第4話
事態の推移を眺めるアオイの前で奇妙な力の奔流がわき上がったかと思えば、中年の男はあっという間にラスター家の三男をのして、さらに侍女にまで危害を加えようとしていた。
貴族の青年はともかく侍女のほうは一目見ればずぶの素人だと分かった。あんな一撃をもらえば間違いなく死に至る。そう思って止めに入った。仕事中でもあり、本当はこんな騒ぎに関わっている暇はないのだが。
アオイの目の前に立つ男の身体にはどす黒い瘴気がまとわりついてた。それは視覚化されたシンそのもの。この禍々しい力の気配は……。
「邪魔スルナラ。オマエモ殺ス」
すっかり男の意識は混濁しているようで、瞳は狂気に染まっていた。
「やめておきな。俺は普通の探索者とは違うぜ」
ただ淡々と、アオイは彼に告げた。
「一般的な探索者を平均して0.2とすると、俺がだいたい8。その差は40倍だ。これがなんの数字だか分かるか」
「戦闘力!?」
侍女が期待を込めて叫んだ。
「ふ。探索者が年に依頼をばっくれる回数だ」
「駄目じゃん! 最低じゃん!」
「があああああああああああああああああああああああああああ!」
男が動いた。咆哮し突進する。その力全てを込めて拳を振るった。彼は知能が低下しているのか愚直に障壁結界の上から何度も何度も殴打する。しかし怒号をあげるその威圧は凄まじい。
「くそ。場を和ませようと思ったんだが。滑ったか」
何度目かの突きの時、ビシィと結界に大きな亀裂が入った。
「おっとすげえ。対物障壁がただのパンチで破られそうだぞ」
「何のん気に言ってんだよ派遣! さっさと殺せよっ!」
気品をかなぐり捨てて侍女が叫ぶ。
「うげえ。やる気がなくなった。……帰るか」
「ごめんなさい! やる気出して! あなたは私の王子様だわ! 素敵!」
「ふ。滑稽だな」
「はあああああああああああああああああああ!?」
元より口先だけで帰るつもりはなかった。彼女らを殺させるわけにはいかない。それは貴族たちのためではない、目の前の男のためだ。これ以上の罪を重ねれば死刑は免れないだろう。何より怪しげな力は男を完全に壊そうとしていた。今すぐに止める必要があった。
今度はアオイが動く。
『炎の弾丸』
差し出した掌の中から生まれた炎がほとばしり、男の顔に直撃して炸裂した。
ほとんど誰でも使える初級魔法であり意識を刈り取る程度に火力弱めだ。
だがしかし、殺意で濁った瞳の力は弱まらず。まったくダメージが入ったようには見えなかった。魔術は男がまとう黒い瘴気によって遮られていた。
「無詠唱すご―いとか思ったけど全然きいてないじゃない! どうするのよ、魔術士のくせにこんなに近づかれて!」
この程度の技術で驚かれるのも最近はすっかり慣れたものだ。
はっきり言って初級魔法の詠唱破棄など一昔前なら珍しくもなかった。
「慌てるな」
アオイは冷静に告げる。
「何か秘策があるのね!」
「いや、今だいぶ困ってる」
「困ってるってぇ!?」
連打、連打、拳の乱舞が襲う。打突の度にみしみしと結界が悲鳴を上げた。
ついでに侍女も同様に。
「やだああああああああああああっ! 死にたくなああああああああいぃいっ! 死にたくないよおおおおおおおおおおおおっ! 助けてよおおおおおおおおっ! 見逃してよおおおおおおおおおおおおっ! 心入れ替えるからっ! もう、もう一生悪いことしないから……」
「うるさいから黙っててくれ」
半狂乱になって泣き叫ぶ耳触りな声が集中力を著しく削いだ。
魔術の行使には集中することが必要不可欠なのだが、こうも喧しくては。
中年の男が面倒な相手に対する怒りに満ちた雄叫びをあげると、その感情に呼応するかのようにどす黒い瘴気が男の拳に巻きついた。邪悪でとても大きな力だ。
「おっとこいつはまずい」
アオイ一人なら躱せばいいが後ろにいる動けない足手まといが問題だ。
「あーあ、私死んじゃうんだ。はは。まだ15なのに。これからやりたいこといっぱいあったのに。はぁ。死ぬ前に燃えるような恋をしてみたかったなぁ。お父さまお母さま悲しむだろうなぁ」
「いいからちょっと黙ってろ!」
アオイの怒声が早いか、男の拳打が早いか、さらなる追撃によってとうとう障壁結界は砕け散った。バキン、と嫌な音が響いた。
「あ、死んだ」
侍女は終わりの時を予感して虚ろな目で呟いた。
一拍の後、彼女は恐るべき暴力が降りそそいでいないことに気が付いた。
アオイは両腕を交差させて男の拳を受け止めていた。それは魔術による防御ではなく戦士などが好んで使うシンの操作技術によるもの。
つまりは戦技だ。
「魔術師が……戦技を?」
もう一度襲いかかる正面からの一撃を、アオイは横から払うように力を加えて容易く受け流す。男の体勢が崩れて顔面ががら空きになった。
「目え覚ませ、この」
アオイは強く拳を握る。
「馬鹿やろう!」
躱すこともできずに中年の男の顔面に拳が突き刺さった。
