9話 『逆転勝利』
大きく開いた口から、湧水のように止めどなく流れる涎を散らしながら、一匹のアスモが美味しそうには見えない見た目アラサーな二人の男を目掛けて、出張中だった父親の胸に飛び込む我が子の如く、それはもう嬉しそうに突っ込んでくる。
しかも、最初の一匹に引き連れられて、10匹くらいの荒ぶるアスモたちがやってくる様子は、閉店セールの特売品を奪い合う百戦錬磨の主婦。
粗悪品の俺をそんなに全力になって求めて来るなんて、人生初のモテ期なんじゃないだろうか。なんだか、笑えて来る。
『面接受かってたらお祝いしようね!』
飛び掛かるアスモたちがスローモーションに見え始めた瞬間、走馬灯のように昨日言われた聖菜の言葉を思い出した。
面接は大丈夫だったから、多分、聖菜はこの試験がダメだったとしても、「今回は面接受かったんだね。それなら一歩前進だよ」とか言って、仕事が決まってもいないのに大喜びしてくれて、何のお祝いか分からないお祝いをしてくれたはずだ。
――ごめんな、聖菜。結局、何もしてやれないまま終わるみたいだ。本当にごめんな……。
俺は諦めていた。当然と言えば当然だろう。
こんな絶望的な状況で、誰の助けもなしに生き延びられるはずがない。
だが、俺の体は勝手に動く。
飛び掛かるアスモに対して、ボロボロな盾を突き出し、鋭い牙を防いで勢いをそのままに突き飛ばされた。
「痛って!」
俺の行動に驚いたのか、アスモは動きを止めてこちらの様子を覗っている。恐らく、今まで逃げ回っていた人間が突然歯向かったことに警戒したのだろう。
いじめっ子も、いじめていた相手が対抗してきたらたじろぐ。
勝機はない。だけど、もしかしたら生き延びることができるかもしれないと、僅かな希望が芽生え始めた。しかし、先の攻撃を凌いでくれた盾はバラバラに砕け散っている。
俺は馬鹿か。成り行きとは言え、結婚資金を貯めるためにここへ来た。死ぬために来たわけじゃない。臆病者とかダメ男とか、幸薄男とか関係ない。
「俺は聖菜を幸せにするまでは、死ねないんだよ!」
大声を張り上げて、アスモに向かって突撃した。
「ごはっ!」
刹那、俺は大きな壁にぶち当たり、ボディーブローでも打ち込まれたような声を出してしまった。大きな壁とは言っても、人生の壁にぶち当たったわけではない。ずっと俺たちの様子を見ていた大男が立ちはだかっていた。
「思っていたよりは、本気で生き延びたいらしいな」
本気も何も、自殺志願者でない限り、ここで死のうなんて阿呆な考えの奴がいるわけがない。
「当たり前だ! 俺は死ぬためにここへ来たわけじゃない!」
「よく言った!」
そう言うと、大男は右腕をブオン! と音を立てながら、呆気に取られていたアスモたちを吹き飛ばしてしまった。一体どれだけの腕力なのだろうか。こりゃあ、戦車でも持ってこないと絶対に太刀打ちできない。それくらい圧倒的な力を見せつけられた。
そして、俺の生き残れるかもしれないという希望は、生き残れるという確信へと変わっていた。
「俺はどうしたらいいですか?」
このまま、大男に守られているだけでは意味がないと思った俺は、一応試験官である大男に助言を求めた。
「そうだな。お前はその汚い防具を脱いで、カルディオ大十字騎士長に試験結果でも確認してこい」
「はい……え? 試験結果ですか?」
「とっとと行け!」
訳が分からない。俺はまだ何もしていないのに試験結果を聞けと言うのは、一体全体どういうことなのだろうか。半信半疑で騎士の下へと向かった。すると、そこには既に試験結果を聞いているサラリーマンの男リュウオウがいた。
「……というわけで、リュウオウ君は帰宅してください」
「分かりました。では、失礼します」
試験に合格したのか、それとも不合格だったのか、よく分からない表情でリュウオウは試験官3人が現れた扉から帰って行った。
「あの……、試験結果を確認しに行けと言われて来たんですけど」
俺は恐る恐る騎士に声を掛けた。
「エルシド君、早速だが試験結果を伝える。心の準備は良いかな?」
「……お願いします」
騎士の表情からも、結果がどうなのか分からない。これはクイズ番組の最終問題で、「ファイナルアンサー?」という問いかけに「ファイナルアンサー」と答えた後に生じる独特の間を思い出させる緊張の瞬間だ。
「試験結果は……」
脳内で勝手にドラムロールが流れる。固唾が通りにくそうに喉を通り、喉仏の動きに合わせて俺の顔も上下する。
「合格」
「嘘……でしょ」
信じられないという意味で発した言葉だったが、採用試験を何一つ達成していないのに合格と言うのは、容易に納得できるものではなかった。
「嬉しくないのか?」
「いや、嬉しいとか、そういう前に合格した理由が分からないと言うか、何もしていないですよね?」
俺がしたことと言えば、遠くにある扉へ向かって駆け出した大勢の参加者が次々に食われていく様子を見て、リュウオウの後に続いて、アスモの情報を聞き、ボロボロの防具を貰って、一度だけ攻撃を凌いだだけ。
