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Gauloises  作者: 尾川亜由美
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三話

アベルとの別れののち、ベルナールはリディとの生活に戻るも

ジスランの依頼にも強く気を廻さなければいけない状態となる。

ブランシュは、なぜジスランを避けるのか。

いつも、自分の思い通りになど事はいかないものだ。


「―――ねえ、あのオジさん、帰しちゃって良かったの?」

コートをソファに放り、冷蔵庫に向かう俺に、リディはアベルの存在を問う。

「教えなきゃだめか?」

「だめってことないけど、ベルナールがあんなに感情的になるの初めて見たから。」

何となく引っかかる言い方だったが、テーブルに放られたきゅうりを投げて渡され、肩を竦めた。


「切ってお皿に盛るだけ。簡単でしょ?」

「どうかな。…卵料理は俺が作るよ。それぐらいしか作れないからな。」

「じゃあ、あたしは野菜係ってことね。」

二人で並んでキッチンに立っていれば、賑やかになったものだなと感じる。

歳の離れた妹を持ったら、ひょっとするとこんな感じなのかもしれない。


「…エメのこと、詳しく知ってるんだね。」

触れて欲しくないことに疑問を投げかけられ、目を細める。リディは尚も食いついた。

「知ってる?シンデレラを題材にした映画にも出てたんだよ。端役だったけれど、綺麗だった。」

シンデレラ―――そういえば、俺が小学校に通い始めた時、エメがどうしても役が欲しいと粘って出演できた映画だ。確か、シンデレラと王子が踊っている中で、他の男性と社交ダンスを交わしている、ぐらいの出番だったと思う。


