第九話
うさぎの感度の良すぎる耳には、部屋の音がよく聞こえます。
さっきまで温かかった部屋の音は、鍵を閉める音が聞こえた瞬間に冷たく冷めた音になりました。
しーんとしたしじまの音。
その音から逃れたいばかりにアキくんは耳を前足で塞ぎましたが、耳の奥までその音は忍び込んできます。
バスタオルを頭からかぶっても、音はアキくんを悩ませました。
だんだんと音に追い詰められたアキくんは、部屋の片隅でじっとしていることにしました。
そうすることで音など聞こえなくなるんだと、まるで自分に言い聞かしているようでした。
どのくらい部屋の片隅でじっとしていたでしょう。
ふと顔をあげると、薄いカーテンのの向こう側に影を見つけました。
ゆらゆらとカーテンと一緒に動く、海松茶色のような薄暗い色。
ふうわりと大きくなったかと思うと急にしぼみ、また大きくなる影に、アキくんはびくつきました。
けれどその恐ろしい影はしじまの音を何処かへやってくれましたのでアキくんは少しだけ安心してしまい、その影にお礼が言いたいくらいになりました。
そこで無謀にも影に近づいたのです。
みゃう
カーテンの向こうにいたのは、大きな大きな黒い猫でした。
人間であったときなら、猫なんてこれっぽっちも怖くなかったアキくんでしたが、うさぎになった今では、猫は強大で凶暴な捕獲者なのです。恐ろしい化け物になっていました。
その化け物が、ガラス戸の向こうでアキくんをじっと見つめていました。
おいしい餌を見つけたとばかりに舌なめずりをしているように思えました。
怖い
ガラス戸があるかぎり、黒猫は部屋にははいってこれません。
それなのにアキくんはだだだだっと逃げ出しました。
そうしないと食べられてしまうと本能で思ってしまったのです。
人間のはずのアキくんが、猫をみて本能で逃げるというのはおかしな話だと思いますが、人間だって自分よりも身体の大きな動物を見たら恐怖で固まるか逃げ出してしまうでしょう?それと同じことなのです。
このときになってやっとアキくんは朝出かけるときに柚里が言っていた言葉の意味がわかったのです。
『うさぎの姿で一人で外に行くなんて、のら猫に殺られるってことがどうしてわからないんでしょうかねえ??』
そうです。アキくんはわかっていませんでした。
だって、うさぎになって国を出されてから雨の中で柚里に会うまでに動物に会わなかったのです。
ですから自分が人間と同じ感覚のままで外で歩いていたのです。
ガラス越しでもこんなに怖いのに、実際外で出会ったらどんなに恐ろしいことでしょう。
こわごわとガラスの向こうを覗いたら、いつの間にか黒猫はいなくなっていました。
そのことに心底ほっとしたアキくんでしたが、しばらくカーテンの近くに行くのはやめようと思いました。
人間やったら猫なんて怖くもなんともないのに、うさぎの俺にはなんて恐ろしい生きものに見えるんやろう
立場が違うとこんなに捉え方が違うなんて思ってもみぃひんかったわ……
そしてアキくんは、自分の立ち位置だけじゃなくてその人の立場にならないと物事を理解することがむずかしいんだということが分かったのでした。
ちりーん♪
魔法の鈴の音が聞こえました。
こんな当たり前のことでも鈴の音が聞こえるなんて
俺ってどんなに何も知らないあほやったんや?
魔法の鈴は、アキくんが成長した証の音。
今まではその音を聞くと早く人間に戻れると単純に喜ぶだけだったのですが、今日のアキくんは違いました。
朝の柚里の言葉のせいかもしれません。
自分がいかになにも知らない、知ろうともしない王子だったのか、ちょっとだけ理解したからかもしれません。
成長の証の鈴の音。
これから人間に戻るまでにどれだけの鈴の音を聞かないといけないのかと思うと、自分の情けなさにがっくりきてしまったアキくんでした。