臨機応変さもなければ、度胸もない、流れに身を委ねることもできなかった、ただの能無し。そんな俺に対して、騎士は合格と言った。これを不思議に思わないわけがない。
その理解できない合否の基準に対して、爽やか残念イケメン君が騎士に代わって教えてくれるようだ。
「僕が伝えた試験内容を覚えていますか?」
「無事に生き延びて、あの遠くにある扉まで辿り着くことですよね?」
俺は当然のように答えた。
「いいえ、僕は「皆々様の覚悟に嘘偽りがないか示すために全力で生き延びてください」と、言いました。その意味がお分かりになりますか?」
何が言いたいのかまったく理解できない俺は、爽やか残念イケメン君の爽やかすぎる微笑み顔を見つめ、首を傾げた。
「僕達が求めている覚悟と言うのは、何があっても生き延びるという覚悟。面接のときにカルディオ大十字騎士長が訊いたと思いますが、その覚悟がない者は、これから先の戦いで生き延びることはできません」
「それと俺が合格した理由が結びつかないんですが……」
「あそこにある扉が、敵の本陣だとしましょう。本陣へ突撃し、敵の頭を討ち取れば我々の勝利。ですが、それは作戦を立てた上で、勝つ見込みがあると判断したときのみです。しかし、真っ先に飛び出していった彼らは敵の罠があるのかどうか、敵の勢力がどれ程のものなのか、一切確認をしなかった。その結果、無駄死にしてしまったわけですが、対してエルシドさんとリュウオウさんは、相手が何者か知ろうとした。その上で防具を要求し、少しでも生存確率を上げようとしました。この時点で、他の志願者たちとは違う人材だと線引きをすることができます。エルシドさんは、リュウオウさんの後に続いての行動でしたので、合格とまでは言えませんでしたが、最後に生きるための行動をしました。それが、「絶対に生き延びる」という覚悟の証明になり、合格となった訳です」
まさかの展開だった。俺は爽やか残念イケメン君があの扉を指さした時点で、誰よりも早く扉まで辿り着いた生存者が合格するものだと思い込んでいた。当然、真っ先に飛び出していった参加者も採用を勝ち取りたい、絶対に生き残ってやるという気持ちで、向かって行ったに違いない。
でもそれは、戦場においては無謀な行為。異世界のことなんて何一つ知らない、レベル1の状態でここへ来た俺たちが、レベルの分からない謎の生物が生息しているこの場所で、難易度の分からないミッションをクリアできるほど甘くはない。
ここがゲームの世界ではない以上、チュートリアルややり直しなど存在しない。常にぶっつけ本番、その時、その瞬間が命を懸けた本当の戦い。
結果として合格した俺が理解できたのは、この採用試験が生き残るためには、必要最低限の情報と身を守るための防具を自らの手で揃え、生存率を上げることの大切さを知るためのものであり、何としても生き延び続けることが、クレリックとして働くためには絶対的に必要な要素だということを、その身をもって理解すること。
俺は知らないうちに、試験合格という栄光への道を歩いていたようだ。
「理解できました。俺たちは何があっても死んではいけない仕事をする。ちゃんと採用されたらとかではなく、今この瞬間も必死に生き延びてみせます」
爽やか残念イケメン君をはじめとする試験官3人と騎士は、俺の言葉を聞いて何度も頷いていた。
「やはり君には、誰にも負けない覚悟があるようだ。その覚悟を忘れずに日々精進したまえ」
騎士は、俺の肩を軽く叩き、満足そうな顔をして言った。
「はい。ありがとうございます」
期待していることが伝わって来たので、礼を言ってはみたが、大勢の人たちが犠牲になった状況で、手放しに喜べるような心境にはなれなかった。
「さあ、今日は色々と疲れただろう。そこの扉から帰るといい」
「はい。お言葉に甘えて失礼します」
俺は悶々とした気持ちを抱えたまま、扉を潜り元の世界へ帰って来た。
コンビニで求人誌を手にしていたときと同じように、俺は日雇いの出勤前にいた玄関先で立っていた。太陽が昇り切っていないところを見るとまだ正午を回っていないようだ。
なんとなく、腕時計を確認してみると俺が家を出たはずの時間から、1~2分程度しか経っていない。やっぱり、あの世界とこの世界では時の流れに差があるようだ。
「ふぅ。未だに夢か現実かよく分からないな。痛っ……!? これって……」
緊張が解けたせいか、滲み出てきた汗を右手の袖で汗を拭った瞬間、何かがチクッと頬に刺さった。よく見ると、袖にはあの世界で見事に粉砕された盾の破片が引っ掛かっているではないですか。
――マジかよ……。
どうやら俺は1、2分の間、この世界から消えていたみたいだ。
それに気づいてしまった俺は、1、2時間分の疲れが蓄積されていることにも気づいてしまい、これからある日雇いの仕事が過酷な重労働だということに絶望した。