ざくり、ときゅうりを切りながら、リディは笑う。

「でも、あれ童話でも映画でも嫌い。一瞬恋に目覚めて、魔法が解けて…それでもまだ捜してくれる男の人なんて居ないと思う。」

「そういう時は呼んでくれ、探偵の出番だ。」

何気ないジョークのつもりが、彼女は薄青色の瞳をこちらに向けて、一瞬押し黙った。

「ホントに?いつ呼んでも捜してくれる?」

何がそんなに怖いのかと、俺はリディの方を見て苦笑する。

「捜すよ。王子を引っ張ってきてやる。」

嬉しそうに破顔するリディに、少し俺は学んだ。


リディは確かに、俗世間に擦れたような生き方をしているが、魂自体は美しいのだと。



―――皿を運んでいく、ベルナールの背中を見て、リディは幸せそうに微笑んだ。



夕食は、今朝と打って変わって静かなものだった。

トマトのサラダに、ベーコンエッグ。それと、インスタントのスープ。

向かい合って食べていると、リディは薄青色の瞳をこちらにじっと向けた。

「ねえ、煙草って美味しい?」

「唐突だな。」

きょとんとして答える。まさか、興味があるのだろうか。

その言い分の意味を考えていると、彼女は首を横へ振った。

「ううん、吸いたい訳じゃないよ?ただ、何かに使えないかなって。」

「使うって?」

訊ねてみると、リディは十指を組み、どこか心配そうな目つきをする。

何かあるのかと構えていると、意外な返答が返って来た。


「あたし、脚本家になりたいの。大好きな映画に関わる仕事、大変だと思うけどやってみたい。」

かたん、とスプーンを持つ手を俺は止め、佇まいを直す。

目指しているものがあるなら、真面目に聞いてやりたかったのだ。

リディは、コーンスープの入った大きいカップを手で包み、俯く。

「でも、ママもパパも、反対する所か鼻笑いしかしない。叶いっこないって。

だから、自分なりに仕事を掛け持ちして、色んな人を見て知り合って、表現を広げようとしてたんだ。」

「大学には行かせてもらえないのか?」

俺の問いに、顎が縦に引かれる。


「途中で挫折するだろうって、だからそんなものにお金は使えないってさ。バイトの給金だって、生きていくのに精いっぱいだ。夢なんて…何年先になっちゃうことやら。」

自嘲気味な雰囲気に、俺は黙って考え込む。

確かに、効率の悪いやり方で夢を追っているとは思う。だが、若者などそんなものじゃないのか。


気にかかったのは、本気で追いかけているものがあるとしたら、親に否定されればショックを受けるということだ。



リディは、多分人に懐っこいんじゃない。寂しいのだ。



「俺が通えるようにやってみる。」

その言葉に、リディは驚いて見上げてきた。

咄嗟にではない。それなりに考えてのことだ。

「俺がって…どうやって?」

「明日、マノンに話してみる。近況報告もしないといけないしな。よしんば、だめだったら…。」

「待って!お金借りるのは嫌。あたし達、まだ会って一日も経ってないんだよ?そこまでしなくていい。」

半ば怒ったように止めに掛かるリディに、俺は我に返って頷く。

確かに、そんなやり方は有難迷惑だ。マノンと話し合う方が、まだ建設的だろう。

だが、数カ月も過ごした友達でもないのに、そんなお節介をやこうとしたのは初めてだった。




―――リディは夕食後に、疲れたと言って、客室に入って行った。

もう眠るのだろう。時刻は8時と、まだ浅い時間ではあるが。

俺は、黒電話を暫く眺めて、やっとのことで受話器を取った。

ダイヤルを回し、ちらりとデスクの隅に置いてある紙を眺めた。

ジスランが、最初に来た時、置いていった電話番号だ。


暫く、けたたましいコール音が鳴る。5回ほどで、漸く相手に繋がった。

『なんだ。今日の仕事はもう終わりだぜ。』

「ベルナールだ。ブランシュが俺の事務所の前でウロウロしてたぞ。」

『へえ。ちゃんと、ゴムはつけてやったか?』

「残念ながら寝ていない。お前に、捜さないよう頼んでいた。」

そこで、一度ジスランは言葉を封じ込める。

ジスランが言葉に詰まるのは珍しい。嫌な予感が、拭えなかった。


「なあ、ジスラン。お前と彼女の言い分は一致していないと思うんだが、本当は何か理由があるんじゃないか?」


唸るような声のあと、普段の冗談めかした口調を止め、ジスランが言った。

『金なんざ、たらふく持ってる。あいつから貰わなくたって生きていける。衣食住ならね。ただ、人の心がそれで買えるかどうかって言えば、そうでもないんだ。』

女優に恋をした男娼。それも一晩のお付き合いで。

素直に立派だとはいえるわけがないし、どちらも浮かばれない気がするもの、俺は辛抱強く話す。

「じゃあ、貴方は振られたということか?ブランシュは捜すなというが、そちらさんは捜したがってる。」

