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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ヨウラクとモクレン

作者: 火野ナガヨ

ヨウラクは愛を、そして優しさと温もりを知らなかった。知っているのは、血のにおいと殺し方だけ。文字も数字も、ヨウラクは色々なことがわからない。

この街には上と真ん中と下があって、ヨウラクは底の底の一番下からやって来た。

モクレンに拾われた時、ヨウラクはドブの臭い水とよくわからないものにまみれて、それは汚かった。目だけは爛々と光り、まるでドブネズミのようだった。姿だけではなく、心までも。

ヨウラクは光を求めてやって来た。狭いパイプをくぐり抜けて、ゴミ溜めの中から這い出して。ヨウラクを連れ戻そうと追いかけた者もいたかもしれないが、忘れてしまった。どうせ、殺してしまったような気がしていた。

最初にモクレンを見た時も、面倒だから殺してしまおうと思った。ヨウラクは人と交わることが苦手であった。だけど、目の前にパンが差し出されたので、殺すのはやめた。ヨウラクはどこまでも獣で、食欲に忠実だった。真ん中の世界のパンは甘くふかふかしていて、いつもの固く黴びたパンとは大違いだった。

普通の人間だったら、ヨウラクの姿を見た途端、軍警の元に駆け込んだだろう。しかし、モクレンはそれをしなかった。何故なら、彼女は孤独な世間知らずだったから。

モクレンは十三歳の小さな女の子だった。お人形のような金の髪と、青色の瞳をした、ちっぽけな女の子。親はいない。とうの昔に死んだ。

でもモクレンはしっかり者だったので、こじんまりとした家に一人きりで住んでいた。真ん中の街は、家さえあれば安全であった。

モクレンがヨウラクに何を感じたのかはわからない。ただ、汚れた男に手を差し伸べる程度には、慈悲深かった。

ヨウラクはモクレンにされるがままであった。パンの礼とばかりに。食物とは彼の中で最も重要だった。モクレンはヨウラクを家へ連れ帰り、風呂で体を洗ってやり、それからぼさぼさの髪を梳り、山盛りの手料理を与えた。この少女を殺そう、と研ぎ澄まされていたヨウラクの心は見たことのない料理の前にあっけなく砕け散った。

その代わりに、ここを巣にしようと思った。もう腐ったパイプの中で息をひそめる必要もなかった。モクレンもヨウラクの気持ちを察したのか、居着いていいよ、と笑った。

モクレンは、甲斐甲斐しくヨウラクの世話を焼いた。

ヨウラクはこちらに来て、食べてはいけないものが沢山あることを知った。生の肉、木の皮、黴びて色の変わったもの、卵の殻、澱んだ水。うっかり食べてもヨウラクは平気だったけれど、モクレンに嫌われたくないのでもう食べないことにした。

モクレンの溢れんばかりの慈悲は、ヨウラクに僅かばかりの人間性というものを与えた。

布団に包まって眠ることを知った。食べ物を溢さずに食べることを知った。モクレンを思いやることを、会話をすることを知った。

ドブネズミだったヨウラクは、いまや獣ではなくなった。しかし、人間でもなかった。

ヨウラクは笑顔を知らず、幸福というものを理解出来なかった。いや、笑ってみたいとは思っていたが、やり方が分からなかった。

ヨウラクはモクレンのことをすっかり好きになっていて、その温もりと笑顔に夢中だったけれど、幸せというものはよく分からなかった。

自分の感情が、どうやら愛と呼ばれるものらしいということは何と無く分かっていた。

しかし、愛とは幸福だろうか。幸福とは、果たして。笑顔、空腹が満たされているということ、もう獣ではなくなったこと。いや、違う。もっと何か、難しいもの。

ヨウラクは幾分か賢くなったものの、幸福を知るのにはまだ未熟だった。モクレンはそんなヨウラクを優しく見守るばかりであった。

ヨウラクがモクレンと出会ってから一度目の冬のことである。

パイプによってあらゆる空気が調整されるこの街にも、紛い物の冬は来る。モクレンは冬を知らないヨウラクに、暖かいマフラーを編んでやった。

そんなある冬の日、ヨウラクは一匹の獣を見つけた。

かつてのヨウラクと同じ、ドブの臭いと淀んだ目をした、汚い汚い男だった。花の香りのモクレンとは違う、嫌なものだと、ヨウラクは思った。

男はカタカゴと名乗った。

ようく見てみると、地の底の街で見たことのある顔であった。となると、ああ、自分を殺しに来たのだろうな、とヨウラクは思った。

予想通り、カタカゴはぎらぎらした目をしながら、大振りのナイフを取り出した。しかし、ヨウラクもかつては獣であったことを忘れていた。カタカゴはあっという間に返り討ちにあい、冷たい地面に組み伏せられた。

