「お姉ちゃんなんだから」と譲り続けた私が、妹の結婚式のスピーチで全部話すことにしました
「お姉ちゃんなんだから」
うちで一番よく聞いた言葉は、たぶんこれだ。
うちは駅前の小さなケーキ屋で、母が焼いて、父が配達をして、私は七つのころから店番をしていた。
妹の花は、私より四つ下。
「お姉ちゃんなんだから」は、だいたい花のために使われた。
◇
「美咲、お願いがあるの」
花から電話が来たのは、六月の夜だった。来月、花は結婚する。
「結婚式のスピーチ、お姉ちゃんにしてほしい」
「え、私? 叔母さんに頼むって、お母さん言ってたけど」
「お母さんじゃなくて、私が頼んでるの」
花の声は妙に硬かった。
「それでね。綺麗な話じゃなくていいから。ちゃんと、お姉ちゃんの話をして」
「私の話? あんたの結婚式なのに」
「お姉ちゃんの話がいいの。お願い」
電話はそれで切れた。
私は店の二階の自分の部屋で、しばらく天井を見ていた。
自分の部屋、と言っても、六畳の和室だ。
花の部屋は、隣の八畳の洋室だった。
◇
最初の下書きは、ひどかった。
『新婦の姉の美咲です。花は小さいころから、何でも持っていく子でした』
そこまで書いて、消した。
二枚目。
『花とは四つ違いです。私は「お姉ちゃんなんだから」と言われて育ちました』
そこで手が止まって、気づいたら便箋の裏に箇条書きを始めていた。
お姉ちゃんなんだから、で譲ったもの。それから、諦めたもの。
・ショートケーキの、最後の苺(九歳)
・車の窓際の席(毎回)
・八畳の部屋(十二歳)
・修学旅行のおこづかいの半分(十四歳)
・東京の製菓学校(十八歳)
最後の一行だけ、ペンが紙に食い込んでいた。
花が十四のとき、心臓の手術をした。成功はしたけれど、退院してからも一年は無理ができなかった。店は母一人では回らない。父は配達で手一杯。
「美咲、お姉ちゃんなんだから」
母は泣きながらそう言った。母が泣くのを見たのは、あれが初めてだった。
私は合格通知を机の引き出しにしまって、そのまま店に立った。
十四年、立ち続けている。
◇
「スピーチ、進んでる?」
翌週、厨房で生クリームを泡立てながら、母が聞いた。
「まあ」
「ちゃんとしたこと言ってよ。親戚もいっぱい来るんだから」
母は泡立て器を止めずに言った。
「お姉ちゃんなんだから」
ボウルの中で、生クリームの角がぴんと立った。
「……分かった」
私は返事をして、ショーケースの前に戻った。
ちゃんとしたことを言おう、と思った。
本当のことを、ちゃんと。
◇
式場は、海の見える小さなレストランだった。
ウェディングケーキは母が焼いた。三段の、苺のショートケーキだ。うちの看板の。
花は白いドレスで、隣の新郎の健太さんは緊張で汗をかいていた。気のいい人だ。配達のトラックを洗うのを手伝ってくれたことがある。
「続きまして、新婦のお姉様、美咲様よりご挨拶をいただきます」
マイクの前に立つと、六十人ぶんの顔がこちらを向いた。
母は親族席で、背筋を伸ばして座っていた。父はもう目が赤い。
花だけが、まっすぐ私を見ていた。
私は便箋を開いた。
「新婦の姉の、美咲です」
声が少し震えた。
「花とは四つ違いです。我が家では、『お姉ちゃんなんだから』という言葉が、とてもよく使われました」
会場が少し笑った。たいていの家にある話だと思ったのだろう。
「今日はせっかくなので、お姉ちゃんなんだから、で花に譲ったものを、発表したいと思います」
笑いが、少し減った。
母の背中が、さらにまっすぐになったのが見えた。
「九歳のとき、ショートケーキの最後の苺」
「毎回、車の窓際の席」
「十二歳のとき、八畳の部屋」
「十四歳のとき、修学旅行のおこづかいの半分」
会場はもう、笑っていなかった。司会の女性が、どうしたものかという顔でこちらを見ていた。
最後の一行を読む前に、息を吸った。
「それから、これは譲ったのではありません。十八歳のとき、東京の製菓学校の合格通知。こっちは、諦めました」
しんとした。
厨房の奥で、グラスが一つ鳴った。
母は、膝の上で両手を握りしめていた。
私は便箋から顔を上げた。
ここまでは、書いてきた。ここから先は、書いていない。
「……全部、私が自分で手放したものです。誰かに取られたものじゃありません」
それは本当だった。言いながら、本当だと分かった。
「譲るのは、悔しかったです。でも、花が持っていくのを見るのは、嫌じゃありませんでした」
花の目が、少し揺れた。
