3話 『聖菜』
「ただいま」
婚約者の聖菜と一緒に暮らしている愛の巣へと帰って来た。
家賃6万5千円の2LDKのアパートは、日雇い生活を送っている俺にとってかなり贅沢な借家だが、将来子供ができたときのことを考えて、少し広めのアパートを借りている。
何度も引っ越しをする余裕がないというのもあったけど、こうやって普通の生活ができているのも俺とは対照的な聖菜のおかげ。
聖菜はアパレルショップの店員をしていて、あれよあれよという間にアルバイトから社員、そして店長へと出世街道をまっしぐら、今は担当エリアを統括するエリアマネージャーという役職に就いている。そういう訳で、聖菜は我が家の出世頭であり大黒柱だ。
「お帰りだど!」
冷房の効いた部屋で快適に過ごしていた聖菜が、二人掛けのソファー越しに愛らしい笑顔で元気よく出迎えてくれた。
「ただいまだど! って、今日休みだっけ?」
「そうだど!」
役職上、一週間のほとんどを他県に出向いているから、いつが休みで家にいるのか把握していなかった。最近メンタルがやられていたから、聖菜の笑顔にはかなり癒される。
6年間付き合っているが、聖菜のキャラは不思議過ぎて全然飽きない。最近は〇ョ〇ョの奇妙な冒険という漫画に出て来る刺々した頭のキャラクターがお気に入りらしく、時々会話のどこかに「~だど」と、語尾に入れて来る。
チャットアプリでも「今日も頑張るんだど!」と、いう具合で送ってくる。こんな一面を見られるのは俺ぐらいだろう。たまに聖菜のノリに合わせないで普通に返すと、悲しそうな顔をしていじけてしまうことがあるが、この一風変わった絡みは基本的に楽しみで結構好きだ。
「今日は早かったね」
日雇いの日は大抵、夜遅くまで仕事をして帰ってこないから聖菜は不思議そうにしている。
「いやぁ、さっきコンビニで求人誌読んでいたんだけど、【異世界求人ニーチュ】ってやつを見つけてさ」
「ダサッ! 【異世界求人ニーチュ】ってダサすぎない? 普通読まないでしょ」
聖菜はネーミングやら、ファッションに対して厳しい。そして、笑いのツボが浅い。
切れ長な大きな目を細め、ぷっくりとしたたらこ唇が細くなるくらい大きな口を開けながら、かなりご機嫌に大笑いしている。年齢不詳の童顔なだけあって、無邪気に笑う顔は見ていて微笑ましい。
「まあ、俺もダサいとは思ったけどさ、そのダサい求人を読んじゃった俺まで笑われている気分になるから、それ以上は勘弁して……」
「ごめんだど! 何か良い求人あったの?」
「うん。良いかどうかは分からないんだけど、多分ゲームの事前登録をしてバグとかを見つけるっていう仕事っぽいのがあって、未経験でも大丈夫みたいだったし、結構給料も良さそうだったから、一応エントリーして面接まで終わらせてきた」
夢だったかもしれないっていうのは、あえて伏せておこう。俺がそう思った理由はこれと言ってないが、その方が面白い反応を見られそうだ。
「面接したの!?」
今日はこの日か。
聖菜は、ただでさえ大きな目を見開いて驚いているが、この驚き方は呆れている方が大部分を占めているはず。いや、絶対にそうだ。長年付き合っているから間違いない。
並みに大きな目を見開いて驚いている。長年付き合っているから分かるが、この驚き方は呆れている方が大部分を占めているはず。
ちなみにこの状態の時の聖菜を初めて見た時から「目」というあだ名をつけて、さらに昔観ていたアニメのモンスター〇ァームに登場する、目と口が大きい一本足のモンスター「ス〇ゾー」というあだ名を追加した。最近だったらモンスターズ〇ンクの「マ〇ク」ってあだ名も追加したはず、それくらい目が大きくて特徴的なのだ。
ただ、この状態になった聖菜は一歩間違うと手が付けられないほどの鬼と化してしまう。とりあえず、あれで切り抜けるか。