『まだ答えも貰ってないって気分だが、まあ男娼に告白されたら、誰でも逃げるよな。一夜の情愛なんてそんなもんさ。』

俺には分かりにくい仕事だ、と内心呟く。

可愛い女に囲まれても、どうせ昔のことを思い出して落ち込むだけだろう。


「それで、どうする?まだブランシュに会いたいか?」

『いや。明日そっちに行くから、ちょっと預け物を持ってくよ。ブランシュが来なかったら、捨ててくれ。』

「客人が居るから、勝手に家には入らないでくれ。」

一度、探偵の家が見てみたかったとほざいて、ジスランに寝室を探られた時は、かなり不愉快だった。

今はリディも居るし、変な誤解だけはさせたない。

『まあ、粗方見たからもう見る場所もねえや。分かった、お前の事務所に行く。おやすみ。』

「ああ、おやすみ。」

黒電話の受話器を戻すと、欠伸が出てくる。


今日は疲れた。もう休もう。

俺はデスクチェアから立ち上がり、自宅に続く、緑色に塗りたくられたドアを開く。

何とか二人座れるぐらいのソファに寝転がる。すぐに、眠気は俺を襲った。


一度トラウマ化したものが、夢に出てきて悪影響を及ぼす、と昔、知人の医者から聞いた。

その時はまさに、地獄だと思った生活の一部を夢で見た。

アベルが寝室に、エメ以外の女を連れ込んで事を終わらせ

エメと俺はそれを見て、呆然と立ち尽くす。

やがて、エメはその場で赤ん坊のように、大きな声で泣き崩れるのだ。


怒りよりも、失望とショックに俺は立ち尽くす。

隣で泣き叫んでいる母親がこの上なく可哀想で、何もしてやれないのが悔しくて、ただ抱き締めることしかできない。

『―――ごめん、ごめん、母さん。俺がちゃんと父さんを見てたら…。』

こんな辛い思いをさせるぐらいなら、結婚なんてして欲しくなかった。

エメは自分の仕事に打ち込んで、華々しく名が売れた方が嬉しかった。



「…母さん…すまない…。」



口許がもぞもぞと動き、聞こえた言葉は、瞼を難しくも開けさせる。

閉め切ったブラインドから、白い陽射しが射し込み、朝の快い寒気が漂う。

鈍った肩を動かしていると、表の方―――事務所から話声が聞こえてきた。

ひとつは男。もうひとつは、まだ若い女の声だ。

そういえば、事務所の鍵をデスクに放ったままだったと後悔する。


急いでソファから立ち上がり、緑色のドアを開けると、やはりというべきか―――ジスランとリディが話し込んでいた。

小洒落たストライプのスーツに、幼い笑顔を浮かべるジスランは俺の方を見て、明らかな悪意ある視線を見せる。

「よう、寝坊助。今度からは、そのつまらねえ机に、大事なモンを置いてけぼりにしないこったな。」

ジスランの憎まれ口に眉を顰め、簡素な薄着のリディを軽く睨む。

「リディ!何で事務所を開けた?」

「だって…インターホンがずっと鳴ってたから。それに、ちゃらちゃらした格好してたから、ジスランってお客だと思って。」

肩を竦める彼女に溜息を堪え、壁時計の方を見遣る。まだ開業時間でもない。

「…待たせたのは悪かった。だがな、表の看板に時間が書いてあるのは意味があるんだ。」

「朝は暇な俺を待たせる、常に暇なお前が悪いんだ。で、仕事の話に入るか?それともそのツラを洗ってくるのか?」

「預かり物の話に入ろう。リディ、外してくれ。」

リディは素直に頷き、自宅の方へたっと消えた。ようやくのことで、大きな溜息を吐いて、デスクに座り込む。

様子を見計らってから、ジスランは眼前のソファにどっかりと座り込んだ。


「――――それで、ブランシュに預けたい物ってなんだ?」

俺が訊ねると、ごそごそとジャケットからジスランは例の品を取り出す。

それは、二枚分の映画のチケットで、もっと金のかかる物だと思っていた俺は、心意を量り兼ねると彼を見つめた。

「俺が、ブランシュを映画に誘いたかったら変か?ほらよ。」

鼻笑いを漏らしたジスランが、尚もそれを差し出してくるので受け取る。

その券には、“ゴロワーズ”の題名が刷られており、俺は一瞬押し黙った。


『ゴロワーズ!エメの代表作だよ。ヒロインのお嬢様役だったの。』


昨日、食卓の時に差し出された“ブレンダ”。

目に優しくない、赤毛を踊らせる黒いドレスの女が、言葉を一時奪う。


そんな俺に気づいているのかどうか、ジスランはどこか褪せた声色で言う。

「ガキの頃、見たことのある映画なんだ。内容は正直、覚えてない。でも、主演女優が好きだったから思い出深くてな。」

「女優を映画に誘うなんて、まるで当てつけのようだ。貴方らしいよ、ジスラン。」

「俺にとっちゃ、あの女は完全無欠の大女優じゃない。」

その言葉に、瞳をじっと見つめる。見つめ返す視線には、飾り気も偽りもなかった。


「…ただ、仕事の都合で、近くここから出て故郷に帰るんだとさ。

