最終話
リディが倒れたあと、慌てて自宅へと戻るベルナール。
彼女はアベルを知っていた。なぜ、自分に近づいたのか?
すべては、終わりへむかおうとしている。
―――自宅に帰ってくるまで、ひたすらリディの背中を擦って目が覚めるのを待っていたが、しがないアパートに着いても彼女はうなされて意識を手放していた。
タクシー運転手の冷めた視線を受け止めつつ、彼女を背負いこみ直し一段一段と自宅までの階段を上る。
小さくて軽い体に、一体何が起こっているのかはまだ判別出来ない。
俺に近づいた理由が、どういった感情にしろ興味という類に括られるのは分かっていても、道端にリディを捨てていくことは考えられなかった。
何にせよ、こいつはマノンから預かった娘なのだから。
事務所ではなく、自宅の方のドアを開けて、寝室のベッドに寝かせる。
シーツをかける前に熱がないか、額に触れたが、全くの平熱だ。
「リディ、家に着いたぞ。熱もないみたいだ。…聞こえるか?」
声を掛けてみても返事はなく、耳を寄せてみる。先程までは苦しそうだったが、吐息は健やかとすら思えるほど正常だった。
立ち眩みか何かだったのかもしれない。俺は立ち上がり、リディの体にシーツをかけてから、部屋を去った。
閉め切った事務所の扉を開き、どっと疲れた体をデスクに凭れさせる。
ブラインド越しでも窓から射し込む陽光は未だ冷たく、映る冬の街は寂しく思えた。
ふと後ろを見れば、散らばった机の上に放たれた「ゴロワーズ」のチケットの二枚が、視界に入って来る。
ジスランはこう言っていたか。人の縁は傍にあるうちが華だと。
俺は、リディとの関係にどういうエンディングを迎えたいのだろう。
たった一日泊めて、しかも最低最悪の父と知り合いの女だが、倒れた時に放り出せなかったのは事実だ。
たとえ、マノンの娘だから、という名目があっても。
チケットに手を伸ばそうとしていた時、住居の方で扉が軋む音がした。
漸く、主役がお目覚めらしい。俺はデスクから体を放して、グリーンのドアへと歩いて行った。
中に入ってみると、ちょうどリディが整った顔を洗面所で洗っていて、硝子張りのドアからの光で、彼女の金髪がきらきらと光る。
開扉音から気が付いたのか、こちらを見遣ったリディは、黙って蛇口のコックを捻り水を止めた。
「…引っ叩きたい所?ベルナール。貧血のついでで良ければだけど。」
「質問に質問で返して悪いが、元々ふらつくことがあるのか?」
肌に水滴を纏ったリディが何度か小さく頷く。
「高校生ぐらいの頃からね。それで、あたしの質問の番だよ。答えて、あたしをどうしたい?」
「貴女の返答次第だ。俺に近づいたのは意図的なことなのか?アベルとの関係は?」
「答えるまでもないよ。」
鉄製の鉤に掛けられたフェイスタオルを手に取り、その顔を拭きながらリディは自嘲気味に嗤った。
「ママとアベルは友達だってことは知ってるでしょ。あたしの家に遊びに来てるあんたのこと、よく見てたの。制服がよく似合うかっこいいお兄ちゃんが、今日も来たってね。」
「それとこれと何の関係がある?」
「はあ…分かんない奴だなあ…まあ、あたしもあたしだね。」
フェイスタオルが再び鉤に掛けられ、俺達の間に合点の行かない沈黙が訪れる。
リディは言わずとも分かるはずと俺に期待している様だが、さっぱり理解出来ない。
そして、それを解決しようとしているのに、彼女はジスラン達のことが相当気に喰わなかったのか顰め面を解かなかった。
「ベルナールは、自分の経験が正しいって思ってるかもしれない。だけれど、それは一点の見方で全てじゃないのよ。あんたが悲劇の主人公だって言う奴も居れば、我儘な王子様って思う奴だって居る。答えがひとつなんて、どんな状況でもあり得ない。」
「なら教えてくれ。どうやったら、一番後悔せず貴女と別れられる?貴女はもうそうしたいはずだ。」
いかにもリディらしいことを言われると、こう言わざるを得ない。それ以外の答えが見つからないのだ。
リディが俺を騙していた訳ではなさそうに見えるし、昨日が全く楽しくなかったという訳でもない。
こんな仕事の相棒が居れば、さぞ面白いことだろうとすら思える。
だからこそ、喧嘩別れしたくないし、本音が伝わらないまま終わるのも嫌だった。
俺の真剣な問い掛けに、暫し息を呑んだリディは、やがて面白そうにくすくすと笑い始めた。
「…何にも始まってないのにオシマイ、か。それも悪くないかもね。…うん、あたしもそう思ってた所だよ。」
始まっていない。そんなことはないと、俺は心の中でリディに答えた。
俺達が出会ったのは、ただの偶然だが誰もがそんなものではないのか。
それを奇跡と差し替えれば、運命より素敵なものじゃないか。
それに、こいつと会ったのはもしかすれば、それは過去や現状のしがらみから、互いに抜け出す為のものだったのかもしれない。
答えが一つではないなら、アベルの息子でいて良かったこともあるはずだから。
目の前で俯いていたリディは、細い人差し指で事務所の方を指差し、唐突に破顔して言った。
「連れてってよ、映画館。ほら、ジスランから貰った“ゴロワーズ”のチケット。雑誌でもエメが載ってたでしょ?絶対面白いから。」
その声色は、無理をしていることもなく、かといって全くの平静という訳でもなさそうだ。
これで、リディとは別れる。永遠とはいかなくとも、しばらくは。はたしてそれでいいのか?
