旅立つ理由・2
一通り仕込みの手伝いが終わると、ラルフはラナに一言断りを入れ、剣をもって星見の丘に向かった。
子供の頃はここを登り切るまでに息が切れとても大きいように感じていたが、今やラクラクと登れる。小高い丘の上に立つと見える隣国との境界に当たる林は相変わらず鬱蒼と木々が並んでいた。
この丘の上はあまり人が来ないので、訓練をするにも考え事をするにも最適な場所だ。ラルフは丘の上の一際大きな樹の根元に座り込んで、林の方に視線を向けた。
軍に入りたいと思ったのには色々と事情がある。一つは、ラナが察したように経済的な理由だ。家族同然に暮らしてきたとはいえ、血の繋がりが全くないのは事実だ。働ける年になってまで世話になっていていいのかという疑問は常に頭にあった。軍に入れば寄宿舎生活が出来るというのはかなり惹かれる部分だった。
もう一つは、軍ならば正規の訓練を受けられるということ。ラルフの剣技は自己流だ。戦争から戻ってきた数人の戦士に型などは習ったが、正しく指導されたことはない。村にはそれほど剣に熱中する若者もおらず、今の自分の強さがどれほどのものなのかも分からない。力を測り、そしてより強くなるためには、軍に入るのが近道のようにも思えた。
そしてもう一つの理由。それが今のラルフにとっては一番の重要であるとも言える。
「ラルフ」
名前を呼ぶよく通る声。息を切らしながら長い髪を風に晒してシーナが走ってくる。今や十八歳となった彼女は、溌溂とした雰囲気をまとわせ、見るものを魅了するような美しさを手に入れていた。
すぐ傍まで近づいてきても、シーナは小さく見える。戦後、急激に身長の伸びたラルフと違って、シーナはあの頃から身長が大して伸びていない。それでも体つきはすっかり女性らしくなり、彼女に言い寄る男も少なくはない。しかし、本人はあっけらかんとしていて、寄ってくる男に恋愛感情があるとは気づいていないようだが。
「ほら、ラルフの好きなリンゴ、売れ残ってたから貰ってきちゃった。一緒に食べようよ」
紙袋から赤く艶のあるリンゴを取り出して、シーナは隣に座り込んだ。リンゴよりもシーナの香りが気になって、ラルフは落ち着かない。動揺していることを悟られないように、ラルフは慌ててリンゴに噛み付いた。
軍に入りたいと願った最後の理由はシーナだ。両親を失くしたあの日以来、いや、もしかしたらもっと前からかも知れないが、シーナにとってラルフは庇護しなければならない弟になった。ラルフが一人になると落ち込むのに気付いたのか、姿が見えなくなるとこうして探しに来ては何かしら元気づけようとする。シーナの優しさは、孤独だったラルフにはとても暖かかった。大切にされて、大切にして二人は成長してきた。そして今、互いの大切の方向性がずれていることに、ラルフだけが気付いている。ラルフは、シーナを女性としてみているのだ。
「ねぇ、今日は何してたの? 学校ではなんかあった?」
まるで母親が小さな子どもにするような質問を、シーナは欠かさずラルフにする。
「いつも通り。卒業試験が近いから勉強は大変かな。でも合格ラインはとってるから」
「分からなかったら私が教えてあげるよ?」
「シーナに教わるほど馬鹿じゃないから大丈夫」
「ちょっとどういう意味よー!」
ラルフを叩こうとしたシーナの手を咄嗟に右手で掴む。一瞬顔を見合わせて、息を呑む。このまま引き寄せて抱きしめたらどうなる? というラルフの淡い期待は、シーナの反応によってぶち壊される。
「もうっ、生意気になってー! 離しなさーい」
「嫌だよ。弱いな、シーナ」
「離さないとこうよ」
空いている方の手で腰回りをくすぐられて、ラルフは堪えられなくなり手を離し、内心がっくりと肩を落とす。完全に弟へのもしくは息子への反応だ。こんなにじゃれあっていてときめいているのは自分だけという虚しさ。そしていつまで我慢できるのかという恐怖。ラルフは、この状況から抜け出したかった。
「あはは。もう日暮れだね」
どこまでも無邪気にシーナが笑い、朱に染まるラルフの顔を指さす。そのまま立ち上がり村の方を見おろした。
まるで血に染まったような朱い村。
「本当だ」
ラルフはあの日から夕焼けが苦手になった。両親の死が脳裏にちらつき、綺麗なはずの夕景が血塗られたようにしか感じられない。
「ねえ。母さんに聞いたんだけど、軍に入りたいなんて本当?」
シーナはサラリと核心に迫った。わざわざ迎えに来たのは、それを問いただすつもりもあったのだろう。
「本当」
「どうして? 私や母さんに気を使ってるの? 学校が終わったって家にいていいんだよ。ラルフは私の弟なんだから」
彼女の優しさは嬉しくもあり胸を痛くもする。ラルフは困ったように頭を書いた。
「違うよ、そんなんじゃなくて。俺、強くなりたいんだ。どうせ戦争がはじまったら、この村にいたって徴兵されちまうじゃないか。だったら、はじめから軍に入って訓練を受けた方がいいだろ」
「戦争なんてもう起こらないわよ!」
シーナは弾かれたように反発する。父親を失った戦争は、彼女にとって忌むべきものであり、それに弟同然のラルフを奪われるのは耐え難いことだった。
「起こらない方がいいと思ってるよ。でも分からないだろう? 現実問題、カルゼン公国との関係は一つも良くはなってない。互いに主張し合うばかりでいつ爆発するかなんて分からないじゃないか」
「軍人は戦争が始まったら一番に戦地に行くのよ? 死に行くようなものじゃない」
「違う。守りに行くんだ」
ラルフの真剣な表情に、シーナは一瞬たじろいだ。しかし、キッとラルフを睨みつけるとシーナは怒りだした。
「私はもう家族を失いたくないのよ。ラルフまで死んだら、私どうしたらいいの……」
怒った顔から溢れる涙は、悲しそうに泣かれるよりも胸をつく。シーナは泣いてしまったことが悔しいといった風に袖口で乱暴に自分の涙を拭った。ラルフの心中は嵐だ。恋愛感情と家族愛と使命感とが混ざり合って渦をなし、どこに出口を持っていけばいいのか分からなくなる。
「……分かったよ。もうちょっと考えてみる」
結局言えたのは譲歩の言葉で、それにホッとしたように頷くシーナに、胸はますます痛くなる。
「ほら、店の手伝いしなきゃ」
二人はお決まりの言葉をきっかけに丘を下り始めた。