育った場所に、俺みたいなのが追いかけても、あいつの評判に差し障る。

…最後の思い出がベッドの上じゃ、何だか味気ないだろ?」


それっきり、立ち上がり、ガラ悪くジャケットに手を突っ込んで歩いて行ったジスランは

事務所の扉を蹴っ飛ばして開け、右足で閉めて行った。

出来ることなら、何とかブランシュを捜し出して、話を聞いて欲しかったが

リディやマノンのこともある。頼れるツテがない訳ではないものの、と一考する。


すると、緑のドアがぎこちなく開き、リディが出てきた。

先程までは薄着だったその身には、昨晩買ったデニムジャケットに、リュックサックを背負っていて明らかにこの家から退散せんとしている様子だ。

「待て、どこに行くんだ?」

慌てて立ち上がると、リディは強気な顔立ちに困ったような笑みを浮かべて、手を振る。

「ママのとこ。あたし、居ると邪魔でしょ?」

「ジスランのことを聞いていたのか。」

訊ねると、繕うこともなく彼女は肯いた。

「あたしは、別に帰る家が遠いとか、そういうのじゃないし…気晴らしになったし。そろそろ、お子様な考えも卒業しなきゃなって。」

明らかに、そう思っていない曇った顔。

たった一日しか一緒に居なかったが、リディの問題には、まだ片足を突っ込んだ程度であることぐらい分かっている。


俺は厳しい声で、今出て行かんとしているその女に言った。

「リディ、俺の仕事には関与しないと約束したことは覚えているか?」

「うん。最初の時でしょ?…覚えてる。」

「だったら、お前は約束を破った。タダで住まう場所まで貸したんだ。少しぐらい、俺の意見を聞くべきだ。」

薄青色の瞳に、悲しそうないろが湛えられる。まだ何も言っていないのに、何をそれほど恐れるのか。


「―――ジスランの仕事をさっさと片付ける。協力して欲しい。」

「協力?」

「助手なんて居ない身でな。幸い、無賃で雇えて映画に詳しい女が目の前に一人居る。」

「あたしが、助手…?」

確認するように聞いて来るその声は、怖々としていた。

深く頷いて見せる。これぐらいしか、気の強いリディを引き留める術が思いつかなかった。

笑ってくれるだろうと思っていたのに、リディの瞳から零れた一筋の水滴が光ると、俺は動揺して彼女を見た。


リディは、駆け寄って俺に抱き着き、そのまま黙り込む。


俺は苦笑して、彼女の頭をぽんぽんと叩く。

「馬鹿だな。帰れとでも言うと思ったのか?」

「…思った。」

嗚咽を堪えながら呟かれる。

女は苦手だったし、こういった男女の関係を思わせる事態はもっと苦手だが、子供みたいに言うリディは、素直に可愛いと思えた。



―――やり方がない訳じゃない。ただ、心配ではあった。

娘が居らず、休めているのかどうかさえ分からないマノンのことだ。長引かせれば、事は悪くなる。

朝早くに連絡しようとしていたのに、予定が若干変わってきてしまっていたし

そのことに、俺自身、焦っていた。



少ししてから、リディは事務所にきちんと黒いリュックサックを置いて、留まってくれたことだけは確認できた。

「まず、どうしたらいい?」

「ブランシュは、多分この街の探偵を捜しまわったんじゃないかと思っている。商売敵に訊ねてみよう。」

そう言って、肩を叩けば、リディの瞳の光は弱っている気持ちを掻き消す様に、白く輝いた。


広くもないこの地帯で、開業している探偵事務所は限られている。それほど、多くはない。互いに、電話帳を開いて掛けていると、とある、ひとりの探偵が応じた。

セドリックと云う中年の探偵で、俺の問いに彼は、快く答えてくれたのだ。

『ブランシュねえ。あの女優だろ?昨日に電話してきたよ。ジスランとか云う男が訪れなかったってね。』

「申し訳ない。こちらの仕事なんだ。電話番号は知っている?」

『ああ。連絡先ぐらいならね。痴情の縺れなんて仕事にするもんじゃない、譲るよ。』

デスクに放ったボールペンと、メモの紙を一枚ちぎって、手繰り寄せる。

セドリックの言う番号を書いていく。それを見ていたリディは、何やら忙しなく電話帳を捲っていた。


軽い礼を言った後、黒電話を置く。おっかなびっくりなベルの音が鳴った。

電話が終わったことを知ると、リディが電話帳に視線を落としながら言う。

「その番号、個人のじゃないよ。映画スタジオの番号だ。ジスランの話じゃ、ホテルは出たんでしょ?いちいち変わる宿泊先の番号なんて教えられないもの。」

「おかしな話だな。仕事に疵をつけることを敢えてするのか。」

「一番、ブランシュさんの仕事を疵物にしたくないジスランじゃ追ってこれない。…それに、故郷に帰って、本当に映画撮影が待ってるの?」

「どういう意味だ?」

女は根拠のない勘の鋭さがある、と、昔ジスランに教えられたことがあるが、まさしくそれは裏打ちが感じられないものだった。