少し黙っていた俺は、頭を振って頷いた。
「…分かった。一緒に観に行こう。ただ、約束してくれ。それが終わったらマノンの所に戻って、もうこんな迷惑は二度と掛けないと。」
歩き出したリディは振り返り、小さく笑った。
「あたしは帰らないよ。でも、あんたの所にも居ない。」
「どうする気だ?」
「…映画観終わったら、話す。行こう。」
俺の横を通り過ぎ、リディは事務所の方へと向かった。
自棄を起こしていなければ良いが、とも考えてしまうものの、あのじゃじゃ馬が素直に言うことを聞くとは思えない。
俺は溜息を吐いて、煙草の一本を取り出し銜え、火を点けた。
ジスランが寄越したチケットは、駅前の豪華なシアターの物で、どこか上品ぶった、嫌味たらしい品性の外装をしていた。
行きの道でリディが何か買うかと思ったが、互いに黙ってシアターを目指して歩く。
ただ、どちらも何だか足は重く、過行く景色もゆっくりとしていた。
ゴロワーズのチケットは、右ポケットにある。今も、手を突っ込んでその感触を楽しんでいた。
「ここだ。ベルナール。」
シアターの前に立ち止まり、二人でとっくりと大きなスウィングドアを見つめる。
豪奢な金と白のドアは、まるで俺達を手招きをしているかのように思えた。
ぼうっとそれを見ていると、リディが俺の顔を覗き込んだ。
「お母さんの映画を見るのは辛い?」
「辛くないさ。もう数年は会ってない。ただの記憶になっただけだ。」
すると、彼女は背負ってきたリュックを一度舗装されたコンクリートにおいて、中を開いた。
あちこちに荷物を置き、ようやくと言った所でそれを取り出す。
青い箱に白いリボン。どう見てもギフトボックスだ。
なぜこんなものを寄越したのか。
リディは複雑そうな面持ちで言った。
「これ、アベルからあんたに。開けてみて。」
アベルが?何の為に?
矢継ぎ早に質問してしまいそうになるのを抑え、ギフトボックスを受け取る。
中を開いて見ると、シアターの眩い光に照らされてそれは光った。
万年筆だ。それも、立派な作りで装飾にもこだわっている。
取り上げた先で見た分には、メーカーの名前も書いてあってブランド物であることが辛うじて分かった。
アベルが、どうして俺にこんなものを寄越したのかだけは、納得がいかないが。
「…結局さ、いがみあってても助け合えるのって、家族だよベルナール。あんたはあたしのことよく知らないから嫌な部分を見てないし、アベルは付き合いが長いからこそ好きな所だってあったでしょ?」
「だが…どうして唐突にこんな物を…。」
戸惑い、手中で遊ぶ万年筆は滑らかな光を発して双眼に映る。
リディは俺の手に手を重ねて、それを離させまいと掴まえた。
「アベルも、ブランシュさんと同じなんだよ。背を向けていた所に帰りたかったんだ。都合よくても、迎え入れてくれる場所はそこしかないよ。」
アベルの身に何が起きたのかは知らない。昔の女とまだうまくやっているのかどうかも。
ただ、妻であるエメではなく、息子の俺に何かを求めてくるのは合点がいかない。
そんな俺の疑問を読んだように。彼女は薄らと緋色の唇を緩ませる。
それは、いつもの幼さをまるで感じさせない、成熟した笑みだった。
「アベルに、ベルナールにあたしを捜してって頼んだのは、あたしなの。もう一回、あんたにどうしても会いたかった。」
「…そのことをマノンには言ったか?」
「ママが恋愛ついてうるさいのは知ってる?あたし、もう20なのに彼氏の一人も居ないんだよ。」
ほどけていくように表情を歪ませ、悲痛を彩るリディの表情を、ぼうっと俺は眺める。
アベルの何を知っていたつもりだったのか。リディにとって俺は何なのか。答えがぼやけて受け取れない。
或いは、俺がただ目を背けているだけで、気づいていないことだったのか?
