第3話
ティルタニア王国の首都であるローザンドは幸いにも先の戦乱では直接的な大規模戦が行われることはなく、戦火から逃れた豊かな都市だった。町中を分断するように綺麗な川が流れる、水の都市と称される美しい光景があった。
いくつものアーチ橋が町中には散見され、川には漁業者が船を繰り出している。舗装された石畳の道はヒビや段差を綺麗に補修したあとがあり、平坦に整えられていた。他の都市では多いごみが散乱している様子もなく小奇麗な様子は治安の良さを感じさせた。
そんな街の一角、カルディア社正門前にてアオイは彫像と化していた。道を聞きに来たおばちゃん、鬱陶しそうに足を速める若い女、一瞥しただけで興味を失った男などが記憶に残る。
さて、そろそろ3時間ぐらい経ったかなと時計塔を見ると、時の針は先ほどから30分経過したことを指し示していた。これが真実だというのだろうか、もしそれが事実ならばあまりにも残酷な現実だ。途方もない虚脱感に、気力という気力が挫け、体中の力が抜けてしまった。
アオイの心の中で潜む獣が暴れ出す。体内でアオイとは別個の意思があるかのごとく、ここから離れろと、家に帰ってしまえとざわめき出す。その獣の名はナマケモノ。抗うことは難しく、陥落すれば甘美にして破滅的なひと時に溺れることができる。
「くっ。静まれ……」
アオイは怠けだそうとする内なる獣を必死になって精神の力で抑えつける。そんな熾烈な戦いを繰り広げられていることなど知らない者がアオイに声をかけた。
「そこの派遣君」
目を向けると、どこかの現場の監督であるエーリスが立っていた。
「1階の経理のニナにこれ渡してきて」
「はいはい」
彼は一通の封筒をアオイに渡す。──納品書や請求書だろうか。折り畳み式の椅子が詰まれた荷車を業者が搬入していたのだが、業者は消えて椅子だけがずらりと地面に置いてあった。アオイは言われた通りに本社に向かって用事をすませると足早にとんぼ返りする。看板持ちの任務を再開しようとすると、またしてもエーリスはアオイを呼び止めた。
「派遣君。ちょっと椅子運ぶの手伝って」
「はいはい」
再度、看板を置くと彼についていき、一緒に椅子の運搬に加わった。それが終了するとエーリスはさらに追加でアオイに用事を言いつけた。
「派遣君。買い物に行ってきて。リストはこれね」
さすがにアオイは口を挟んだ。
「私めには看板を持つという偉大な使命があるのですが?」
「それは地面に刺しておけばいいよ。だって看板なんだから。誰だよ、そんな指示したの」
アオイは唸る。実に理にかなった言葉だったから対応に困ったのだ。
「いいから急いで買ってきて」
有無を言わせずにリストとお金の入った袋をアオイの手に押しつけた。
買い物が間に合わなくなって揉めるのも面倒くさい。さっさと用事をすませようと足を速める。各店で必要物資を購入し、最後に大きな酒場にやってきた。ここで一杯やるかという理由でもなく、飲み物を注文するためだ。
店主に買い物リストに載っていた通りの注文を告げると彼は奥に引っ込み、アオイはカウンターの前で手持無沙汰に時間を潰す。
そんなうちに店の隅のほうで体格の良い一人の男が話しているのが耳に入った。
まだ30の前半という年代で、体格に恵まれており肩回りの筋肉が服を押し上げている。精悍な肉体とは別に服は薄汚れて髪はぼさぼさ、目が赤く充血していてくたびれた印象を受けた。
彼はお面を付けた小柄な人間とこそこそ会話していた。お面のほうは性別は不明だが魔術士然とした丈の長いフード付きのローブを身にまとっている。
「嘘じゃないよ。貴方の望みを叶えてあげる、何でもね」
お面の人影の発する言葉を聞いて、怪しげな団体の勧誘かと興味を失いかける。
「魔王軍の残党じゃないだろうな? ニュースになってた」
「魔王の残党が人の願いを叶えたりしないよー」
中年の男は「それもそうだな」と頷き「対価はないのか?」とつなげる。
「対価は求めない。貴方のすることは心からの願いをただ強く望むだけ。強いて言えば私にとっての対価はそのとても強い思い、それ自体」
「……貴族どもがくたばるようにって願うかな」
本気ではなく他愛無い冗談に過ぎないのだろう。男は笑いながら話していた。
「へえ。貴族が嫌いなんだ?」
「当たり前だ。いつまでも貴族をのさばらせておけない」
その発言をした時の男の瞳には危うい光が宿っていた。
この国にはいくつかの反体制勢力がある。有力なのが魔王の残党。他にも貴族廃止を掲げた過激団体もいる。アオイも貴族を嫌う気持ちは分からないでもなかった。それは決して何の理由もなしにというわけではないからだ。
