おばあちゃんのブラウニー
玄関のドアを開けると、冷たい風と共に甘酸っぱい香りが流れ込んできた。
丸っこい頬を赤く染めて、美冬が息を切らしている。
可愛い可愛い孫娘の一人である彼女は、私の顔を上目遣いに見やって、心細そうに眉尻を下げた。
「おばあちゃん、美味しいチョコの作り方教えて!」
私は目をぱちくりさせながら、美冬の頭の上に積もった雪を払う。
「私でよければいいけど、どうしたの?」
訊ねてみると、美冬はきょろきょろと辺りを見回してそっと下を向いた。その小さな身体を室内に招き入れて、タオルを取りに行こうとする私の背中にか細い声が届いた。
「バレンタインだから」
その言葉を耳から脳に運び込んで、私は乾いたタオルを彼女の頭に被せる。そういえば今日は二月十二日。明後日にはバレンタインデーを控えていて、おまけに祝日だ。とはいえ、まだ確か小学生になったばかりの美冬の口からそんな台詞が飛んでくるとは思っても寄らず、私は動揺したまませわしなく靴を脱がせて温かいリビングのソファに座らせた。
ホットココアを飲むと、美冬はやっと落ち着いた様だった。
買って置いてよかった、ミルクココア。私は中身の減っていないココアの袋を一瞥して一つ頷いた。
いわゆる『おばあちゃん』になってからそれはもう長い年月が経つ。しかし、なんの予告もなく孫が家にやって来るのはずいぶん久しぶりだった。
「だれかにチョコレート、あげるの?」
「藤崎くん。でもへたっぴなのあげたって、メイワクだから美味しいのをあげたいの」
彼女の薄い唇から放たれた名字に、何の覚えもないけれど私はぎゅっと胸が締め付けられる心持ちだった。
一体誰が言ったのだろう、迷惑だなんて。
「わかったわ、おばあちゃんがとっておきのチョコレート、一緒に作ってあげる」
ニッと笑って私はカップを握る手の上に手の平を重ねた。この小さくて暖かい手だから作れるものが、あるのよ。伊達に何十年も生きてない。
私が笑うと、美冬も楽しそうに笑った。
エプロンを着けて、材料をキッチンに用意して手を洗う。美冬も肩までの髪を一つに縛って、準備万端だ。
「では、これからブラウニーを作ります」
「ぶらうにー?」
「チョコレートを使ったケーキみたいなものよ。オーブンで焼いて作るのだけど、焼いてから時間が経った方が美味しいの。だから、今日作ったらちょうど明後日が食べ頃になるの」
「ふうん」
美冬はくっきりとした大きな目をぱちぱちさせて、テーブルに広がった材料を眺めた。彼女が赤ん坊だった頃は父親似だと思っていたけれど、目元の感じが少しおじいちゃん――つまり私の夫である――にも似てきた気がする。一重で全体的に小作りな私とは反対に、夫はやけに濃い顔立ちをしているのだ。
突然の来訪というのもあって、我が家にある材料で作るれるものには限りがある。少し前にチョコレートケーキを作った残りのスイートチョコと、小麦粉、バター、卵に、夫のおつまみであるミックスナッツ。
日持ちがして、なおかつ簡単で、それに美冬にはまだ振る舞ったことがなかったけれど、私の十八番なのだ。
「どーするの? 何するの?」
ぴょこぴょこ跳ねて美冬が嬉しそうに私の顔を覗き込む。
「そうねえ、フユちゃんにはこのナッツを砕いてほしいな。細かくしすぎてもだめよ、ちょーうどよく、小さくするの」
「ちょうどよくするの得意!」
ミックスナッツを袋に入れて、麺棒と一緒に渡す。美冬は張り切ってナッツに麺棒を叩き付け始める。藤崎くんはきっと同級生だろうから、ナッツは砕いた方が食べやすいだろう。
「おばあちゃんはそこでチョコレート刻んでるね」
私はカウンターキッチンに移動して、チョコレートを包丁で細かくしてゆく。その横で湯煎用のお湯も用意する。
