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Gauloises  作者: 尾川亜由美
3/5

二話

何とか依頼通り、リディを見つけたベルナールだが

懐っこい彼女の性格から、一時彼女を預かるかたちで同居生活を送ることになる。

そんなときに、もうひとつの依頼が舞い込むが…。


事務所の方へ戻ると、訪問者も居ないし、今日は予約も入れていなかったので昼食にすることにした。

冷蔵庫を漁ろうとすると、リディも中を見遣る。


「…卵にチーズに…ね、あたしが作るから、スクランブルエッグでも良い?」

「貴女は客人だ。のんびりしてろ。」

「やだ!ベルナールに食べてほしいんだもん。」

おいとか待てとか、俺が言葉を発する前に

卵のプラスチックパックとチーズの包みをリディは持って行った。


流石に自分の家で自由気ままにやられるのは癪で、フライパンを取り出して卵を奪う。

「いいじゃん、スクランブルエッグ好きでしょ。」

「マノンに教えられたのか?」

確かな情報に、リディはあっさり頷いて見せる。

「砂糖はナシ、その代わりチーズ入りが好物だって。ね、お願い。あたしにやらせて?」

そこまで食い下がって懇願されると、「だめだ」とは言えず、その小さなキッチンを離れた。

こうして連れてきたは良いが、色々と聞きたいこともあるし、ルールも作りたい。


でも、何とはなしにリディが見せてくれた笑顔は、嬉しかった。

可愛いだとか、美しいだとか、女性的なものの前に暖かい。


「…どこかで見たな。」

ソファに座りながら呟く。足を組み直し、さてどこだったかと思い浮かべた。


「ベルナール!お昼出来たよ。」

自宅の扉が開き、白い皿をリディが運んでくる。

皿の上には、トースト二枚とその上にたっぷりのスクランブルエッグ、それとミニトマト。

コーヒーテーブルに置かれたそれは、なかなか旨そうだった。

「悪いな。頂くよ。」

「早く食べて食べて!」

はしゃいでいるリディを見て、俺は一口トーストを齧る。

「どう?」

「…長らく自炊してないから、旨いな。マノンの作るものとはまた違う。」

「良かった。ここに居る間は、あたしが家事をやるからね。」

「それなんだが、ルールを決めた方が良いと思うんだ。」

ミニトマトをフォークで刺そうとしていたリディが、フォークをきちんと戻して姿勢を整える。


「…まず、俺の仕事には関与してこないこと。当たり前だな。

外に出ていく時は俺も同行すること。逃げられでもしたら、たまったものじゃない。

部屋は客間を使っていい。狭いが、寝れないスペースではない。」

ひとつひとつのルールに、リディは頷いて見せた。

活発で向こう見ずに見えるし、突拍子もないことをしないと良いが…。

顔を顰めていると、彼女は首を横へ振った。

「ベルナールの邪魔になることはしない。ちゃんと従うよ。」

「ありがとう。入用なものはあるか?」

「ベルナールが居れば良い。」

「…?」

不可解な言葉に、俺はにっと笑うリディを見る。

どうしてなのか、リディの言葉には「含み」がない。

会話の応酬というか、求めているものがない。

彼女は、ただただ自分の気持ちを語るだけのタイプらしい。



そうだ、とばかりに立ち上がって、リディが雑誌を持ってくる。例の“ブレンダ”だ。

案外分厚い雑誌でぱっと中を開くと、ひとりの女優に目が留まる。

エメ。目に痛い赤毛の、黒いドレスの女は、間違いなくエメだった。

「ゴロワーズ!エメの代表作だよ。ヒロインのお嬢様役だったの。」

「知ってるよ。俺も見たことがある。」

ゴロワーズ―――母であるエメが、初めてヒットさせた映画作品のひとつだ。

だが、リディにそのことを話す気にもならず、淡々と受け身になる。



結局昼食時、リディは、映画の話ばかりして、度々エメの名を口にした。

女というのは、食事が終わっても話をするのが好きだ。

リディはわざわざコーヒーまで淹れてきて、昼休みの時間ときた。

「ね、ベルナールは映画好き?」

