月食
三題噺もどき―ななひゃくさんじゅうはち。
玄関を出て、鍵を閉める。
靴のつま先を地面で叩き、整える。少し前に新しく買った靴なので、まだ履き慣れていないのだ。若干紐が緩い気もするが、まぁ、今日は良いか。
「……」
昼食を終え、さて散歩にでも行こうかと、いつも通りこうして出てはきたのだが。
正直言うと、今日は起き抜けからあまり調子が良くない。
地味に続く暑さのせいで疲れているのだろうかとも思ったが、そういうわけでもなく。
「……」
まぁ先週末あたりから、やけに疲れていたり、眠気に襲われていたり、若干の不調が続いてはいたが。昨日も仕事自体に支障はなかったが、少々進みは悪かった。
今日はそれがいつもにもまして酷いと言うか……しかし今日は動けないわけでもないのだ。むしろ元気というか体力は余っている感じがある。
それもあって、変な調子だ。
「……」
小さく風が吹く。
申し訳程度の涼しさは感じられるものの、また少し暑い日々が続いている。
この暑さの中で浴衣を着てあの人混みの中にいた夏祭りが、どれだけ恐ろしいものかという感じだ……。よくあの中で熱いものを食べようと思える。
「……、」
ふと思い出した夏の記憶はすぐに薄れ、意識は小さな別の違和感に向かう。
今日は、やけに明るい。まだ早い時間だっただろうかと勘違いしかねないほどに。
見上げた空は晴れ、雲はうっすらと所々にあるだけ。
けれど、見えるはずの星は、月の明るさに負けてあまり見えない。
「……」
月の回りは、虹彩のようなものが広がっている。
まるでおとぎ話に出てくる、月の姫のお迎えシーンのようだ。
それくらい、どこか神々しさがあり、異常さがある。
滲む月の光は、太陽と見紛う程に眩しいとすら思う。
「……」
明日で満月を迎えるはずの月は。
よく見れば端の方が明らかに欠けていた。
丸の端に、小さな丸を重ねたような、微妙な欠け。
「……」
見間違いかとも思ったが。
そうではないようだ。
その証拠に……と言っていいかどうかは分からないが、やけに空気が騒がしい。
この辺りにいる人間も含めたその他の人間以外のモノがざわざわとしている。
「―ご主人」
「ん、」
鍵の開いた音がしたと思えば、押し開かれた玄関から顔が見えた。
裸足のまま、玄関の扉を支えながら、こちらへと声を掛けてきたのは、小柄な青年だ。
昼食の片づけをしていたままで来たのか、エプロンをつけている。まだ今の時期には早いような気もする小さな椿の刺繍が入ったものだった。
「今日は、やめた方がいいかもしれないです」
「あぁ、そうかもな」
騒がしいし、調子のいいような悪いような感覚がさらに増している。
よく見ればコイツも本調子ではなさそうだ。
いつもは綺麗に結ばれているはずのエプロンの紐が、いびつだ。
「……今日は何の日だったか」
「……月食があるらしいですよ」
「あぁ……なるほど」
そういうことか。
夜を守る月を、太陽が食わんとする。そんな日。
美しく黄金に輝く月が、赤く染まる日。
そういえばそろそろそんな時期だった……私としたことが失念してしまっていた。
「……お前は平気か」
「まぁ……お皿は割れましたけど」
その程度ならどうとでもなるか。
残念。今日は大人しく家に引きこもるしかないのか。
あまり物も下手に触るのはやめた方がいいかもな。
「―あ」
「……ん?」
大人しく室内にもどり、上がり框に座り。
靴ひもをほどこうとした。
「……あ」
軽く引っ張っただけなのに千切れると思わないだろ普通。
新しく買ったばかりなのに。
「……料理も出来ない」
「まぁ、一日抜くくらいなんてことはないだろう」
「……そうですけれど」
「私も仕事は出来ないからな……」
「月食が終わったら大丈夫でしたっけ」
「……どうだったか」
「……料理」
お題:椿・滲む・浴衣
※蝙蝠くんは料理が出来ないとストレスになります※