黙って万年筆を隅から隅まで見ていると、父はどんな気分でこれを選んだのだろうと思う。
俺のことをきちんと思って買ってくれたのか、らしくもなく心躍りながら見ていたのか。
いがみあっても助け合えるのが家族なら、俺もいつかはアベルの為に何かを選択するのか。
何年先になっても、いつかは父の為に何かを選ぶのか?
黙って俯くリディの、繊細で小さな指をおっかなびっくりで引き寄せると、彼女は驚いた様に俺を見た。
飯を作っていた時に触れた際、あれほど嫌だったし、今でも正直冷や汗が首筋を流れている。
苦手な笑顔を必死の思いで浮かべて、右ポケットに入っていたチケットをその白い手の平にそっと置く。
彼女に言いたいことは、悪口や皮肉なんて卑屈なものではない。かといって、アベルを嫌ってきたこの数年を謝罪する気もない。
誰かが10のうち全て悪いなんてことが、この世にあるとでもいうのか?いや、それはない。
だとしたら、リディとアベルの行動の全てを否定することは俺には恐れ多いだろう。
「…行こう、リディ。」
「怒ってないの?あたし、最低なことしたよね?言ったよね?嫌いになったんだよね?」
言ううち、リディの睫毛の揃った目端に涙の水滴が浮かびあがる。
俺はその華奢な手を放し、首を横へと振って見せた。
「俺は貴女と映画を観に行きたい。理由がそれ以上必要なのか?」
込み上げていただろう感情が消えて行ったかのように、リディの薄青色の瞳はチケットを見つめる。
上手い文句のひとつも言えない俺なりに本音でぶつかったつもりだが、どう感じているのか。
分からず様子を窺うと、リディは顔を上げて笑った。彼女らしく、溌剌と。
「行こうか!ベルナール!」
「…ああ。」
四足の足並みは縺れながらぴったりといつか揃い、シアターの中へと歩いて行く。
雪解けは、まだ遠い。
黄金色に光り輝く立派なシアターの内部で、チケットを窓口で出し、俺達は朱色の席にそれぞれ腰掛けていた。
「ゴロワーズ」は、良家の令嬢が一人の執事と恋に落ち、共になるまでの苦難を描いたストーリーを持つ。
その令嬢役に、エメが採用された訳だ。
このタイトルは人気がないのか、周囲はカポラル同様客足があらず、幸いにも前席を取ることが出来た。
幾つかのホラーやアクション映画の予告をじっと見、俺は煙草の箱の角を弾いていた。
リディはといえば、オーダーしてきたポップコーンを次々と口に入れている。
互いに会話は無かった。ただただ、時間が過ぎてゆくだけだ。
やがて上映のブザーが鳴り、リディも俺も手にしてた物を放して席に座り直す。
まるで、今まで抱えていたしがらみを解放する儀式の様に。
そうして、大画面に誇らしく映る若き母の姿に薄らと目を細めた。
美しい橙色の巻き毛に、細くしなやかな四肢。俺とアベルと暮らしていた頃と全く変わりはない。
今はもうテレビでは全く見なくなったが、どうしているだろうか。
活き活きと演技を繰り広げるエメは、夢を抱いた若人らしく輝いていて
大人になった今になれば、アベルが何故彼女を手に入れたがったのかが分かる気がした。
容姿が飛びぬけている訳ではない。演技が優れている訳でもない。
なのにエメが美しいのは、生命力に溢れているからだ。
仕事と家庭の愚痴ばかりを零していた時の彼女は、憐れんでしまうほど落ち込んでいたが、この時は違う。
母にもこんな日があったのだと、何度目かに観た今、思い知らされた気がした。
正直、内容はあまり見ておらず気が付くと、周囲には俺とリディしか居なかった。
古い映画だし、最新の面白いタイトルを観に行ったのかもしれない。
俺はそれを一度確認したあと、すぐにスクリーンに視線を滑らせた。
終盤の見せ場なのだろう。事がバレて、当主から出て行く様に命ぜられる執事に、エメが抱き着く。
その手に握られた大きなトランクに、この男と駆け落ちするつもりなのだろう事態が窺える。
正直、そうして執事と二人暮らしても、ハッピーエンドは無いと思えた。
世間知らずの娘が、厳しい社会に出ても苦労して老いるだけだろう。
だが、何となく―――何となくだが、俺は彼等が選択したならそうすればいいと感じる。
それが熟考した先の答えなのだから。