ブラックコーヒーを飲みながら聞かれ、俺は肩を竦めて見せた。

「母親が好き、だったかな。その影響で見ていたよ。貴女はラブストーリーが好きそうだな。」

「んー嫌いじゃないけど、興味ないかな。

映画は詐欺なんだ、いつだってあんなに和気藹々で終わるってないと思う。」

それについて間違いはない。男も、女もどこかで躓き、裏切るものだ。

コーヒーカップを置き、リディは薄青色の瞳を天井へと向ける。

「だから、後悔しても代価に残る人と恋したい。まあ、機会があれば。」

「…そういうものか。女性は強いものだな。」

アベルの所為で傷ついて、出て行ったエメのことを思えば

後悔しても代価に残る愛もないのだと分かる。

妥協も必要なのはそうだ、恋じゃなくても友愛だってそうじゃないか。

だけれど、傷つく為に誰かと何か始めるのは、違うと思う。

幸せになる為に傍に居るのが普通じゃないのか。


「ママは、パパと結婚して“あんな人だと思わなかった”っていつも言ってるけれど、それって覚悟しておくのが普通だと思うんだ。」

「マノンにはマノンの苦労があるんだ、思うなんて憶測ではかっちゃいけない。」

「まあね。でも、良いじゃない。傍に居られて、お嫁さんだって勇気を貰えるなら。」

俺は幾らか苦笑を漏らして、「そうか」とだけ返した。

どっちもムキになっても、答えなんて出てこない。喧嘩腰になる前に、さらっと流しておくことにした。

終わったことだ、エメのことで全ての繋がりを否定して腐ることもない。もう一人前の大人だと言うのなら。


アベルが、不倫した女と子供が出来たと告白した日。

あの日は、ありふれた日々を信じていた高校生の頃だった。


午後になると、リディは仕事場であるオフィスには来ないで、部屋の掃除をすると言っていた。

その方が仕事は捗る。好きな時に煙草だって喫える。何より苦手な話をしないで済む。

リディがどれだけ夢に溢れた女性なのか知らないが、今の俺には少し耳障りな点が幾つかあった。



…俺のことはさておき、と、マッチの箱をぐらぐらとオフィスの前で揺らした。

ここの扉の前で、足音が響いてきたので俺はそれに神経を傾ける。

やがて、横柄にドアが叩かれ、息を吐いて入るように促した。


中に勢いよく入って来たのは、栗毛のほっそりした男性で

ジャケットに腕を突っ込んでこちらを見つめた。

俺よりまだ若いのに、いつも随分な仕立ての服を着ているその男は、禁煙のパイプを取り出す。

そして小首を傾げ、彼はさも楽しそうに鼻を鳴らして見せた。


「三日前なのに、女物の香水の匂いがする。いつからおとぎ話を信じるようになったんだ?それとも、卑しい親父さんの血は逆らえなかったかい?」

「契約のうちなんだ。嫌なら大通りの方に一件、立派な煉瓦造りのマンションがあるから

そこの最上階に行くと良い。俺より恋愛沙汰に詳しい探偵の事務所がある。」

手応えがないことに心底つまらなそうにした男―――ジスランは、向かいのソファに座り込んでふんぞり返る。


彼は、ここ最近つまらない事情で幾つか仕事を持ってきている、欲しくないお得意様だ。

まだ二〇代に入ったばかりで、親からも愛されているのに、何が不満なのか男娼で食い繋いでいる。

このしっかりと刺繍の入った黒ジャケットを着れるのも、女客のプレゼントだからだそうだ。


「暇だったら、ちょいと捜してほしい女が居るんだ。ベルナール。

俺のサービスにツケなんて言葉はないんだが、お小遣いもなしに居なくなりやがったんだ。」

「だったらもう男娼は止め時だな。」

説教くさくなるのを覚悟でそう言葉を掛けると、売れっ子の男娼に相応しい可愛い貌がほんの少し顰められる。

ジスランが言うには、恩を売った分きちんとした報酬を貰うのは、暴力沙汰になってでも当たり前らしい。金絡みじゃなくとも、女子供だろうとだ。


「イヤならまあ確かにしょうがないけど、あんたの懐もあったかくなるんだ。たかが一人の居所を探すだけだぜ?その為にそんな大層なバッジを見せつけて稼いでんだろ。それとも同業がここに居て、事後だから帰ってほしいのか?」