「だから今日で、お姉ちゃんを辞めます」
会場が、ざわっとした。
私は新郎のほうを向いた。
「健太さん。これから花に何かを譲るのは、あなたの役目です。窓際の席も、最後の苺も。たぶん、けっこう取られます」
健太さんが、真っ赤な顔で深くうなずいた。何人かが、ほっとしたように笑った。
「それから」
私は親族席を見た。
「お母さん。私、来年の春から、東京の製菓学校の夜間部に通います。もう願書を出しました」
母が、顔を上げた。
「相談じゃなくて、報告です。お姉ちゃんじゃない私の、最初の報告です」
便箋を閉じた。
「花、結婚おめでとう。以上です」
拍手は、ばらばらだった。
それでいい、と思った。
◇
ケーキ入刀のあとは、ファーストバイトだった。
新郎新婦が互いにケーキを食べさせ合う、あれだ。司会が「新郎から新婦へ、大きなひと口を!」と盛り上げる。
健太さんがスプーンを持った。
そのスプーンを、花が手で止めた。
「ごめんね、健太。最初のひと口は、ほかの人にあげたいの」
花はケーキの一番上から、苺を一つ、指でつまんだ。
それを持って、ドレスの裾を引きずりながら、まっすぐ私の席まで歩いてきた。
「お姉ちゃん」
花は私の前にしゃがんだ。
「九歳と五歳のとき。私、泣いたでしょ」
覚えている。最後の苺が自分の皿に来たのに、花は火がついたように泣いた。苺が小さかったから泣いたのだと、母も私も思っていた。
「あれね、半分こって言いたかったの。お姉ちゃんの顔、見ちゃったから」
花の指先の苺は、少し震えていた。
「でもお母さんに、花ちゃんは小さいんだからって言われて、言えなかった。それからずっと、言えなかった。窓際も、部屋も」
花は、ほんの少しだけ笑った。
「東京も」
「……花」
「手術のあと、私、夜中に引き出しの合格通知、見つけちゃったの。お姉ちゃん、捨ててなかったでしょ」
捨てられなかった。それだけだ。
「私が言いたかったこと、お姉ちゃんが全部言っちゃった。ずるいよ。だから、これだけは私にやらせて」
花は苺を差し出した。
「二十三年分。遅くなってごめん」
会場じゅうが、静かに見ていた。
私は苺を受け取った。
指でつまんだまま、しばらく食べられなかった。
「……半分こ、する?」
「しない。全部お姉ちゃんの」
母のケーキの苺は、甘くて、少し酸っぱかった。昔から、そういう苺を選ぶ人だ。
健太さんが後ろで、空のスプーンを持ったまま、照れくさそうに立っていた。
◇
母と話したのは、式が終わって、店に戻ってからだった。
厨房の明かりだけをつけて、母は三段ケーキの残りを箱に詰めていた。
「美咲」
「うん」
「……私もね、言われてたのよ。お姉ちゃんなんだから、って」
母は箱から顔を上げなかった。
「三人姉妹の一番上でね。言われて育って、嫌だったのに、気がついたら同じことを言ってた。口が勝手に覚えてるの」
知らなかった。
叔母さんたちが母を「お姉ちゃん」と呼んでいるのは、ただの呼び名だと思っていた。
「東京のこと」
母の手が止まった。
「あれは、言っちゃいけなかった。分かってて、言った。あなたしか、いなかったから」
母は、泣かなかった。泣かないように、口を固く結んでいた。
「ごめんね。あなたにも、お姉ちゃんじゃない名前があったのにね」
厨房の時計の音が、やけに大きかった。
私は何か言おうとして、うまく言えなくて、かわりに冷蔵庫を開けた。
ショートケーキが一つ、残っていた。明日の店に出す分だ。
それを皿に移して、フォークを二本出した。
「お母さん。苺、どっちが食べる?」
母は、私の顔を見た。
それから少し考えて、言った。
「……美咲が決めて」
生まれて初めて聞く言葉だった。
私は苺を、フォークで二つに切った。
大きいほうを、自分の口に入れた。
「ずるい」
と母が言って、笑った。
小さいほうは、母の口に入った。
◇
来年の春から、私は東京で一人暮らしをする。昼は向こうのケーキ屋で働いて、夜は学校だ。
店番は、アルバイトを一人雇うことになった。母が自分で面接をして、自分で決めた。
「配達、土日は僕が手伝いますよ」
健太さんはそう言って、今では父のトラックを洗っている。
花は相変わらず、窓際の席に座る。
でも最近は、乗るときに必ず聞くようになった。
「お姉ちゃん、どっちがいい?」
私はたいてい、窓際を選ぶ。
◇
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