第二十三話
「できた」
ふうと大きく一息をついて、アキくんは白色の鉛筆を机の上に置きました。
そうして画用紙を両手に持ち、一番遠くに話した状態にしてじっくりと描きあげたフィーヨルの風景を眺めました。
そこには夢の中で教育係のマグニュスに会った時の、誰いない閑散として人の気配のない寂しげなフィーヨルではなくて、人が笑いあい活気のある素晴らしい世界が広がっていました。
「柚里。できたで」
大切な大切なフィーヨルを柚里に早く見せたいと、きょろきょろとあたりを見回してみても、柚里は見当たりません。気配を感じることができませんでした。
「……あれ?なんでおらんのや?」
せっかく出来上がったフィーヨルの風景を二人でゆっくりと楽しみたかったのに、柚里はどこにもいませんでした。
「あーっ!もしかして買い物いったんかなあ。せやけど一言くらい声かけてくれてもいいんとちゃうん」
自分が没頭していたことなど綺麗に忘れてしまって言いたい放題のアキくんでしたが、それでも絵を描き上げたことの満足感のほうが勝っていたので、柚里が早く帰ってくることだけを気にかけていました。
その時です。
目の前が急にきらきらと輝きだし、一面に真っ白い光が覆い始めました。
それはマグニュスの鈴を鳴らしたときのうさぎから人間に変わったときの光とよく似ていました。
あっという間に光の羽に包まれたアキくんは、ぱあと四散した光の後にうさぎに戻っていました。
「なんやこれっ!!」
ばさばさっ
目の前が真っ白になったかと思うと今度は何かでいきなり視界を塞がれ、手足をばたつかせてそれをどけようとしました。
もがけばもがくたびにまとわりつくそれは、さっきまで着ていた柚里の服の色をしていました。
うさぎの身体に戻ったことで、着ていた服が外れて大きな布となってアキくんにまとわりついていたのです。
ぷは。
なんとか顔を出したアキくんは、その邪魔になっていた大きな布があせっていなければさっきまで着ていた服だと思い当たったこと、そしてそれさえわかれば簡単に布がほどけてその布の海から抜け出せたことに思い当り、一人顔を真っ赤にしていました。
そして小さくなって毛が生えた自分の手足をじっくりと見て、大きくため息をついたのです。
「……前触れ、なしか。こんなに急に戻るやなんて、ひどいんとちゃうか。マグニュス」
唐突に、夢の時間が終わりました。
『この鈴を王子の左手で鳴らすと、人間になりますよ。ただしほんのひと時ですから気をつけてくださいね』
夢の中のマグニュスが言った通り、ほんのひと時のその時が終わりを告げました。
アキくんは、思いました。
こんなんやったら……こんなんやったら、辛すぎる
前触れなしでうさぎにもどる魔法であるなら、結局どこにも行けないのではないか?
子供姿の人間に戻ったとして、一体どのくらいの時間をその姿でいれるのか。
もし外にでたときにいきなり光に包まれるのなら、そしていきなりうさぎに戻ってしまうなら、魔法の種類が違うこの世界ではおかしくうつるだろう。
そうしたら俺は……俺はいったいどないなってまうんやろう
そう思うと、いくらマグニュスがくれた鈴で人間の姿になれるからといっておいそれとはその魔法を使うことができません。
結局、その魔法の鈴は、心を苦しめるだけのものにしか成りえないのです。
一瞬だけの喜びなんて、虚しすぎます。
ぼたっ
画用紙に大きなしみができました。
それはうさぎのアキくんが流した、一粒の大きな涙でした。
**********
「ただいま~。アキくん、描けた?」
重そうに沢山の荷物をもった柚里が、ドアを開けるのももどかしく部屋に入ってきました。
ところがそこに、綺麗な金髪のアキくんの姿が見えません。
買い物に出るときは床の上に画用紙を広げて一生懸命何かを描いていたはずなのに。
「あれ?アキく~ん。かくれんぼでもしてるの?」
いくらリビングを見回してみても、アキくんの姿は見えませんでした。
柚里はテーブルの上に荷物をどさっと置いて、あちこちを探し回りました。といっても一人暮らしの家ですから、さほど広いわけでもなんでもなく。
簡単に終わった一周りでも、アキくんの姿はありません。
けれど、床の上にとても美しい風景がが描かれた画用紙が一枚、落ちてありました。
その画用紙には一か所だけふやけたところがありました。
アキくんの涙の跡です。
そのことに気がついた柚里は、アキくんにフィーヨルの風景を描いてもらったことを後悔しました。
きっと風景を思い出しているうちに、フィーヨルが恋しくなったに違いないからです。
わたしって、ぜんぜんアキくんのこと、わかってないんだ……
アキくんの住んでいた国がどんなところか知りたくて、ついつい絵を描いてもらったけれど、それはアキくんにとっては残酷なことだったかもしれない。
いつ帰れるかわからない故郷の絵を描いてもらうなんて、本当になんて馬鹿なんだろう。
画用紙に描かれている絵は丸みを帯びた線と優しい色で重ねられていて、どれだけアキくんが自分の故郷を愛しているのかさまざまとわかるものでした。
ごめんね、アキくん
「柚里」
その声は、まるで儚くかすれるような声でした。
アキくんです。
柚里はびっくりしてその声が聞こえた後ろ側に振り向いたのですが、肝心のアキくんがどこにもいません。
「アキ……くん?」
「柚里。下におるよ」
さらに驚いて足元を見てみると、なんとそこにはうさぎに戻っているアキくんがちょこんと座っていました。
うるうると、大きな瞳を潤ませながら。
「あ……アキくん!うさぎに戻ったの?」
「うーん。時間切れ、やと思う。マグニュスは戻り方なんて教えてくれへんかったし。人間に戻れるんはほんのひとときやてゆうてたし……ね」
「あー……。そっかぁ。こんなに短い時間しか人に戻れなかったんだね。それなのにわたしったらアキくんに頼みごとなんてしちゃて、大切な時間をちゃんと使えなかったよね。……ごめんね」
しゃがみ込んでうさぎのアキくんを抱き上げると、そっと背中を撫でました。
アキくんはふるふると首を振って、顔を柚里のほうに向けて言いました。
「絵を描くんは、楽しかったで!久しぶりに燃えたわ。色鉛筆って便利でええなあ。フィーヨル戻る時は絶対欲しいアイテムやね!」
にっこり笑いながらそう報告してくるアキくんは、柚里が思っているように故郷を思って悲しんでいるようには見えませんでした。
自分の間違いにほっとした柚里はそのままアキくんを顔の高さまで抱き上げ、ちゅっとアキくんのほっぺたに軽いキスをしました。
ぼんっ
頭からまるで湯気が一気にでてくるように顔を真っ赤にしたアキくんは、いきなりの展開に驚いて逃げようと足をばたつかせましたが、柚里の手に抱かれてそれがかないません。
柚里は柚里で、そんなアキくんが可愛くて仕方がなかったのでもう一度ちゅっと羽が生えたような軽いキスをしました。
ぼふんっ
ニ度の不意打ちのキスに、アキくんは柚里に抱かれながら身体の力が抜けてしまいました。
ただでさえ間近で柚里を見てるのです。恥ずかしいことこの上ありませんでした。
柚里って……柚里って、もしかしてわざとやってるんか?
柚里の……柚里の、いけずーっっ!!
心の中で絶叫したアキくんなのでした。