「別に娼婦なんか連れてないし、事情で泊まる所がないんだ。

それを放っぽりだすなんて、同じ立場なら優しい貴方には出来ないだろうに。」

「あーあ、聞きたくもないお褒めの言葉に、恭しい口調。反吐が出るな。どうせそう思ってないなら面倒くさがらずに片付けろよ。」

何気ない憎まれ口に、眉頭が動くのがわかる。面倒くさがらず、か。

確かにそうかもしれない。正面からぶつかるより、引いて居た方が面倒事も起きない。

良かろうが悪かろうが、それが俺自身だ。


「…用件だけ聞くよ。」

「そうこなきゃな。―――名前はブランシュ。マイナーな映画によく出てるちょい役の女優だ。

あんたの言う煉瓦壁のアパートみたいなホテルに泊まってたんだが、今朝訪ねたらもう居なかったんだ。」

「どうしてそこからの経由で捜さない?いつもなら、俺なんかに頼むより先に追いかけて、引っ叩いてる所だろう?」

箱に擦ったマッチの火が、パイプに落ちる。それを眺める様にジスランの鳶色の瞳が伏せられる。

「俺までスキャンダルのネタなんかになるのは御免だね。可愛い嫁共の機嫌を損ねちまう。

この商売は難しい境目で出来てるんだ。

法的に認められてない職業の中でも、常に女どもからクリーンな印象を問われる。」

「だったらそんな仕事辞めて、そもそも“クリーン”な仕事に就けばいいんだ。

面倒事ともお役御免になれるぞ。」

至極真面目なことを言ったつもりだったし、何度もしつこいことはわかっていたのに

ジスランは嫌がりもせず、かといって受け入れた様子でもなく、ただ笑った。


「お前にはわからないだろうな。

いや、わかりたくないんだ。親父のことを毛嫌いしてばっかりのお前には。」


何のつもりか全く解せない切り返しに黙っていると、ジスランは立ち上がり、扉の方へ歩いて行った。

「早めに頼むよ、探偵もどき。じゃないと女連れ込んでることをそこらの同業に吹きこんじまうぞ。…前金はそこのチェストに置いとく。」

冗談気味に言われた言葉は意外と効く。治安が悪い訳ではないが、ジスランみたいな輩には性質の良くないのが多い。

そういえば、昨晩に近場で暴行事件が起きたことを思い出して、リディに言いつけることが増えたと頭を抱えた。




――――売れない探偵業でも、何件かの仕事と、近所付き合いの夫人の差し入れで

今週も何とか乗り切れそうな気がした。ジスランの仕事だけは、受け入れるかどうか迷っていたが。

デスクに置かれた紙袋から覗く、新鮮なトマトのみずみずしい香りに、伸ばしかけていた煙草を押しやる。

普段ならどう使うか迷っている所だが、さて客人の口にあうかどうか。


その“客人”は、仕事が終わった頃に、自宅からの扉を開けてこちらを覗き込んできた。

「ねえ、仕事終わった?」

「ああ。なあ、トマトってどうやって料理するんだ。」

唐突な質問に、覗かせていた薄青色の瞳を細めて、リディは事務所へ入って来た。

「トマトは上級者向けってイメージあるな。ベルナールには出来なさそう。」

「俺もそう思っていた。」

素直に答える。リディはくすくす笑って、紙袋を持ち上げた。

「なら、特別に教えてあげる。自炊ぐらい出来ないと、体に悪いもん。」

振り向き、悪戯っぽい笑顔で言われ、俺は唸る。

料理。これほど苦手なことは中々にない。

教えられても上手く出来ないのは目に見えていたし、そうすればリディにも悪い。


断ろうと思っていると、細く白い指が俺の手を捕える。

何のつもりかと目を見遣れば、朝の無邪気さよりどこか大人びた微笑みが浮かぶ。

咄嗟に、手を引いた。特別リディだからではなく、異性にそうされたことに嫌悪が湧く。

薄く紅を刷いた唇がへの字を結び、きりっといたリディの顔がみるみるうちに青褪めた。

「ごめん!女房気取りとかじゃないんだ…もうしないから。」

「そうじゃない。貴女の所為ではない。」

「じゃあ、どうして?」

不安の拭えぬ瞳で、俺を見据えるリディは、不安そうな声で言う。

どうして、か。言ったところで仕方あるまい。俺は首を横へ振る。

「もし機会があったら話すよ。それより、腹が減っただろう。冷凍ピザがある。」

「いいよいいよ、これだけ材料があれば、あたしが作れるもん。」

気を取り直し、紙袋を持ち上げるリディを見た後、俺はふうっと息を吐いた。