暫くするとガンガンとナッツを砕く音が止んで、できたよーと高い声が飛んできた。
「じゃあ卵を割って、そこのボウルに入れてちょうだい。割れたら次はホイッパーで混ぜてね」
「はあい」
私には分からない歌を口ずさみながら、美冬は卵を元気よくかき混ぜてゆく。
祝日の昼下がりに、孫と一緒にお菓子作り。私は幸せなおばあちゃんだなあ。思わず笑みがこぼれて包丁がまな板を叩く音もまるで伴奏のように聞こえてくる。
「ねえフユちゃん」
「なあにおばあちゃん」
「藤崎くんってどんな子なの?」
私が訊ねると美冬は手を止めて、うーんと首を捻った。
「ふゆが知らないこといっぱい知ってて、優しい!」
「そうなの、賢い子なのねえ」
「それで大人みたいに背が高くて子どもなのに先生でー」
「へ?」
ナゾナゾみたいになってきた。
次は私の方が頭を悩まされていると、チャイムの音が聞こえてきた。
「あら、今日はお客様が多いわねえ」
包丁を置いてインターフォンを見ると、これまた少し久しぶりのお客様がそわそわとした様子で立っている。さっきの美冬そっくり。私は少し笑ってしまって、そのまま玄関に向かった。
「いらっしゃい、りーちゃん」
「おばあちゃん、急に来てごめんなさい」
「嬉しいわ、ほらあがって」
玄関先で居心地が悪そうにしている彼女の頬を両手で包むと、氷みたいに冷たかった。チャイムを鳴らすの、悩んだのかもしれない。そこは美冬とは違うなあ。
新しいお客様はブーツを脱ぎながら私の格好を見やった。
「おばあちゃん、料理中だった?」
「お菓子作りよ」
「ほんとに! ちょうどよかったかも!」
私の返答に彼女は目をキラキラさせた。
「ちょうど?」
話ながらリビングのドアを開けると、美冬がボウルから顔を上げてこちらを見た。口をパカッと開けて、大きな声を出す。
「りこ!」
新しいお客様こと美冬の姉である璃子は、眉を寄せて息を吐きだした。
カシャカシャカシャカシャ、シャッシャッシャッシャッ。
「なんでフユもいるの?」
「別にぃ。りここそなんできたの?」
「私は友チョコが作りたかっただけ」
「うっそだー彼氏にでしょ!」
「嘘つく必要ないし」
姉妹がならんで卵をかき混ぜているのを横目に、私は張り切ってチョコレートを刻む。量が増えてしまったから、中々骨の折れる作業だ。
彼女達は示し合わせた訳でもなんでもないのに、何故だか揃って私にブラウニーの作り方を習っている。
「りーちゃん、お友達って学校の子?」
私が聞くと、璃子は笑顔を作って頷いた。良くできた子に育ったなあ。
高校三年生の璃子と小学一年生の美冬は、十二も歳が離れた姉妹だ。一回りも下の妹が出来ることになった頃、彼女は私たち祖父母夫婦の住むこの家で暫く過ごしていた。その時から泣き言ひとつ言わず、いつもお手伝いをしてくれた。美冬が産まれてからもよくお世話をしてあげていて、完璧なお姉ちゃんなの、と母親が少し寂しそうにしていたのを覚えている。
「最後のバレンタインだから、手作りを交換するって約束しちゃったんだ」
「そっか、りーちゃんも春から東京だったっけ。寂しくなるねえ」
いつの間にか、璃子の手が止っている。
「……推薦で東京の大学に決めちゃったから、地元の大学の後期受けるみんなとはちょっと気まずくて。せめて美味しいチョコ、作りたいんだけど一人では自信ないし……。考えてたらおばあちゃんのブラウニー思い出して」
「じゃあ喜んで貰えるようにおばあちゃんも頑張るね」
チョコレートを刻み終わった右腕をぐるぐる回してウインクしてみせると、璃子はほっとした様子でまた卵を混ぜ始めた。璃子はもうそろそろかな。美冬はもう少しかかりそうだ。手伝おうとすると、璃子が「フユ、交換しよ」と言って代わりに混ぜてくれたのでそっとしておく。