ヨウラクは悩んだ。殺してしまおうか、そのまま逃がそうか。

逃がせば何時迄も追ってくるだろう。しかし、ここで殺して血の匂いをさせたまま戻れば、モクレンは酷く悲しむだろう。それは、今までの穏やかさを失う程に。

悩んでいる内に、カタカゴはナイフを一振りして、何処かへ逃げた。ヨウラクの頬には一筋の傷が残されて、自分が弱くなったことを理解した。しかし、悲しくは無かった。獣だった頃からまた一歩、モクレンに近づいたからだ。

だが、ヨウラクはその内に自分が死んでしまうような気がした。弱くなったということは、獣でなくなったということは、そういうことなのだと直感的に理解した。

ヨウラクは悩んで苦しんで、取り敢えずモクレンに優しくしようと思った。

いつお別れしてもいいように、手に入れたばかりの愛情をもって、モクレンに接した。

そして初めて嘘をついた。何事もなかったかのように、モクレンを守るために。

今まで獣だったヨウラクにとって、嘘をつくのは少し難しかった。

それから七日。カタカゴは現れなかった。街の何処かにいることは分かっていたけれど、深追いするのはやめた。出来ることなら、ヨウラクは生き残りたかったから。

そして、ヨウラクがカタカゴと遭遇してから八日目の夕方のことであった。

ヨウラクは夕闇に紛れてのろのろと、カタカゴが動き出すのを感じた。もう、ヨウラクは嘘がつけるようになっていたから、カタカゴをさっさと殺して、モクレンにはそのことを隠したまま生きて行こうと思っていた。

ナイフを片手にヨウラクは街を駆けた。人目につかないように、心はかつての如くドブネズミだった。

まるで脚本があるかのように、二人はパイプの密集した路地裏で対峙した。汚いごみの吹き溜まりで、二人に相応しい死の臭いがした。

鋭い金属音と、微かな息遣いだけが響き、ヨウラクは無表情に、カタカゴは笑いながら戦った。二人の力は互角で、まるで踊っているようにナイフを振るった。

どれくらい時間が経ったのだろう。ヨウラクが遠くに響いた女の子の笑い声に気を取られた瞬間、カタカゴは獣の牙のやうにナイフをヨウラクへと突き立てた。

あっと思った時にはもう遅かった。それでもヨウラクは何とかカタカゴの首にナイフを刺した。カタカゴは喉をひゅうひゅう鳴らしながら、にやにや笑った顔のまま死んだ。

辺りは二人の生ぬるい血で真っ赤に染まった。冷えていく体を引きずって、ヨウラクは何とか大通りまで出た。早く家に帰らなくては、と思ったがもう駄目だろうな、とも感じた。

倒れこんだ地面は固く、どこまでも冷たかった。ヨウラクは人々の悲鳴やら怒号を遠くに聞きながら、何時もの足音が近付いてくるのを感じた。

見上げると、モクレンが座り込んで泣いていた。ぽたぽたと温かな雫がヨウラクの頬に落ちた時、ヨウラクはやっと幸福を感じることができた。

自分のために泣いてくれる人がいること。その人と愛し合って暮らしていくこと。明日も、それからずっと先までそんな暮らしが続くこと。

漸く理解した。けれど、肝心の幸福は、もう半分以上その掌から零れ落ちていた。余りにも呆気ない喪失。心は痛む程に悲しみに溢れていたけれど、同時に幸福でも一杯だった。

ヨウラクは泣きながら笑った。随分とぎこちない、それでも真っ直ぐで、人間らしい笑顔だった。ドブネズミのヨウラクはもういない。いるのはただの人間だった。ぼろぼろ、と両の目からは止め処なく涙が溢れた。

かつて、どん底の街であんなにも恐れていた死が、今はあまり嫌じゃなかった。いや、ヨウラクはそれが幸福のためには必要だとさえ思った。

悪いことをしたのだ。ヨウラクの愛するモクレンが悲しむ、嫌なことをたくさんしてきた。だから、これは罰だろうな、とヨウラクは思った。ただ、欲を言えばもう少しだけモクレンと一緒にいたかったなあ、とも思った。

ヨウラクは、モクレンの金色の髪が風に靡くのを見て、もう一度幸せを噛み締めた。きっと、この女の子に出会うためだけに生まれてきたのだ。最後にこんな幸せな気持ちになれるのなら、ドブネズミの暮らしなんて何でもなかった。

幸福!ヨウラクのちっぽけな世界はたった一つ、それだけに満ち満ちていた。

けれど、お別れの時はやってきてしまった。ヨウラクは紙のように真っ白な顔で、さようならあいしているよ、と呟いて、モクレンの細い腕に抱かれてで死んだ。

取るに足らない獣の命は、最後に世界で一番美しいものに看取られた。静かな、本当に静かな泣き声と悲しみの空気が、その瞬間、真ん中の街に広がった。



血とドブの臭いのかわいそうなヨウラク。そして、彼が愛した小さな女の子のモクレン。二人のおはなしはこれでおしまい。


(了)



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