人の手のぬくもりは久々だったし、気にかけてしてくれたことなのに、どうもこういうのは落ち着かない。


『お前にはわからないだろうな。

いや、わかりたくないんだ。親父のことを毛嫌いしてばっかりのお前には。』


先程のジスランの言葉は、なかなかに痛いところを衝かれたものだ。

一見、話を聞いていないようで、きちんと人の要所は掴んでいる。

俺が、アベルを通して恋愛が苦手だと感じているのが、あの男にはわかるのだろう。

「ベルナール!どうしよう。」

事務所から自宅に帰ったと思った居候がドアから顔を覗かせ、泣きそうな顔で俺を見た。

「どうしたんだ。」

「ドアの近くの鉤に引っかかって、パーカー破れちゃったの。ほら、フードのところ。」

いかにもそれが格好悪いと言いたげな目つきで、ふらふらとパーカーを振って見せるリディ。

確かに、フード部分が派手に裂けていて、生憎裁縫などの手作業が俺は苦手だった。

「俺の上着で良ければ貸そうか?」

苦肉の策を提案すると、思った通りにリディは首を横へ振った。

「無理無理!ベルナールとあたし、身長差ありすぎだもん。カッコ悪い。」

「注文の多い客人だ。」

苦笑して立ち上がり、椅子に掛けていたコートを取る。ばさりと、リディの頭にそれを被せた。

「俺も煙草がなくなってきたから、ついでに買いに行こう。

メインストリートに洋服店があったはずだ。」

「あたし、もうちょっとカッコイイ感じの服欲しいよ。」

「悪いが格好良くない店の服しか買える余地がないんだ。さ、行こう。」

気にくわなさそうに緋色の唇をへの字に結んだリディが、大きく溜息を吐いて俺のコートを体にまとった。




すっかりと陽の光をなくした大通りは、主婦が食料を買いに求めるには少し遅く

人通りは仕事を終わらせたビジネスマンが多い。

冷たい風が吹く度、ジャケットだけを羽織った体に軋むような痛みが走る。

「寒くない?」

コートの中に小さな手を突っ込みながら、小さく笑ってリディが聞いてきた。俺は肩を竦めて見せる。

「貧乏者は慣れてるさ。さて、店通りだ。好きな店を見るといい。」

荘厳な石造りの通りは、今にも人を手招きするように多くの店舗が並ぶ。

見かけと違って、意外とリーズナブルな価格が老若男女選ばず魅了されやすい場所だった。

リディも唇に人差し指を置いて、にっと嬉しそうに口端を釣り上げている。

「見て!あの古着屋さん。デニムジャケットがカッコイイ。」

「あそこにするのか?」

ポケットに入れられていた指が真っ先に指したのは、見た目こそしなやかな木材に建てられたものの

ネオンの看板がどこか垢抜けない服屋だ。俺はリディの方を見る。

「うん。ついてきてよ、あたしが単独行動取ると困るでしょ。探偵さん。」

冗談っぽく言ってから、速足で店の中に入っていく彼女に、やれやれと首を振る。

女性の服選びがかなり時間が掛かることは、小さな頃エメと買い物に出掛けた経験でわかっている。

さっさと選んでしまえばいいのに、いちいち似合うかどうか聞いてくることもだ。


服屋の中に入ると、エスニックチックなお香の匂いが店内に立ち込め

所狭しと揃えられた服を、店員達が客に得意気に語っている。

そのどれもが、安っぽい服に妙なアレンジしていて、ファッションについては門外漢の俺はついていけない。


リディは奥の棚に吊るされたデニムジャケットに、早速袖を通し、姿見で見つめている。

ジーンズに黒い七分袖とラフな格好に、選ばれたジャケットは無難な感じで似合う。

鏡とにらめっこをしていると、何か難しい顔つきでリディは言う。

「缶バッジが欲しいな。このジャケットに似合うと思わない?」

「なんでそんなことをするんだ?」

「年季入ってて、良い感じしそうじゃない。これにキャップがあれば最高!」

「男みたいな恰好が好きなんだな。」

別に、若い女友達が多い訳ではないが、偶に客として訪れる若人はスカートやら水玉のブラウスやら、そういった召し物が多かった。

このボーイッシュなリディの格好も、バイト用だとばかり思っていたがそうではないらしい。

「昔は可愛いのを着せられてたよ。お人形さんみたいにしたいって、ママがギンガムチェックのワンピースとかフリルいっぱいのカチューシャとか買ってくるの。それって、ただの遊びだと思ってた。だから、女の子って感じの服は大嫌い。」

