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10日間で消える恋

作者: 佐和多 奏

第一章

おれは、すごく感傷的だと思う。

「ほら! 起きなさい!!」

 普通の風景。普通の人の、普通の風景である。でも、おれは、この言葉にも、一つ一つ、傷ついてしまう。

「わかった、わかったよ・・・・・・」

 少し、胸が苦しい。

 おれは、ベッドから起き上がり、パジャマを脱いで、制服に裾を通した。

「はい、朝ごはんできてるから。」

 怒られて傷ついても、こうしてご飯を作ってくれる親がいることには、感謝をしなければならないとも思う。それでもおれは、卵一つ食べるにしても、ベーコン一つ食べるにしても、かわいそう、とか、普通の人なら考えないような細かいことまで考えて、すぐに傷ついてしまうから。

「おっす! 司!」

 同じ部活の翔太が、肩を組んできた。

「お前、ちょっと太ったか?」

 そう言いながら、地下の少し茶髪の翔太は、にひりと笑う。

 お前、ちょっと太ったか?その言葉が、頭を反芻する。

「ちょっと、太ったかなぁ」

「冗談だよ」

 また、ハハハと翔太は笑う。

 一つ一つのことに対して、過剰に傷ついてしまう。

 これは、おれが持っている病気、うつ病が原因なのだということは、この学校の誰にも知らせたことはない。そもそもおれが心の中でいちいち傷ついているなんてこと自体、誰も知る由もないのだろうけれど。

 ホームルーム、一限、二限。何気ない日常でも、一つ一つの誰かの行動が気になって仕方がなかったりとか、あと、授業中に不意に死にたくなったりするこの感情は、どうにかならないのかと、毎日模索する日々なんだけど。

「ただいま〜」

 学校から帰ると、ちゃんと夕ご飯が用意されている。これも、おれにとってはとても嬉しいことなんだけど。テレビを付けるとニュースがやっていて、そこで報道されていることに一回一回心を動かされてしまうから、うつ病っていうのは、とても忙しい病気なのだ。

 感傷的であること。

 それは、メリットでもあるとおれは思っている。

 ドラマやアニメを見ても、趣味をしてもあまり楽しめないことがうつ病の症状として知られているが、自分が本当に好きなことに対しては、少しだけ、ほんの少しだけ楽しめる自分がいる。これは、自分が何が好きなのかという個性を知ることができるメリットなのだろうと思う。

 ご飯を食べ終えたら、次はお風呂に入らなければならないのだが、いかんせんこのお風呂というのがうつ病の最大の宿敵である。なぜなら、まず、服を脱ぎ、そしてお風呂に入り、その中で頭を洗い、体を洗い、そして終わったら体を拭き、ドライヤーで髪を乾かさなければならない。一つ一つの工程が多いだけで、とても億劫に感じてしまう自分がいる。

 自分が入っている部活は剣道部なんだけど、それでも顧問の先生は初心者で、別に部活も厳しいわけではないから、短い時は10分とかで終わったりする。

 でも、小手の匂いがなかなか取れないので、時々家族と喧嘩になったりする。自分のことが臭いと言われてしまう。そういう言葉はおれを簡単に傷つけるから、おれはお風呂で手のひらを入念に洗うことを意識している。

 お風呂からなんとか上がったら、今度はSNSをチェックするわけなんだけど、誰かが幸せそうにしていたりするのを見ると、何もできないような自分と比べてしまい、とても気分が落ち込んでしまう。そういう時は精神安定剤を飲んで心を落ち着かせて、そのあとに抗うつ剤と精神安定剤を飲む。

 飲んだからと言ってすぐに眠れるわけではないから、宿題をそこから始めるわけなんだけど、うちの高校は結構進学校だったりして、宿題が多い。

 だから、不眠の自分にとっては逆説的に好都合で、それでも自分は勉強がそこまで好きではないから、宿題をやり終えたらすぐにバタンと布団に帰る。

 それで、また朝怒られながら起こされる。その繰り返しだ。

 朝、電車に乗っている時は少し怖い。この中でどうしようもなく死にたくなってしまったらどうしようとか、そういう不安に襲われてしまうのだけれど、たいていそういう感情も降りる時には忘れているから、まあ気にしないことが一番なんだけど、気にしてしまう病気なわけで、なかなかに付き合い難いところがある。