「がっ」
男はテーブルや椅子ををなぎ倒して壁にぶつかって止まる。
その身体から黒い瘴気が霧散していった。
戦士の戦いの差を分かつのはシンの強力さ。
そして、それをいかに上手く利用できるかにかかっている。
いかに強大な力でもろくな操作できなければ対処は容易かった。
「う。うう」
中年の男はうめき声をあげ、何度か頭を振る。
「俺は……何をやってたんだ」
起き上がった男はすっかり正気に戻っていた。
「やった。助かった。神さまありがとうございます」
侍女はキラキラした目でアオイを見上げる。
「派遣の神さま」
「はたしてこれほど呼ばれて嬉しくない称号があるだろうか」
剣術の神さまとか魔術の神さまなら嬉しいが。
俺はバイトのプロッフェショナルなんだぜ、なんて言われた気分。
「このご恩は一生忘れません」
もしかして彼女は馬鹿にしているのだろうかと思わないでもなかった。
ガラ──と椅子の残骸が音を立てた。貴族の青年も目を覚ましたようだった。
中年の男の姿を見て身構えるが、彼が動けないようだと見るや、ずかずかと歩み寄る。
「取り押さえたか。よくやった」
貴族の青年の顔は酷い有様だった。唇が切れて出血し、さらに大きな青あざができていて、まるで顔面にパンチを食らったような顔になっていた。
「下民風情が調子にのりやがって。殺してやる」
「待て待て。やめときな」
男を庇うように立つと、貴族の青年は剣先をアオイに向けた。
「邪魔をする気か。そいつはこの俺に無礼を働いたんだぞ」
「言っちゃ悪いが今回はあんたが仕掛けたことだろ」
「何言ってんだ。そいつが俺にぶつかってきて服を汚したんだろ」
アオイは頭痛を感じてため息を吐く。
「いや、だってその服って偽物だろ。ロゴがちょっと違うし」
服のロゴマークに指を刺す。あまりに礼を逸したアオイの振る舞いで酒場の中で爆笑が沸き上る。貴族の男は怒りのあまり赤い顔をどす黒く染め上げた。
「黙れ! 平民どもが!」
ぴたりと笑いは一瞬にして鎮静化した。
「許さねえ。二人ともぶっ殺してやる」
「若さま! お待ちください。これ以上は」
「退いてろ!」
侍女を乱暴に突き飛ばす。
殺気──アオイは咄嗟に身を屈める。その頭上を刀が通り過ぎた。すぐ隣のカウンターにあった酒瓶は綺麗に両断されて中身をぶちまけた。真紅の葡萄酒が床を濡らす。
「俺も大人げなかったから一度だけは謝る。申し訳なかった」
「死ね!」
言葉の途中にはもう貴族の男は剣を振りかぶっていた。一切の容赦なく叩きつけられた凶刃はアオイの身体を切り裂いた──とその場にいた者たちは思った。だがそうではない、既にアオイは青年の背後に回っている。
アオイが青年の首筋に軽く打撃を加えると、またもや彼は意識を失っていた。
「一度だけって言ったろ」
意識を失った貴族の男に対して言葉を投げつける。
「わ、若さまあっ!」
倒れ伏す貴族の男のもとに侍女がすっ飛んでいった。
「……なんで、俺を助けた」
知り合いでもない人間を貴族を敵に回すという危険を冒してまで助けた。それが理解できなかったのだろう、男は茫然とした様子だった。
「貴族の坊ちゃんがむかついただけだ」
「……感謝する」
「さっさと消えな。もうくだらない勧誘には引っかかるなよ」
男は礼を言って早々に立ち去っていった。
彼を逃がしてしまえばお面の魔術師の力の正体を正確に知ることは難しくなる。
しかしこの状況ではそうせざるを得なかった。ここまで貴族と関係をこじらせてはこの国にいづらくなる。アオイにはいちおう奥の手があったが、普通の平民である彼にとってはそれは致命的だった。
「あの力……まさかな」
酒場の中に視線を送る。既に魔術師は姿を消していた。
「凄かったよな、あれ」
「絶対切られたと思ったのに」
酒場の壁際のテーブルにてそんな会話が行われていた。
アオイらが去ったあとも酒場の中は先の喧嘩の話で持ちきりだった。
「俺前からあの三男坊嫌いだったんだよ。自慢話しかしないし」
元々、貴族の三男坊である青年の評判はすこぶる良くなかった。金をひけらかし、他人を罵倒することも多かった。そのため平民の男たちは軒並みアオイに好意的だった。
「あいつ魔術士じゃなかったのか。戦技使ってたよな」
「時々いるんだよ。両方完璧に使えるやつが。探索者の上位陣とかに」
「へぇ。やっぱりか。あの坊ちゃんも剣の腕はいいはずだからな」
「確かによく生きてたもんだ」
だけど──とにわかに興奮の覚めた男は冷静に言う。
「どっちにせよ。貴族に目をつけられたら死んだも同然なんだけどな」
武力で制圧したとしても、貴族には権力がある。従者に介抱されて目を覚ました貴族の青年の怒りようは尋常ではなかった。きっと壮絶な嫌がらせが待っていることだろう。
「名も知らぬ青年の幸運を祈って」
男たちはグラスに残った酒をあおった。