「じゃあ次はチョコを湯煎して……」
腰に手を当てて次の工程と何を手伝って貰うかを考えていると、またチャイムの音がなった。と思うとすぐに玄関のドアが開く音がして、誰かが入ってくる。
おじいさんが帰ってきたのかしら。今日は夕方になるって言っていたけれど。
玄関に向かおうとすると、意外な声が聞こえてきた。
「ただいまー、おばあちゃんいるの? 鍵ちゃんとしなきゃだめだよー」
璃子と美冬が顔を見合わせる。
リビングに入ってきたのは、二人の姉である真由だった。
「真由ちゃん、来てくれたの!」
「おばーちゃん久しぶり!」
背の高い真由が一直線に私へ向かってくるので、手を広げて受け止める。
まさか集結するとは思ってもみなかったらしい三姉妹は、揃って動かなくなってしまった。私は真由に抱きつかれたまま、どうしたものかと思案する。長く生きていればこんな偶然にかち合うこともあるんだなあ。
一番に復活したのは美冬だった。
「マユちゃんどうしたの?」
「そっちこそどうしたの、二人して」
「私たちはおばあちゃんにチョコの作り方教えて貰ってるの」
璃子がテーブルの上を指さすと、真由は瞬きして私からようやく離れた。三姉妹の長女である真由は、大学生で璃子より一足先に東京の大学へ進学している。けれど小さい頃からおばあちゃんっ子で、帰省の折にはマメに立ち寄ってくれていた。
「あ、もしかしてブラウニー? 私おばーちゃんのブラウニー食べたくて来たんだよ」
ふわふわとした明るい色の髪を揺らして真由が小首を傾げる。
「あら、嬉しい」
私はにやける口元に手を当てた。
「あたしも手伝うねー」
言いながらコートを脱いで準備を進めてゆく真由に、璃子だけがまだ戸惑った様子を見せている。
私は三姉妹を順番に見やって、璃子の顔を覗き込んだ。
「りーちゃん、ちょっとお願いがあるんだけどいい? チョコレートが足りないからフユちゃんとお使いに行ってきてほしいの」
メモ帳に材料をいくつか書き出して璃子に渡す。
「いいけど……」
「フユちゃんもお使い、いい?」
「いくー!」
二つ返事で承諾してくれた美冬と、何かを察してくれたらしい璃子が支度をして騒がしく家を出る。
さて、ブラウニーをたっくさん作らないといけなくなったわ。ボウル、足りるかしら。
私は手を洗っている真由の背中に声を掛けた。
「明後日はバレンタインなのよ、だから二人とも、張り切ってるの」
つい先ほどからのいきさつを語って聞かせると、真由はころころ笑って「あの二人らしいね」と言った。
「それで、どうしたの? 彼と喧嘩でもした?」
「んー。わかんない。なんか色々、上手くいかないなって」
真由が私にお菓子を作ってとねだるのは、嬉しいことがあった日か、悲しいことがあった日のどちらかだ。今日はおそらく後者だろう。真由にはもう長いこと交際を続けている彼氏がいて、真由の口から出る愚痴はもっぱら彼の事が多い。
「あたしさあ、愛情が薄いんだって。情がない、好きじゃないんだろ、って言われちゃった。どうなんだろうね。わかんなくなっちゃった」
小麦粉を量りながら、真由は呟くみたいに溢した。
「長く一緒にいるとそんな時もあるわよ」
「おばーちゃんが言うと重みがあるねえ」
私は真由の顔を覗き込んで、暗い色を落としている目を見つめた。
「心配しなくても、真由ちゃんはたくさん愛情を知っていて、たくさん人にもあげられる子よ。ただそれを、伝えるのが上手じゃないだけ」
「うーん」
「きっと彼もほんとはわかってるはずだわ。パッと見てわかりやすいものだけが、愛情じゃないことくらい」
「そうだと、いいなあ」
力なく笑って、真由は私の肩におでこを当てた。