何が言いたいのか量り兼ね、眉根を顰めていると、彼女は神妙に首を振って見せる。

「誰にだって、育った場所に帰るのは意味があると思うから。

やり直し、挫折だとか、吉報とか。何か、勇気づけられたいから、背中を向けてた所を振り向くの。家族や、昔馴染みが居る場所って、どんな所だってあったかいでしょ?」

「ブランシュは、何か違う理由があって帰省するということか…。」

彼女自身、ジスランをどう思っているのか、本当の所がよく分からなかった。

だが、確かなのは、ジスランを嫌がっているというより、他の理由があるということだ。

それこそ、リディが言った挫折や、他のものかもしれない。


「スタジオに行こう。ブランシュが居るかもしれない。」

「分かった。」

デスクチェアから立ち上がり、ちらりとブラインドの閉めた窓を覗いて、俺はコートを羽織った。




ブランシュが映画の撮影をしているというスタジオは、この地帯唯一のもので俺の一生分の給料よりも高い金が注ぎこまれた場所だ。豪華な外観、庭、豊富にそろえられた服やセットが、どれも射光できらきらとひかる。


俺とリディが足を踏み入れると、映画の撮影の為だけに使われているこの場所で場違いだとでも言わんばかりに、スーツを着た男がつかつかと歩み寄って来た。

「君達はなんだ?何か用か。」

「探偵だ。ブランシュを捜している。ここには居ないか?」

探偵バッジを見せると、男は渋々という感じの顔つきで、ちらりと後ろに視線を遣る。

「俺はブランシュのマネージャーなんだ。彼女をスキャンダル報道にあげたいってんなら、通さないぜ。」

「話がしたいだけだ。何だったら、貴方が一緒に居ても構わない。」

貴方、という呼び方が如何にも気に喰わんと男は鼻笑いを漏らし、振り返る。

「せめて、言伝だけでも頼めないかな。ジスランが、彼女を映画に連れて行きたがっている。最後の思い出に。」

ジスランの名が挙がると、くるりとマネージャーの男は振り返り、げっそりとした溜息を吐く。

その様を見ていれば分かる。ジスランがどういう人種なのか知っているのだろう。

「…ブランシュは会いたくないと言ってるだろ。結婚も控えてるっていうのに、まったく…。」

「待て、結婚と言ったか?」


俺は、一瞬混乱に陥りながら訊ねる。マネージャーの男は、その様子にきょとんとして頷いて見せた。

「これが最後の彼女の舞台さ。あとは、故郷で旦那の農家を継いで、静かに暮らすんだと。」

瞬時に、リディと顔を見合わせる。そんなことを聞いたか?いや、聞いていない。

結婚を控えているなら、なぜ、ジスランをはっきり拒絶しないのか。

自分に靡いている男を弄んでいるだけなのか。

そう思うと、眉根がきゅっと上がる。嫌悪感が過った。


横で話を聞いていたリディは、マネージャーの男に言う。

「このままじゃ、ブランシュさんが後悔して終わっちゃうんじゃないかと思うの。

お願い、あたし達に少し話す時間をちょうだい。」

深々と腰を折るリディ。その様子に、やり辛そうに男は頭を掻いた。

「…一応、ブランシュには話を通してみる。会えなくても、俺を恨むなよ。」

それだけ言って、男はスタッフオンリーの扉へ歩いて行った。


「結局、恋愛っていうものは、こうなるんだな。」

ウンザリした気分で呟く。誰に言った訳でもなかったが、リディはこちらを覗き込んでくる。

「分かったように言うんだね?」

「分かってるから言ってるんだ。」

にべもなく言い返していると、こつこつとヒールがリノリウムの床を弾く音が聞こえてきた。

視線をそちらに遣れば、苦虫を噛みつぶしたような顔つきで、ブランシュが歩いてきていた。


「呼び出してすまない。」

何とか鬱憤を腹の底で受け止めて、声を掛ければ、彼女も薄らと微笑んだ。

「いいえ。また会ったわね、探偵さん。何か用事かしら?」

「ジスランが貴女と、最初で最後のデートがしたいそうだ。映画のチケットを貰っている。」

「…ごめんなさい、彼には関わりたくないの。」

黒色の目が俯き加減になる。いい加減に、その清楚ぶった態度をどうにかして欲しいものだ。

アベルは自分が悪人であることを隠しもしないから、まだ素直に憎めた分、ブランシュの態度はどっちつかずで卑怯に見える。


「それが本音なのか?さっき、貴女のマネージャーが、結婚を控えていると伝えてきた。そのことについてはどう思っている?」

真っ赤な唇がきゅっと歪み、ブランシュの視線はやりにくそうに背けられる。

「私も女優である前にひとりの女よ。疲れ果てて、ふるさとに帰りたくなるほどね。

そこに居て欲しいのは、ジスランじゃなくて、郷里の人々だけ。そこでのんびりと暮らすにはジスランから逃げるしかないの。あの人の気持ちも、分かっているつもりだから…。」