「成り行き上、面接しないといけなかったんだよ。そして、次にお前はこう言う! 「ちゃんと会社の概要とか調べてから面接したの?」だ!」
「ちゃんと会社の概要とか調べてから面接したの? はっ!?」
これは俺たちの間では毎回お決まりの〇ョ〇ョの奇妙な冒険ネタだ。こんな感じで会話をすれば、呆れていようが怒っていようが、大抵のことは笑って流してもらえる。
だけど、失敗したときは顔が腫れ上がるくらいの往復ビンタが飛んでくるから、安心はできない。
「一応、調べようかと思ったんだけど、企業名とかどこにも書いてなくてさ。興味本位でエントリーしたら急に求人誌から手が出てきて中に引きずり込まれたと思ったら、すぐに面接をさせられたんだよね」
「嘘……でしょ?」
当然と言えば当然の反応かな。客観的に聞いたら絶対に信じられないようなことだし、自分で話していても冷静に考えたら、どんなにハイテクな機能でも、求人誌から手が出てきて中に引き込まれることがあるはずがない。我ながら変な夢を見てしまったものだ。
「嘘って言うか、俺もよく分からないけど、疲れすぎて立ちながら眠っていたみたいだし、もしかしたら夢だったかも。最近、ずっと面接ばっかりだったから、そのせいだと思うし……」
今のところビンタは飛んでこないけど、念のため聖菜が怒っていないかどうか顔色を窺う。なぜかと言うと、何が切っ掛けでダイナマイトの導火線に点火してしまうか分からないくらい、聖菜の怒りどころは謎だからだ。
この間もいつも通りの会話をしていて、特別なことは何も言っていないのに突然激怒されたことがある。未だに何が原因だったのか分からない。ただ、聖菜はちゃんとした理由がない限り、滅多に怒ることはない。
もし、今回怒るとすれば、「考えが浅はかすぎる」という理由に違いない。
「それ……絶対にパラレルワールドだよ!」
出ました! パラレルワールド!
予想は大外れで怒っているどころか、お得意のパラレルワールド発言が飛び出した。
聖菜はパラレルワールドとか幽霊とか山神様とか、そういった類の話が大好きで、絶対にあると信じている。俺も俺で人にはあまり言えないが、霊感体質なところがあって良くない土地とか、お盆時期になると左腕がゾワゾワしたり、見えないものが見えたりするから、パラレルワールドは信じているタイプだ。
とは言っても、ここでパラレルワールド発言で食いつくのは、さすが聖菜。どこで何が飛んでくるのか予想もつかない。
「確かに妙にリアルだったし、求人誌に引きずり込まれたときも腕を掴まれた感覚はあったからなぁ。もしかしたら、夢じゃなくてパラレルワールドだったかもな。もしそうだったら怖いけど」
「ふふふ」
聖菜は不敵な笑みを浮かべている。かなり嫌な予感しかしない。
「なに?」
「もしかしたら、もうここがパラレルワールドかもしれないよ?」
「いや、それガチだったら本当に怖いから」
「太陽が二つあったらパラレルワールドみたいだよ。帰って来る時に太陽見た?」
「見てないけど」
やっぱり嫌な予感しかしない。この流れだと、絶対に次はあれが来るに決まっている。
「じゃあ、これで確認するしかないね」
聖菜はそう言うと、急に俺の鼻の穴を目掛けてVサインをした指を突っ込もうとしてきた。
「やめろ! 鼻に指ツッコまれるのマジで嫌だから!」
俺は全力でその手を弾いた。
毎回パラレルワールドの話をするとこうなる。俺は本気で鼻の穴に指を入れられたり、鼻を摘ままれたりするのが昔から嫌いだ。だから、もし鼻に何かした時に嫌がらなかったら、俺はパラレルワールドの人間だという証拠になると、聖菜は本気で思っている。
「ふっ。どうやら彩斗は本物みたいだね。はい」