「好き嫌いがはっきりしてるんだな。」

何となく掴めてきた彼女の性分に、それほど俺は嫌悪を抱かなかった。

悪いことじゃないし、自分で自分を確立させるのは、ある種褒められたことでもあるだろう。

「当たり前でしょ。みんなが右を行ったら右に行かなきゃいけないなんて、大間違い。

あたしは自分が正しいと思ったら、綱渡りでも渡るもの。」

「だからか?カフェのバイト先では親しい人間が少ないと聞いた。」

単なる好奇心で聞いてみると、あっさり頷かれる。

「みんな、あたしには興味がないことが好きで、あたしはみんなの興味ないことが好き。それだけだよ。」

ジャケットを脱ぎ、ヒップポケットから取りだした財布をちらつかせながら、リディは会計先へと向かっていった。


自分にも他人にも正直で、嘘が吐けない奴だ。

多分、はっきりと白黒分かれているから、周囲とぶつかってしまうのだろう。

良く言えば素直で、悪く言えば馬鹿正直ということか。

年頃も考えれば家族と一歩距離を置く時期だろうし、それこそマノンと何かあったのだろうか。


「みんなが右を行ったら右に行かなきゃいけないなんて、大間違い…か。」

俺より齢は下だが、どこか気高い彼女の思想に一考させられたのは一瞬。

後はただ曖昧に、好きなものを貫き通す訳でもなく生きている俺はリディとは正反対だと思っていた。


「ベルナール!お待たせ。」

店先に突っ立って考えていると、リディが小走りでやって来た。

早速、デニムジャケットを羽織って両ポケットに手を突っ込んでいる。

夜も更けてきている。今から帰って夕食作りもやる気が出ないし、外食をしようかとぼんやり考える。

同じ様に、鋭角な顎先に指を添えていたリディは俺の肩を軽く叩く。

「ねえ、これから暇?早く寝ないとまずい?」

「いや、まずいと言うほどではないよ。どうかしたか?」

「映画見に行きたいの!行きつけの映画館で、見たかったコメディーが上映されるんだ。」

空腹よりも趣味ときたか。“ブレンダ”といい、エメといい、本当に映画が好きな奴だと若干呆れる。

「腹は空いてないのか。」

「そこでポップコーン食べるからいいよ。」

「それは夕食とは言わない。きちんと食べた方がいいぞ。」

「いいんだよ、シロップが染み込んでて満腹どころかおつり来るし。」

これ以上苦言を言うべきか悩む。だが、言って引くタイプでもないだろう。

ただし、映画の後はきちんとした夕食を摂って貰おうと決めて、俺は顎を引いた。


リディが行きつけという映画館は、客足のあまりない古い所で

俺達以外の客は居ないぐらいだった。メインストリートにあるシアターの方が豪奢で煌びやかだし、必然的に客は流れる。

窓口で、指を組んでただ遠くを眺めている老人店員にリディが歩み寄ったのを機に

途中で買っておいた煙草に火を点ける。今日はあまり口にしなかった所為か、余計旨く感じた。

一本目を吸い終えた辺りで、つかつかとロビーを歩いてリディが戻って来た。

「チケット買ってきたよ。はい、これ。」

手渡されたチケットには、“カポラル”と題名が刷られており、さてどんな映画かと想像させる。

コメディーと聞いているから、疚しいものではないとは思うが。


単なる好奇心に動かされ、煙草のパッケージをしまいこみながら訊ねる。

「見たことも聞いたこともない。どんな映画なんだ?」

「えっと、失恋した女の人の心境をミュージカル仕立てで描写したヤツ。あたしが子供の頃にテレビでやってたんだよね。」

「本当にコメディーと捉えていいのか困る。」

「見たらすっごいウケるって。ほら、もう席に座ろう?そろそろ始まるよ。」

年季の入った柱時計は、開場の時刻を刻んでいる。

俺は小さく、そうだなと言い返し煙草に手を伸ばした。




カポラルは、主な主軸は所謂恋愛物だ。

失恋した女性が、その痛みを笑顔で乗り越え、新たな生活を送る…掻い摘んで言えばそうなる。

比較的整備はしっかりしてるらしく、劇場の古いスクリーンでも十分に満足出来る。


