのおもちゃを見せてくれた。当時既に洗脳済みの僕の頭には、そのおもちゃの価値が全く分からなかった。
「グルグルジャキーン! かっこいいだろう? これはね、仮面ライダー□□の、返信ベルトなんだ。変身した□□は、超強くてカッコイイんだぜ!」
彼は、勉強漬けの僕によく構ってくれた。今思うと、彼の周りにも、僕の周りにも、友達という友達がいなかったからかもしれない。原子が電子を共有するように、僕たちは友達がいないという互いの穴を埋め合っていたのかもしれない。とにかく、彼は僕に色んなおもちゃを見せてきた。僕はそれに、なんて答えたのかをもう覚えていない。ただ確かな事は、とてもつまらない答えをしたのだということだけだ。
中学に上がるにつれて、僕たちは離れ離れになった。僕たちは公立の小学校に通っていたから、彼はそのままの中学校に行き、僕は受験をして、都内で有名な私立中学に入った。
中学では、ほとんど勉強をしていたという記憶しかない。運動会、遠足、修学旅行、確かにそれらはあったが、写真の映った僕の顔は、どれも引きつった作り笑顔だった。
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僕は高校受験に失敗した。原因は不明、努力が足りなかったのかもしれないと考えたが、そうは思えなかった。親は当然僕に失望の念を抱き、その日からますます僕の周りの娯楽が消えていった。
夏目漱石や芥川龍之介の小説は、全て参考書に置き換わった。
好きなアーティストのCDは、英語の聞き取り教材になった。
当時の僕がそれを受け入れたのは、単に家に居場所を見つけられなくなっていたからだ。僕の親は、僕より遥かに優秀な弟に釘付けになっていた。やがて親の関心は僕を離れ、言い換えれば、ほんの少しの娯楽を手にする隙を、僕は親から手にいれることが出来た。
高校二年の春、クラスが一緒にになって初めて、僕は西野陽平がこの学校にいる事を知った。西野は僕の事を覚えており、彼は僕に声をかけた。しかし、僕はそれを無視し続けた。何故なら彼が、クラスカーストの下位に存在していたからだ。
ただでさえ家に居場所がないのに、さらに学校での居場所を失う事を、僕は酷く恐れた。
西野への迫害、もといいじめは月日を経るごとに酷くなっていった。彼が学校でラノベを読んでいると、近くの席の、いわゆる権力者という奴が、彼のラノベをひょいっと奪い、ゴミ箱に向かって放り投げた。クラスの殆どがそれを見て笑っていた。まるで家畜を見るように、人ではないものを見るような目で。
西野は何も言わなかった。ただじっと、岩のように耐え続けていた。
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西野へのいじめが担任に伝わった時、担任が権力者達を名指しで怒り、こっぴどく叱った。以降、彼への迫害はさらに見えづらく、そして陰湿なものへと変わっていった。
ある日、僕は授業中に消しゴムを落っことした。あいにく落ちた瞬間を見ておらず、どこに転がっていったか見当もつかなかった。諦めてシャーペンの先についている消しゴムを使おうとした時、隣から紙が送られてきた。
「東原、これ使うか?」
紙には、そう書かれていた。差出人は、隣の席の西野だった。彼が口頭ではなく、紙を経由して消しゴムを渡してきたのは、僕へ対する気遣いだろう。自分の差し出した消しゴムを受け取った東原は、あいつと同じ気持ち悪い奴だ。そうなる事を、西野は恐れていたのかもしれない。
僕は放課後、西野を訪ねた。口でやり取りするのは、実に何年ぶりだっただろうか。幼馴染というのに、いざ話そうとすると言葉に詰まる、自分の不器用さが嫌いになった。
「西野、さっきはありがとう」
放課後のクラスには僕らを除いて誰もいない。少し震えた言葉が、クラスの中を駆け巡った。
「ん? あー、さっきのか。いや全然いいよ。消しゴムがちょうどよく割れちゃったからさ」
ちょうどよく割れたなんて嘘だ。あれは確かに、定規で切ったとしか思えないものだった。
西野の優しさが、孤独な心をだんだんと締め付けた。やがて、頭の中のダムが決壊し、僕は西野に疑問をぶつけた。
「西野、何で学校に本を持ってくるんだ。家で読めばいいじゃないか。家で読めば、本をゴミ箱に投げ捨てる馬鹿野郎なんていないし、誰もお前の邪魔をしない。なのにお前は、どうして……」
西野の読んでいた本は、単にラノベばかりというものではない。その中には、最近映画化された青春物語もあり、僕はそれを、親の隙を見て読み終わったばかりだった。
「なんつうかな。この学校では、本や漫画、アニメなんかは多分認められない雰囲気なんだろうけどさ。俺は、あんな低俗ないじめなんかで、趣味を捨てたくないんだわ。確かに、本を投げ捨てられるのはクソムカつくし、殴ってやりたい気分にもなる。だがここで殴ったら、奴らと同じになってしまう。それは嫌だ」
西野は落ち着いて、どんどんと話し始めた。
「奴らは、あんなんだが、部活や仲間と過ごしたその経験を通じて、知見を得ていくわけだ。世を渡るための術ってやつかな? 俺はそれがたまたま、ラノベや、アニメや、映画だったって話なだけ。どんなにバカにされようが、それは揺るぎない事実だ。つまり、なんて言うかな、俺はもちろん好きで本を読んでるし、アニメや映画を見るけど、それは同時に未来への投資になってるわけだ」
僕は西野の考えに、ただ驚いていた。だから西野は、権力者達のいじめにも耐えれていたのか。彼の強靭な精神力を讃えるとともに、ついこの間、例の本を親に言われて捨てた自分を恥ずかしく思った。
「恥ずかしいけど、小ちゃい頃を共にした仲だし、言おうかな。俺、将来漫画家になりたいと思ってるんだ。親にも冗談言うなと言われたが、俺はやってやるぜ。お医者さんが体を治すんなら、俺は心を治す人になってみせる!」
その言葉を言った後、西野は時計を確認して慌てて帰る準備をし始めた。何やら、これから渋谷で今日公開の映画を見にいく予定だったらしい。僕は時間をとってしまった事を西野に謝り、西野が出てから数分後、学校を出た。手には夕食代のお金を握って、僕は本屋さんに足を運んだ。捨てられた本の新品を手に取り、軽い足取りで、レジに向かった。
この日、僕はレジの光景を、今だに鮮明に覚えている。
*
飲み屋で二人、とあるアニメについて語り合う二人組がいた。片方は駆け出し漫画家、そしてもう片方は、なりたてホヤホヤ研修医。
「東原、いつものやろうぜ?」
「全く、お前本当にこれ好きだなぁ、西野」
「うっせぇ、一、二の三でいくぞ? 一、ニの」
「グルグルジャキーン!」
二人の朗らかな笑い声は、周りのサラリーマンの顔すらも思わず笑顔にした。
枷に縛られていた男の夜は、ずっと前に明けていたのだ。