探索者資格試験とは国家役人試験レベルの一般教養に探索者としての専門知識を追加した超難関試験だ。その合格者の殆どは貴族出身者である。
幼少から勉学に勤しむことができるのは裕福な貴族ぐらいなものだ。そしてなにより大きいのは有力貴族は科目の大半を免除される貴族特権があることだ。大貴族なら名前を書けばフリーパスで通されてしまうなんて話もあった。由緒正しき高貴な者であれば国の為に働く心構えが確かであるからその人柄は信頼に値する、という理屈からだ。そのため旧貴族の力を増すための政策だなんて巷ではもっぱらの噂になっていた。
戦乱の時代には探索者が個人の武勇によって身を立て、爵位を金で買って新興貴族として成り上がり、幅を利かせるようになっていた。しかし魔王も討伐され平和が訪れたことにより、それに歯止めをかけようとしてのことだ。現に平民が正規になれた例は両手の指を使えば足りるほどの数しかないのだった。
だから貴族に対する怒りはもしかしたら正当なものであるのかもしれない。だが他人を巻き込んで世の中を混乱させていいわけではなかった。
お面の魔術師と男が席を立った。
アオイは咄嗟に後をつけるか逡巡して彼らに意識を向けた。
変なやつに絡まれたな……中年の男はそう思っていた。
しかし、お面を被った魔術師の言葉の響きには不思議な説得力があった。
彼にも人並みに願いは多い。馬鹿げた話ではあったが、どんな小さな可能性であろうと、もし万が一があるならと淡い期待を抱いてしまった。
物思いに沈みながらカウンター席の傍を横切った時、とある男と肩がぶつかった。どうにもわざと当たりにきた雰囲気だった。「すまない」と短く謝罪を告げるが、ぶつかった男はそれでは満足しなかった。真っ昼間から酒にでも酔っているのだろう。
「待てよ。お前カルディア社の派遣だな」
はっと息を飲む。また厄介な相手に絡まれた。相手は有力貴族ラスター家の人間だった。彼は中年の男の腰につけた社員証を見てそう言った。
正規と派遣だとIDの色が違うため一目で分かってしまうのだ。
「確かにそうだが……」
「てめーがぶつかったせいで俺の服に汚れがついたじゃねえか。俺は貴族だぞ。礼儀としてなんかあるんじゃねえか」
貴族の男は自分の服の一点を指差すが、たいした汚れは認められなかった。
中年の男がほうけていると貴族の青年は近くにあった椅子を乱暴に蹴りつけた。
どがん! と嫌な音を立てて木製の椅子は無残に砕けてしまった。荒事の予感に周囲から喧騒が沸き上る。
「おい、あれラスター家の三男じゃないか」
「剣の達人って聞いたぜ。あいつやばいだろ」
平民が多い場だ、貴族に目をつけられるのを嫌い誰しも遠くから眺めていた。
中年の男は足の折れた椅子を眺める。
木製の足が蹴られた以上の大きな負荷がかかったようにひしゃげていた。
その力はこの世の生き物が程度の差こそはあれども、みな扱うことができるシンと言われる力によるものだった。
この世の物には全て神が宿る。小さい石ころにも草木にも、この大地にだって宿る神がいる。それはなにも人間のように思考して会話ができるというものではない。
この世の根元にある世界を形作る大きな力、構成する力、その霊的なエネルギーはどんな小さなものにも流れている。それはものの心であり精神、魂とも言える。あらゆるものが持つ存在そのものの力だ。
人々はそれを神と呼んでいた。
だから言ってしまえば人間にも神が宿っている。
物質世界というのは、霊的世界におけるシンの相互作用で成り立つもの。
自らのシンを使用して世界のシンに影響を与え、現実世界に表層させる。それこそが探索者が利用する魔術や戦技という技術であった。
相手は探索者であり貴族、相手にするのは無謀だった。
「申し訳なかった。弁償するからあとで連絡してくれ」
「はっ。これは有名なブランド品だ。派遣なんぞには一生かかっても払えねえ。今すぐはいつくばって「どうか許してくださいって」言えば考えてやるぜ」
「いや、それは……」
「なんだ。文句があるなら決闘でもするか」
貴族の青年は剣に手をかけた。
貴族が決闘で平民を殺しても罪には問われない。
逆に平民が貴族を傷つければ何だかんだと理由をつけて罰せられることが多かった。乗った時点で負ける勝負を始めるわけにはいかなかった。
「おらどうしたよ。文句があったんだろ。男ならはっきり言えよ。情けねえな」