「ジスランをその気にさせたのは分かっているが、自分の幸せを選択する。そういうことで良いんだな?」

伏し目がちに語るブランシュへ、敢えて厳しい言葉を投げかける。

いや、俺がそう言いたいのは、あの日―――女とベッドに居た時のアベルへなのかもしれない。


すると、ブランシュは自嘲気味に笑ってみせた。どことなく、疲弊した微笑みで。

「分からないでしょうね。ジスランが片思いしていると思うの?私は、これ以上踏み込むことはできない。ジスランの為にも、私の為にも。…じゃないと、全てを棄てることになるわ。」

「別れは伝えなくていいのか?顔も見ないままおしまいにして、満足できるのか?」

「…会ってしまったら、きっと戸惑うもの。おねがい、伝えてちょうだい。貴方のことなんて好きじゃないって。」

両腕で胸を抱き寄せる様にしたブランシュは、小さく震えていた。二人の男を愛してしまった女の末路。どれだけ辛かろうが、すべては自分が蒔いた種だ。


「リディ。行こう。ジスランならまだ仕事の時間じゃない。」

「でも、ベルナール…。」

「行くんだ。」

リディのか細い手首を掴み、スタジオをあとにしようと歩き出す。

ほんの少しの力が手に込められているのが分かったが、最早ここに用などなかった。




外に出ると、寒風がひとつ吹き、リディの長い金髪を揺らす。

幸いにも空模様は良かったが、俺の中ではどしゃ降りに等しい。

「どうするの?ジスランにもう関わるなって言うの?」

難しい顔をするリディの言葉尻には、小さな怒りが混ざっている。

俺のやり方が気に喰わなかったのだろう、瞳にもその炎が宿っていた。


俺は首を縦に振り、近場の公衆電話へと歩き出す。リディは慌てたように着いて来た。

「何はともあれ、ジスランには報告しなきゃいけないことがある。」

「それってなに?」

「真実だ。それ以外ない。」

「ちょっと、何が何でも二人を別れさせたいの?酷いよ、ベルナール!」

一切無視して受話器を取りながら、番号をプッシュしていると、リディも考えがあるように大きく溜息を吐いて黙した。


今朝は営業時間が早いのか、たった1コールでその主は出てくれた。

『よぉ、おはよう。このジスランにご指名かい?』

おどけて言って見せる声色だけで、相手は誰か分かりやすいのはある意味スキルかもしれない。

とにもかくにも、ジスランだと理解出来たのは上々だ。

「ベルナールだ。ブランシュに会って来たよ。」

『へえ。いつもそれぐらい早く動いてくれよな。…で、聞こうか。じゃないと仕事にならないぜ、探偵さん。』

戯れの口調を潜めて、ジスランはごく真面目に訊ねてくる。

リディが真後ろに居るのをきちんと確認したあと、視線をアスファルトへと戻した。

「ブランシュは貴方のことを愛している。だから、映画には行けない。それが調査結果だ。」

嘘偽りなく告げる。背後で、リディが呆れ果てた様に俺を睨んだ。

ふざけているつもりも、貶めるつもりもない。これが俺なりの答えだ。

ジスランは少しの間黙り込み、その言葉を加味しているようだった。


やがて、力ない笑い声がからからと受話器の奥から聞こえてくる。

『なるほどね、そうか。ま、そうかもしれない。』

「貴方はどうする?まだ会いたいか?」

『そこまで言われて会える訳がないだろ。それをやったら、男としても人としても最低だ。』

禁煙中であったはずのそれに手を伸ばし、ライターに火をつけ、紫煙を吹く息。そして、微かに椅子が擦れる音が聞こえる。想いを断ち切る儀式の様に。


それからほんの少しの沈黙の後、ジスランは言った。

『報酬なんだが―――映画のチケット、くれてやるよ。じゃじゃ馬ちゃんとでも見に行きな。』

“じゃじゃ馬”の辺りで顔を顰めていると、「リディ」とジスランは悪戯っぽく囁く。

『お前んとこに居候してるだろうが。人の縁は傍にあるうちが華だって今回で分かったよ、お前もおふくろさんのことでもう身に染みてんだろう?思い出をつくっとけよ。どんなのだって、きっと後悔しないさ。』

思い出。エメの姿が、脳裏を過った。最低な父親の所為で、ずっと泣いている母の姿が。

そしてそれすら無くなった時―――俺は、平気だったか?