 今日も、ホームルームに始まり、何気ない一日を過ごすことになる。

 おれは、どちらかというと数学が得意で、なんでかっていうと、勉強はあんまり好きではないけれど、数学だけは割と興味が持てる。答えへの道筋がたくさんあるのにも関わらず答えが一つしかないところとか、証明し出すと奥深いところとか。その延長線上にあるのがプログラミングであるともいうべきか、おれは、大学は情報系を目指していて、プログラミング言語も一応扱える。

 そんなおれにも、気になる女子というのがいるんだけど。

 気になるといっても、恋愛感情があるっていうよりは、その存在自体が気になるというか、わからないけど、自分の中ではなんで平気でいられるのかわからない存在、といったらちょうどよく聞こえるのかな。そんな存在の女子。おれの隣の席の女子、ソニア。おれは窓から二列目の後ろから二番目の席に座っていて、ソニアは、おれの隣、つまり窓側に座っている。窓からは、綺麗な海が見える。おれは、授業中にどうしようもなくつらくなったときとか、うつ感情が激しくなった時には、海を見て気分を晴らす。その時に何気なく視界に映るのがソニアなんだけど、ソニアは結構寝ていることが多い。現に今も寝ている。そして、先生がソニアの方に向かっていく。

「・・・・・・ソニア。ソニア!」

 ソニアの目がゆっくりと開いていく。

 そして、先生の方をふっと見た。

「お前、また授業中に寝てんのか? おいおい、しっかりしろよ。お前前回赤点だっただろ」

「すみません」

「本当にすみませんって思っているのか!!」

 黒谷はソニアの机をバンと叩いた。

 怖っ。

 おれは、誰かが怒られているのを見ると、自分が怒られてしまったことと心の中で照らし合わされているからなのか、フラッシュバックしているのか知らないけど、自分が怒られているかのように思えてしまって、ドキッとして、ブルブルと震えてしまう。

「思ってます」

「思ってないから言ってるんだよ!!」

「思っています」

 ソニアは表情を全然変えない。

 黒谷先生は頭をポリポリとかいた。

「もういい。お前は一生寝てろ」

「わかりました」

 そういうと、ソニアはまた、眠りについた。

 チャイムが鳴った。

 こんなところがいつも、おれにとっては不思議で仕方がないのだ。

 おれだったら、胸がギューってなって、どもったりとか、声も出ないようになってしまったりするようなあんな場面で、平然と、「思っています」とか、「わかりました」とか、なんで、そんなことを言えるのか。それが、不思議で仕方がないのだ。いや、普通の人はそれができるのだろうか。他の人の心になったことがないからこればっかりはわからなかったりするんだけれど、それでもソニアの気にしなさって言ったら、憧れって言ったら過言になるだろうか。おれは、ソニアにこのことを質問したことがなかったんだけど、やっぱり気になってしまったから、だから、こう、ソニアにおれは告げた。

「ソニア、あんまり感情を見せないよな」

 ソニアはおれの方を向き、眉ひとつ動かさず、こう答えた。

「そうかな」

 ソニアは首をコテンと斜めに向けた。

「うん。さっきの時間も、先生に怒られても全く気にしてなかったし」

「気にしてなかったら、感情がないっていうことの答えになるの?」

 おれは、たまたま持っていたペンを指で回した。ちょっと怒らせてしまったのかな。

「別に、そういうことではないけど」

「でしょ。私には、ちゃんと、感情が・・・・・・」

 ソニアの目からは。

 涙が、流れた。

 ソニアの目から流れる涙は、太陽の光に反射をして、とても輝いた。

 初めて見た。

 ソニアが、感情を見せた姿。

 いつも冷静沈着で、何があっても気にしない、そんなソニアが、泣いている。いま、何かが原因で、泣いている。数人が、こっちを向いている。おれが泣かせた、みたいな雰囲気になっている。