隣で、シロップがたっぷりと染みついたLサイズのポップコーンを頬張っていたリディは、こそっと言う。

「どう思う?あの悪女役!好きになれないなあ、笑顔が不自然で、人間味に欠ける。」

リディが言う悪女役は、主演女性の恋人を奪った端役だ。

画面越しにも分かるほど、大層な美人だったが残念ながら演技はそれほどではない。

「知っているのか、その女優。」

「ブランシュだよ。

この前、サスペンスの主演だったけど、どっちかっていうとロボコップって感じだった。」

舌を出して、思い切り悪態を吐くリディ。


…ブランシュ。ジスランが言っていた女か。

姿が確かめられたのは良いが、だからといって居場所が分かる訳でもない。





その後、シアターを出て、事務所近くにあるイタリアンに行こうと歩いていた。

リディは細身の割に、よく食べる。ポップコーンの後は、出店のアイスクリームに手をつけていた。

まったく、おつりがくる、なんて言っていたのはどこの誰なのか。


「…イタリアンなんて大人だな。イカすね。」

言っていることは褒め言葉と受け取っていいのに、どこかリディは興ざめ顔だ。

普通、ということが、とかくつまらないと感じるタイプなのかもしれない。俺は苦笑する。

「黒焦げで良ければスクランブルエッグを出そう。」

「そっちの方がいい!二人で作ろうよ。」

それを待っていたとばかりに咲く笑顔。あふれだすのは、あれこれとどうでもいいことばかりだ。

騒がしいのは、別に嫌いじゃない。ひとりであれこれ考えさせられるよりは良い。

そんな大層な話でもない計画を話し合うのは楽しいと思うし、自然と笑顔が出てきた。




ふと視線をリディから外すと、俺は立ち止まった。

スカーフを頭から顎元へと結んだ、背の高い女が、マンションの前をウロウロしていたのだ。

どういう理由か知らないが、明らかに挙動不審だ。近寄らないに限る。


回り道を考えていると、さっきからお喋りに夢中だったリディが漸く、その女の存在に気が付く。

「ナンパ待ち?」

「…どうやったらそう見える?」

俺の反応がさもおかしいと言う様に、茶化して笑う声。

寒空の下、よく響くそのかたかたした音が、女をこちらに気づかせる。


彼女と目が合うと、一瞬気が抜けた。知り合いだったとか、そんな生易しいものじゃない。


ほっそりした体だと逆に目立つだろう顔はきゅっと小さく、そこに色づいている薔薇色の唇が、優雅にも気高そうにも女を作る。

顔の流れに従って、ひんやりとした風がふわりと撫でつけられたプラチナ色の髪を揺らすと、少女の様な可憐さすら覚えさせた。

恋愛などしたこともない俺ですら見惚れると、切れ長のスペースの中におさまった黒い瞳は

夜の煌めきより深く、澄み切っていて、心の中で呟いている言葉まで見透かされそうだった。


他意なんて持ちようもないほど――――美しい女だったから、愕然として立ち止まってしまう。

彼女は俺を見て、一、二歩近づくと、少し間を置いて声を掛けてきた。

さも、話すことに抵抗があると言う様にキュッと眉毛を引き締めながら。


「―――こんばんは。ねえ、貴方…ここのマンションのベルナールって探偵を知ってる?捜してるの。」

「…スクリーンで見るのと、随分違う。ジスランが放っておかないのは、他に理由でもあるのかもな。」

ああとかうんの前に、まぬけに感想を述べていると女性―――ブランシュは一瞬固まる。

そうして、「そう」と褪せた声で小さく言った。


「もしかして…ブランシュさん、なの?」

後ろから、恐る恐るリディが声を掛けるとブランシェは曖昧に微笑む。

「知っててくれたのね。ありがとう。彼女は、あなたの恋人?」

「ううん、ちょっとワケあり。ベルナール、仕事かな?」

俺は頷き、リディに目払いをする。リディは、少し離れて電柱に凭れかかった。


ブランシュは、その切れ長の瞳で俺をじっと見つめる。どこか、幸薄そうな雰囲気の拭えない顔つきで。

「男娼の、ジスランって男が来なかった?あなたと仲が良いと聞いたの。」

「それなら、話は早い。ジスランは貴女の尻を蹴り飛ばして金を毟ろうとしている。」