俺が本物だと確認し終えると、聖菜は鼻の穴を真ん丸に広げて俺の腕を掴んだ。
聖菜は毎回パラレルワールドの話をした時に、お互いが本物かどうか確認する方法を考えていた。そして思いついたのが、お互いの鼻の穴に指を突っ込むというものだ。俺は嫌がるかどうかで判断されているが、聖菜はその逆で鼻の穴に指を突っ込まれても微動だにしないどころか、めちゃくちゃ嬉しそうに笑って来る。
そう、聖菜が本物かどうか確認するためには、鼻の穴に俺の指を突っ込まなければならない決まりになっている。
「やめろって! 人の鼻の穴に指入れるのも嫌なんだってば!」
俺は全力で嫌がったが、こういう時の聖菜は力が半端なく強い。がっちりと掴まれた俺の腕は、じわじわと聖菜の鼻の穴へと向かって行く。
が、俺も簡単に指を突っ込ませまいと拳を握り締めて抵抗する。一進一退の攻防が5分くらい続いた後、聖菜がすっと自分の左手の人差し指と中指を立てて、自ら鼻の穴に指を突っ込んだ。
「見て、見て! 鼻の穴に突っ込んでも平気でーす! だから聖菜も本物でーす!」
一度突っ込んだ指をそのまま俺の目の前に突き出して、楽しそうに笑っている。かなり変な奴だけど、六年経った今でも楽しく過ごせているのは、聖菜のこういう性格のおかげでもある。
ただ、鼻に指を突っ込んだまま笑う顔は、本当にブサイクだ。ごめんだけど。
「ほんとだ! 良かったぁ~。聖菜が本物だってことは、ちゃんと俺は現実の世界にいるってことだな」
「良かったね! ちゃんと戻って来られて!」
何とか納得してくれたみたいだ。
聖菜の中では、俺が一度パラレルワールドに行ったことになっているみたいだが、確かにあの現実離れした体験は、パラレルワールドに行っていたと言えば、いくらか納得はいく。
「それで、面接の結果っていつ出るの?」
ちゃんと面接もしたことになっているようだ。あれが本当だったら、面接の合否が出るのは――。
「――確か三日後の正午って言ってたかな」
「その日、彩斗はお休みだったよね?」
聖菜は俺のスケジュールを手帳とスマホのアプリに書き留めて管理している。束縛という訳ではなく、俺が突発的に予定が入ったり忙しく動いているため、スケジュールを忘れないようにしてくれている。
「一応、日雇い入れられたら入れようとは思ってるけど、今のところは予定なしだね」
「その日、聖菜は仕事だから帰ってきて面接受かってたらお祝いしようね!」
「お祝いには気が早くないか? 面接通っても、色々と審査があるみたいだから本採用って訳じゃないよ」
「良いの、良いの! こういうのは気持ちが大事なんだど!」
このポジティブさには毎回助けられている。どんなに辛いことがあっても、「大丈夫だよ! 笑っていれば良いことあるから!」と、いつも俺のことを励ましてくれる。聖菜と出会って付き合うことがなければ、色んな事に挫折して、変な女とばっかり付き合って、不幸な人生を歩んでいたに違いない。毎回そんなことを思いながら、聖菜に日々感謝をしている。
「聖菜……」
「なに?」
「ありがとうな」
「また? 彩斗って急に「ありがとう」って言うよね! めっちゃウケる!」
聖菜は俺が愛おしそうな目をしてお礼を言う度に、お腹を抱えて大笑いする。相変わらず、笑いのツボがよく分からないけど、その笑顔に救われ続けているから、絶対に幸せにしようって思えたし頑張ろうって思えた。
――明日からまた就活頑張ろう。
〇給料
日雇い(早退につき就業時間4時間):日当4000円
〇支出
2500円くらい(聖菜と仲良く買い出し+ガソリン代)
500円は明日の弁当代で消えるので確保
〇結婚積み立て貯金
1000円追加
〇結婚資金(半年前からのを含む)
3万9000円
〇目標金額まで
残り396万1000円