二人が互いの肩を抱き合い、実家の大屋敷を出て行く姿を最後に、エンディングロールが流れた。
―――シアターを出る頃には、外はすっかり夜が更けて、周囲にちらほらと見えた人影も伺えなかった。
隣で歩いているリディは、いっぱいの星空を見上げて大きく息を吐く。
寒さで息は白く輪を描いて宙へと消えていく。
同時に、俺達の別れも近いのだと頭の片隅に追いやっていた考えがちらついた。
「エメ、綺麗だったね。」
「ああ。何度か観はしたが、今日は一段と綺麗だった。…それで?」
歩みを路肩で止めて、彼女の方へ顔を向けると、リディも立ち止まった。
リディは映画を観てから答えを聞かせると言っていたが、一体何を考えついたのか。
薄青色の瞳は、もう動揺することも怒りに震えることもなかった。
真っ直ぐに見つめたあと、いつもの様に明るい口調で言った。
「あたし、この街を出てく。学費を賄いたいから、都会で仕事に就くの。」
聞かされた答えは、それ程意外なものでもなかった。
リディが映画の脚本を作りたいと言っていたのは覚えていたし、大体にして若者にこの街はあまりに退屈だろうから。
それでも何となく覚える感慨深さに、俺は煙草に伸ばしかけた手を止めた。
「仕事先はもう見つかってるのか?」
「ぜーんぜん。でも、この街で小銭稼ぎをするよりは良いと思うよ。」
「マノンに話は?電話はしたのか?」
「してないし、しないよ。ママは暫く、あたしから離れた方が薬になるんだよ。あたしだって夢を否定されるのはもう嫌。いつかは帰るかもしれないけれど、暫くはこの街には来ない。」
その言葉に目を細める。リディは、逃げる為に故郷から出て行くのではない。追いかける為に故郷に背を向けるのだ。
「駅まで送るよ。それとも、国境を跨ぐか?」
「教えてあげない。あんたとあたしの物語に、しみったれた最後は要らないよ。会った時と同じ。笑ってサヨナラする。」
笑顔を見せるリディに、俺は咄嗟に首を横へ振ろうと思ったが、何となくそれが憚られた。
今更になってジスランとブランシュの別れが、どれほど重かったのか分かる気がする。
リディを見送りに行ったら、俺はその最後をずっと寂しい思い出として残すだろう。
踏み込んでしまえば、彼女はかつてのエメとアベルの様に、人一倍大事な存在になる。
何を言うべきか迷う俺に、リディは笑顔を引っ込めて真面目な顔つきで見上げてくる。
「だからね、ベルナール。あたしとの思い出がくだらないと思わなかったら、悪いことにばかり目を向けたりしないで。あたしは親にも認められない脚本家の見習いで、あんたはパパ嫌いのひねくれものって、みんなが笑ったとしても、あたしたちはきちんと馬鹿騒ぎして、信頼して、何かを一緒にやった。ドラマみたいに素敵じゃなくてもいい。何かしたことが大事なんだ。」
俯いたまま聞いていた俺は、その瞳をすんなりと見つめ返す。
俺と違って嘘を吐けないリディが、そんな目をしているリディが、本気でそう言っているのはよく分かった。
本屋で出会った時、一緒に家事をしていた時、カポラルを初めて観に行った時、ジスラン達とぶつかった時。
本棚に預けたアルバムの様に懐かしい背景を思い出しながら、俺は口の端を上げた。
アベルと共に嘘を吐いて俺に近づいたことは、今となればもうどうでもいいことだった。
俺達が出会う為の布石だと思えば、そう悪いものでもない。
考えているうち、リディはジャケットに手を突っ込んで
俺の腕が届かない距離まで、細い足で走って行く。そして、振り向いた。
「―――バイバイ、ベルナール!」
いつもの如く明るく言って、リディは、その指先に投げキッスを乗せる。
何の話を聞いてもピンと来なかった俺に、そのキスは一つの感情を思い起こさせた。
初恋は、さよならで始まり、終わった。
それでも、俺がトランクをひとつ持って彼女を追いかけるとは言えない。
好きだから、尊重したいから、俺達は別れを選ぶんだ。
駆けていく彼女の後姿を焼き付ける様に、マッチで火を起こすと
俺は「母が輝いた映画」の名前を持つ煙草に、それを落とした。
Gauloisesはこれにて完結です。この煙草シリーズでもう1作ほどお話があるので、もしかしたら乗っけるかもしれません、見てくれた方、ありがとうございました!