あまりにも思い詰めた表情。ブランシュは、笑いもせず頷いて見せた。

「貴女は女優だと聞いている。たかが一男娼の夜伽代なら、簡単に払えるんじゃないのか?」

「…そうね。でも、ごめんなさい。ジスランには、私を捜さないでと言って。」

さっと踵を返し、速足で歩きだそうとするブランシュの腕を、俺は慌てて掴んだ。

「捜さないでとは?場合によっては、貴女の味方になった方が良いかもしれない。」


ブランシュの瞳に浮かんだ、黒い翳りはそっと感じ取ることが出来た。

ただ、ジスランがうざったいだけのようには、俺には見えない。

「ジスランと何があった?どうして逃げる?」

一番の核心に迫れば、彼女は下を向き、やがて目線をあげてみせる。

「…ジスランは、しつこいの。夜のお相手をしたからって、自分の女みたいに…。」

「そう思う女はもっと、力強く言うものだ。俺には貴女が困惑しているようには見えない。」

唐突に、ブランシュは笑う。小さく可愛らしい微笑みで。

「貴方には、言伝を預けただけ。それ以上でも、それ以下でもないの。…わかってちょうだい。」

そっと、やさしく手を放され、ヒールの音も高くブランシュは闇夜の中へと消えていく。


アベル、マノン、ジスラン。あいつ等は、俺にそこまでして仕事をさせたいのか。

黙って彼女を見送っていると、薄青色の瞳がこちらを覗き込む。

「ベルナール?」

「ああ、悪い。帰るか。」

「お仕事の話?」

「まあな。厄介な仕事をまわされた。」

「ベルナールはどっちを取るの?その、ブランシュさんと、ジス、ランだっけ?」

「…考えてる。」

ステップを上がり、リディの方を見遣ると、彼女は若干慌ててついてきた。


俺の部屋に到達するまでは、そう大したことなど起きなかった。

こんなしがない探偵をホールドアップするつもりもないだろうし、急に空から金の袋が落ちてくるわけでもないんだ。

ただ、自室の前に待つ一人の男に、俺は片眉を顰めた。

今朝と同じコートを着込んだ男―――アベルは、煙草に火を点けながらニヤリと嗤う。

「やあ、ベルナール。上手くいっているみたいだな?」

清々しいほど他人行儀に言われて、俺はさすがに笑ってしまう。

「だったらマノンが来てくれると思ったんだが、あんたか。何をしようとしてるか知らないが、興味もない。利益もな。」

俺がそう言うと同時、嫌悪感を感じ取ったのか、リディは困惑した顔色で俺を見る。


「では、マノンに伝えておくよ。リディ、彼を見捨てないでやってくれ。“恋愛に臆病”なんだ。」

「なんて言った?」

誰の所為で、恋愛に対して一歩距離を引くようになったと思っている。

誰の所為で、一般の家庭から外れたと思っている。

俺は荒い口調で訊ねた。


「大人なんだ。私の所為と決めつけないで、選ぶことぐらい出来るだろう?なあ、坊や。」

「事の発端はお前だろうが!!エメも俺も、お前に選ばれなかったからこうなったんだ!!!」

久々に怒鳴った言葉は、我儘に満ちているのは理解できている。

だが、俺はこいつの我儘に幾ら付き合って、何も言わずに居た?


「ベルナール、やめなよ!他人の言うことでしょ!」

「こいつは他人じゃない!だから性質が悪いんだ!」

「じゃあ、この人は誰?」

後ろからしがみついて、殴りかかるのを止めてきたリディは、強い調子で訊ねてくる。


父親だ、と言いそうになるのを必死に呑み込む。リディの腕の中で体が軋む音がした。

ここでリディを巻き込む訳にはいかない。

「…アベル。おやすみ、また会えるよう願うよ。」

俺は極力平静を保ち、アベルに口先だけの文句を言う。

こんな見え透いた社交辞令でも、アベルはにやっと笑うだけで、それ以上は何も返さなかった。

あまり長く続かず終わると思いますので、あと二話ぐらいで終わりですかな。

※一部実際の映画の話も出ましたが、「カポラル」、「ゴロワーズ」は完全にフィクションです。

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