どんな屈辱も死ぬよりはましだ。一切の反論はできなかった。
「若さま、もうおやめください」
そこで青年が連れていた侍女が口を挟んだ。
大貴族の侍女ともあれば、彼女もまた貴族の出身であった。
一縷の期待を込めて彼女に視線を送るが……。
「可哀想ですよ。弱い者いじめは。こんなのが若さまと同じ男なわけがないです。許してあげましょう」
「はははっ。そうだな。じゃあこれで勘弁してやるよ」
貴族の青年はグラスに入ったエールを中年の男の顔に浴びせる。
冷たい液体が毛先から滴った。
「今度から気を付けろ、野良犬」
貴族の青年は高笑いをあげて席に戻っていく。
その背を眺めながら男はポツリと呟いた。
「あいつらを殺せ。それが俺の願いだ」
お面の魔術師はくすくす笑う。
「何がおかしいんだ」
「それは違う、貴方の本当の願いじゃない」
お面の魔術師は囁いた。
「本当に心からの願いだって言ったよね。もし心から願っているなら私になんか頼まないで既に殺しに行ってるはずだよ。それは上辺の望みだ」
男には魔術師の言わんとしていることが理解できなかった。
「俺にはできない。したくてもできないんだ」
「違うよ。貴方にはそれができる力がある。できないのは自分で自分の心を縛っているから。そうあるように自らのシンを縛っているから。シンには無限の可能性があるのに、それを閉ざしてしまっているの。可哀想に、本当に欲しいものも分からないなんて」
憐みを宿した口調、苛立つよりも奇妙な悪寒に襲われた。
「でもいいよ。貴方の望みを叶えてあげる。その鎖から解放してあげるね」
魔術士の手にはどす黒い靄が纏わりついていた。
手が伸びる。咄嗟に身構えようとするも身体が動かなかった。
そして顔に指先が触れた。
「うあああああああああああああああああああああああああ!」
こぼれだす絶叫、そして男の意識は激しく明滅した。
「なんだ」
中年の男が大きな唸り声をあげたことで貴族の青年も異変に気が付いた。
彼の眼は捉える、自らのもとへと歩んでくる男の存在を。
髪の毛を振り乱して殺意に満ちていた。
「止まれ。それ以上来れば反撃する」
青年はただならぬ気配を感じて鋭く告げる。
しかし、中年の男は無言でさらに歩を進めた。
「血迷ったか。馬鹿が」
貴族の青年はすらりと剣を鞘から引き抜き、流れるように打ち込んだ。
中年の男の死を予感して周囲から悲鳴があがる。
だが、その刃は薄皮一枚裂いただけで、男の筋肉によって止められていた。
「なに!」
青年は信じられないとばかりに再度、刃を振り下ろした。
ところが中年の男は今度はそれを手で掴み取る。
「ば、馬鹿な。そんな」
次の瞬間には横合いから顔面に拳がぶつかって、青年は身体ごと容易く吹き飛んでいた。
「ぐげ」
青年から潰れた声が発せられる。
激しく壁にぶつかった貴族の青年はぴくりともしなくなった。
「わ、若さま?」
侍女は突然の暴挙を働いた男から距離を取るようにじりじりと後退する。
「え、うそうそ。ちょっと待って」
狙いが自分に向いたことを察知した侍女は上ずった声を出した。
「だ、誰か! 誰か助けなさい! 私を誰だと思ってるの!」
しんと静寂が降りた。
誰も助ける様子もなく、少女は顔を青くする。
「待って。お、女の子にそんな酷いことしませんよね?」
中年の男は無言で拳を振りかぶった。
侍女はさらに後退しようとして裾を踏んで後ろに転ぶ。
ずしん、と建物全体が揺れる。侍女の頭のすぐ上の壁には大穴が穿たれていた。
「ひっ。やめてやめて。殺さないで」
立つこともできずに両腕で顔を庇って怯えすくむ。
涙を流しながらみっともなく縋るその姿を見て。
「くっ。ふ、ふっふっふ」
男は笑みをこぼしていた。
──そうだ、こんなものだったんだ。今まで怯えて敬っていた者達は。脆くて弱い。やろうと思えばいつでも殺せる、ただの肉の塊だった。
男の精神は既に尋常のものではなかった。どんどんとその精神のタガ、人を人たらしめる鎖が断ち切られていった。もはや見えているのは叩き潰すべき相手だけだった。
男は侍女に向けて無造作に拳を振り下ろす。
ぐしゃりと肉を潰す感覚を味わいたくて。
しかし──拳は中空で止っていた。
魔術による対物の障壁結界に遮られていて。
いつの間にか目の前には黒髪黒目の青年が立っていた。
「もうやめとけ。戻れなくなるぞ」
「誰ダ、オマエ」
男は邪魔をされたことに苛立って殺意を叩きつける、威圧が旋風を巻き起こした。巻き起こった風に髪を揺らしながらも黒髪の青年は動じずに、
「探索者」
それだけ言った。