違う。即座に自分にそう言い聞かせた。

もっと、笑っている母と時間を過ごしたかった。出来れば、母に尽くすアベルの姿が見たかった。

そんな家族なら、どれだけ良かったことか。


『―――もう切るぜ。俺は忙しいんだ。』

「…ああ。良い一日を。」

いつもの社交辞令に、がしゃんと音を経てて向こう側から通話が切れた。

ジスランが俺の自宅を勝手に調べ回った時に聞いたが、どうも彼はこういう“訛り”が好きではないらしい。


受話器を置いて振り向くと、むっつりと黙って10時の方向を向いているリディに声を掛ける。

「ジスランの件は終わった。この後は、マノンに電話を入れて…。」

「あたしはどうかと思う、こういう終わらせ方!」

口を尖らせるその様子から察するに、多分完全に理解は出来ていないのだろう。

納得させる為に、俺はリディの肩を掴んで振り向かせ、目を見た。


「あのまま映画に行ったら、二人はきっと別れることに躊躇する。泥沼に嵌れば、相手を幸せには出来ない。自分本位の愛じゃ成り立たないと分かっていたんだ。それだけ、互いを愛していた。それを台無しに出来るか?」

「はあ?じゃあ自分の気持ちはどうやって消化すればいいの?嘘ばっかりの恋愛で、逆に傷つき合うのが愛ってものなの?」


噛み付く勢いの弁舌や、青い目に宿っている真剣さは完全にカチンときているのが理解出来る。

これでも客商売だし、特定の相手以外は堪忍袋の緒は太く出来ているつもりだ。辛抱強くリディに語り掛けるのが、今の仕事だった。


「自分の気持ちが伝わらないのは確かに寂しいが、相手の本音は心得ている。嫌いで別れた訳じゃないだけ、俺は素晴らしい恋愛だと思う。貴女は、そんな彼等を褒めることは出来ないか?」

「基本的にあんたの考え方は嫌いじゃないよ。でも、なんだか偶にベルナールって捻くれてる気がする。しかも、大切な時にはいつも。ジスランとブランシュさんのことも、アベルのことも。」


肩を掴んだ手をぴたり、と止める。目尻が怒りで歪むのが分かった。


「どうしてアベルを知っている?」

「別に…詳しく知ってる訳じゃない。」

「詳しく知らない奴がそんな声で、あいつの話をしない!」

怒鳴り散らすと、完全に“スイッチ”が入ってしまった気がした。

なぜ、アベルを知っている?昨晩は俺を騙していたのか?


その睥睨に耐えかねるように、リディは俺の胸に飛び込んできた。

「ママからアベルの女癖の悪さぐらい聞いてる。それでベルナールとエメが苦しんでることも。」

受け止めない訳にはいかない体からは、嗚咽による震えが伝わる。

まさか、こうやって出会うこともアベルと結託していたのか?

ひとつの仮説が脳裏に広がると、言いようのない怒りに拳を握りしめた。

「エメを知っていたから俺に近づいたのか?女優の息子はどんな奴だろうと考えて?」

肩を引き離して向い合せると、リディは涙目で首を大きく横へと振る。

その様子に、いつもの強気な彼女の姿は想像も出来なかった。

だが、アベルのことを伏せて近づいて来たリディを思えば、最早どういう彼女が真実なのか俺には分かりかねてしまう。


彼女の答えを待っていると、ふと、腕の中でリディの重心が後ろへ掛かる。

慌てて抱き寄せて声を掛けても、リディはそのまま倒れ込んでしまった。

何度か目を瞑った頬を叩いたが、反応はない。

「くそ…リディ、一度戻るぞ。そら、大丈夫だからな。」

リディの体を裏返しにして背中に背負いこむと、俺はタクシーを呼ぶ為にもう一度公衆電話にコインを投じた。

あと一話で完結します。

ここまで読んでくださってありがとうございます。

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