いつもニコニコしている真由の表情は、色んな事を隠すためにいつの間にか彼女に染み着いてしまったものだ。怒らずにっこり『お姉ちゃんだから』。璃子とはまた違った形で、真由も真由なりに家族を守ろうとしてきたその証だ。
「真由ちゃんは、バレンタインどうするの?」
「なんか美味しそうなのをデパートで買ってあげるよ」
「せっかくだから、今日作ったもの、あげてみましょうよ」
「……あの人甘いの好きじゃないしなあ」
「大事なのは愛情よ」
「考えとく」
材料を全て量り終えて、準備も整ったところで真由の妹たちが帰ってきた。
私はエプロンの紐を結び直し、気合いを入れる。さあ、とびっきりのブラウニーを作らなくっちゃ。
ブラウニーの作り方はとっても簡単。お砂糖を混ぜて泡立てた卵に湯煎したチョコレートとバターを加えて混ぜて、小麦粉を振り入れる。さっくり混ぜたらお好みでナッツやドライフルーツを入れて、バットに流してオーブンで焼くだけ。
考えた結果、私は三姉妹と一緒に小さめのバット三つのブラウニーを作った。一つが美冬の、一つが璃子の、一つが真由の。みんなばらばらの想いを抱えてここに居る彼女たちには、一つを分け合うのではなくてそれぞれのチョコレートを持って帰って欲しかった。
ブラウニーが焼けるのに合わせて、お茶を入れる。
私と美冬は甘いミルクティー、璃子はカフェオレ、真由はブラックコーヒー。
「焼きたても焼きたてで、美味しいのよ」
それぞれのブラウニーを切り分けて、お皿に盛りつける。真由のにはオレンジマーマレードを薄く塗っておく。私は三姉妹からの意見で三つを少しずつ頂く事になった。
「いただきます」
四角いテーブルを囲んで四人で手を合わせる。この時間は女の子だけの秘密だよ。美冬が焼けるのを待ちながら言っていたことを思い出す。
美冬と璃子は一口食べると歓声を上げた。真由は俯いて、何故だか少し唇を噛んだ。
「美味しい……」
「よかったわ」
「なんでこんなに美味しいんだろう。不思議ね、おばあちゃんのお菓子って、いつ食べても美味しいの。小さい頃から味覚だって変わってる筈なのに、なんでだろう」
コーヒーのカップを傾けた彼女の目が滲んで見えるのは、立ち上る湯気のせいだけではない気がした。
「愛情よ」
私はゆっくりと口にして、ブラウニーを一つ一つ味わってゆく。
フユちゃんのブラウニーは、ふわふわした口当たりで細かなナッツを控えめに入れて、甘みは強く食べやすいように。
りーちゃんのブラウニーは表面をさくっと仕上げて、ナッツはゴロゴロと沢山入れて意外と飽きっぽい彼女が一口毎に楽しめるように。
真由ちゃんのブラウニーは甘さを抑えてしっとり、ナッツも種類を少なくして代わりにコーヒーと相性が良いマーマレードを塗って。
泣き出してしまった真由を妹たちは必死で宥め、太陽が沈む頃に揃って帰ることになった。真由も元々今日は実家に泊まるつもりだったらしく、美冬と一緒に璃子に手を引かれて玄関へ。
目を赤くした姉の横で璃子は私に会釈して、
「藤崎先生が来る時間だから帰るね」
「……藤崎先生?」
「私の家庭教師の先生なの」
目を丸くして美冬を見ると、彼女は人差し指を口に当てた。なるほど、秘密ね。私は一つ頷いて、三姉妹に手を振った。
まだ少し肩が落ちたままの真由が三人分のブラウニーの入った紙袋を持って、璃子は二人と手を繋いで、美冬は鼻唄を歌って。小さくなってゆく後ろ姿が夕焼けににじんでゆく。三人共にとって、素敵なバレンタインデーになりますように。振り返った三姉妹が、大きく手を降ったのが見えた。
リビングに戻ると、まだ甘い香が漂っていた。
「はあくたびれた」
なんだか長い一日だった。エプロンを外してソファに倒れ込む。
明後日はバレンタイン。愛情を込めて、私も何か作らなくちゃ。
もうすぐ聞こえてくるであろう足音に耳を澄ませながら、私はそっと目を閉じた。