第二十五話
まだ陽が昇りきらない朝の早くから、柚里は動き始めました。
昨日のようなことがないように、一度失敗したことは二度とないようにいろんな工夫を考えながら。
アキくんはといえば、そわそわと柚里の周りを動き回っています。
だって、人の姿で走り回れるのって一体いつ以来かわからないほどだからです。
うさぎの姿で走り回ったのも、うさぎになってからは昨日が初めてでしたから、人間の姿に至ってはそれ以上です。
それが嬉しくて嬉しくて仕方がありませんでした。
それに柚里が買ってくれた目に直接飛び込んでくる綺麗な色の靴を履いて、あの緑の匂いと水の匂いのする場所で思いっきり駈け廻りたかったのです。
お弁当を作り終えると、早速お出かけです。
「アキくん、お待たせ。さあ、行こうね!」
ぴょんぴょんと足元で飛び跳ねているアキくんを愛おしそうに見つめながら、柚里はテキパキと荷物を積み込みます。
そして最後にキャリーバックにアキくんがすっぽりと入ったのを確認すると、そのまま家のカギをがちゃりと閉めました。
さあ、楽しいピクニックの始まりです。
昨日と同じ街並みをびゅんびゅんと駈けていく自転車に乗って、アキくんは昨日よりももっと気持ちが高揚していました。
同じ景色、同じ風。
けれども今日は昨日とは一味違います。
幼いけれど人間の姿になって、駈けまわることができるのです。
久しぶりに二本の足で力いっぱい走れたら、どんなに気持ちのいいことでしょう。
そう考えるとくふくふと、笑いが口元にでてきます。
あっという間に土手について、柚里は昨日と同じ橋の下にシートを広げました。
ピクニックには早すぎる時間なのでときおり散歩をしている人を見かける程度で、辺りには誰もいませんでした。
この時間なら、うさぎの姿でも十分駈け廻ることができるでしょう。
「でてきていいよ」
キャリーバックをシートに置いてチャックをあけると、アキくんがひょっこり出てきました。
「なあなあ。もう人間になってもええ?」
早く二本の足で大地を踏みしめたくて仕方がなかったアキくんは、柚里の買ってくれた靴の入っているもう一つの鞄までぴょんぴょんと移動しました。
そして鼻先でよいしょよいしょと鞄を触って、早く開けるようにアピールをしていました。
そんな仕草をするなんて、アキくんはよっぽどあせっているのでしょう。
だってアキくんには自由に動く前足があるのです。
前足を使って鞄を指せばいいものを本物のうさぎのように鼻先で動かそうとしているのか、柚里にはよくわかりませんでした。
かわいいんですけれどね。
くすくす笑いながら鞄の中から簡易テントを出してあげるとぽんっと開いてそのなかにアキくんの服と靴を置きました。
アキくんは柚里の足元でドキドキしながら待っていました。
そして「どうぞ」と柚里がいうやいなや、早速テントの中にはいって、首輪につけてあるマグニュスの鈴を左手で勢いよく鳴らしました。
リーン♪
その音とともにテントの中から光が四方に走り、中からアキくんが出てきました。
もちろん服は着つけています。
そして昨日買ってもらったスリッポンを履いていました。
「うーんっ!気持ちええなあっ!!」
両手を上げて伸びをして、うさぎの時には使っていない筋肉をほぐしました。
そして準備体操のように身体のあちこちの腱を伸ばして「暴れたるっ!」と意気揚々です。
しばらく使っていない身体を慣らすように慎重に身体をほぐすと、柚里に振り向いてにかっと笑いました。
―――――やんちゃなアキくんの登場です。
「ほなちょっと、いってくるわ!」
そういうやいなや、どぴゅっと音が鳴るように走り去っていきました。
そんなアキくんを柚里は満足げに見ていました。
アキくんには不本意かもしれませんが、もうここまでくるとほとんどお母さんの心境です。
くるくると動き回るアキくんが視界からいなくなると、柚里は持ってきた本を開けてゆったりとした気持ちで読み始めました。
「おはようございます」
頭の上から急に声を掛けられて、読んでいた本をばさりと落としてしまいました。
見上げるとそこには猪俣さんがにっこり笑っていました。
「おはようございます。……今日はわんちゃんたちは?」
ちょうど目線の先にある猪俣さんの手には、リードが握られていませんでした。
「ああ。アキくんが怖がるといけないと思って、ほら、あそこに繋いであります」
そういって猪俣さんが指さした方向を見ると、たしかに犬たちが繋がれていました。
「ところでアキくんは?」
「えーっと。……家?」
柚里の目が泳いでいるのがわかったのか、猪俣さんは辺りをぐるっと見回して自転車に積んでいるキャリーバックをじっと見ていました。
昨日の今日でまたリードをつけずに散歩させてるって思われただろうなあ。
猪俣さんにどう思われようが関係ないと思いながらも、どうしてか残念で恥ずかしい気持ちが湧きあがってきます。
恥ずかしいというより悔しいというのが正解かもしれません。
だって嘘をつかないといけないからです。
「ふーん。キャリーバックがあるから、連れてきていると思ったんだが」
「えええっとっ!」
何とかごまかそうと言葉を探していると
「柚里ーっ!喉乾いたーっ!お茶ってある?」
遊び疲れたアキくんが帰ってきてしまいました。
驚いたのは猪俣さんです。
だってアキくんの外見はまったくもって日本人的ではないからです。
それにその外見とはミスマッチな関西弁。
思わずその男の子をじっくりと見てしまいました。
そしてその足元に昨日柚里が買ったあのスリッポンがありました。
近所の子供と遊びに来ていたのか
だが、それにしては早すぎる時間のようだが……
ちょっと腑に落ちない猪俣さんでしたが、目の前に現れた美少年を見て納得せざるを得ませんでした。
「あーっ!」
いきなりその男の子が自分を見て叫んだので訝しんで見てみれば、男の子は不躾にも指をさして後ずさりをしていました。
初めて見た男の子にそんな態度を取られて結構ショックなものがあった猪俣さんでしたが、それよりも柚里がすかさず男の子の後ろに回って男の子の口を手で押さえながら耳元で何か話しているのを見たときになんとなく嫌な気持ちになったのです。
「ご……ごめんなさいっ!こらっ!!……くん、そんな風に人を指さしちゃ駄目でしょ!猪俣さんにお詫びして?」
「あー……。ほんま、ごめんなさい」
男の子はしゅんとして、ぺこりとお辞儀をしました。なぜか一緒に柚里も頭を下げています。
「いいですよ。俺がその子の知り合いにでも似ていたんでしょうから」
「いやー、そんなわけやないんやけど」
「?」
「こらっ!アキくんっ!!」
「ああっ。……またやってもうた」
「駄目でしょ」と男の子に向いて叱っている柚里をほほえましく見てはいるものの、さきほど彼女が行った名前に何かがひっかかりました。
たしかに彼女は男の子を『アキくん』と、うさぎの名前で読んだのです。
このこの名前をうさぎにでもつけたんだろう
そう一人合点をして、それでもなにかおかしいと思ってしまう自分がどうかしていると思ってしまった猪俣さんでした。