「ソニア、なんで泣いて・・・・・・」

「・・・・・・わからない。でも、なぜか、涙が出てきた」

 そういうと、すぐに涙が止まった。

 ソニアにとって、さっきの涙はなんだったんだろうか。

 やっぱり、先生に怒られたことが悲しくて、涙が出たのだろうか。

 ソニアの奥の海がキラキラと輝く。

「ねえ、司」

「なに?」

「涙って、なんで流れるの?」

 涙って、なんで流れるの。

 素朴な疑問、で合っているのか。

 知ってて当然だって思っているおれの方がおかしいのかな。

「それは、悲しいとか、苦しいとか思うから」

「悲しいとか、苦しいとか?」

「うん。あと、嬉しい時も。涙を流す人、いるよ」

「そっか。じゃあ、私は今、嬉しくて、涙を流しているのかな」

 ソニアは、そう真顔で話す。

「ソニアって、本当はすごいポジティブだよね」

「そうなのかな」

「そうだよ。怒られても動じないし、みんなに何されても、全く動じないし。だって、ほら。」

 そう、おれが、ずっと不思議に思っていたこと。

 

 ソニアの机には、たくさんの悪口が書かれているのだ。

 

 ソニアは、感情を他人に見せない。

 そして、先生に怒られて。

 だからなのだろうか。

 一部のクラスメイトの、暴力的欲求の的になっているのだ。

 だからと言って、おれが何かできるわけでもなかった。

 それでもソニアは、今までとても平然としてきたのだった。

 それがおれにとっては不思議でしょうがなかった。

 ソニアの悲しみは、考えられないほどに大きいものなはずなのに。

 インクがソニアの涙で滲む。

 おれは、ソニアに率直に話してみた。

「普通だったら、これを見た時、胸が苦しくなったり、つらくなったりすると思うんだよね」

「苦しい、つらい……」

「おれなんて、ソニアのことを助けようと思ったくらいだし」

「助けるって、何から助けるの?」

「それは・・・・・・」

 司は、ソニアの奥の海に目を向けた。

「なんでもない」

「なんでもない何かから、私を助けようとしたの?」

「は、はあ? バカにしてんの?」

「してないけど」

「してないなら、いいんだけど」

「そっか」

 休み時間の終了を告げるチャイムが鳴り響く。

 数学の問題を解きながら思う。

 ソニアは、本当に受け流すのが得意だなあと。

それでも、少しだけ引っかかる。あの、なんで涙が流れるのっていう言葉。まるで、生まれて初めて涙を流したかのような言葉。もちろん人間は泣いて生まれてくるらしいから、生まれて初めてではないとは思うんだけど。

「はい、この問題どこの問題、それからこの問題、ソニア、お前解け。赤点だったからな」

 周りが、また集中狙いされてるよ、という目線でソニアを見る。

 おれだったら、と考えると、身の毛がゾゾゾっとよだつくらいの集中狙い。

「わかりました」

 いつもの単調な声でソニアは答える。

 ソニアは前に出て、黒板に淡々と式と答えを書いていく。

 そして。

「全部違う! ちゃんと復習をしろと言っただろ!!」

「ちゃんと余弦定理は使いました」

「余弦定理を使えって言ってるんじゃない」

「じゃあなんて言ってるんですか」

「余弦定理を使って、正解をしろと言ってるんだ!」

「それができないから赤点をとったんじゃないですか。頭悪いんですか、あなた。」

 赤点をとったにも関わらず、相手の方が頭が悪いと錯覚してしまうほどに、ソニアは先生の言動に全く左右されない。憧れ、は過言だったかもしれない。それでも確かに、羨ましい、という感情はおれの中に存在すると思う。そしてソニアはそこまで数学が得意ではないみたいだ。進学校あるあるなのかもしれないけど、赤点の人数が多いのが数学。でも、今回は割と簡単だった気がするんだけど、ってことはソニアは数学が苦手みたいだ。

「頭が悪いのは赤点をとったお前の方だ。謝れ」

 先生はソニアを指差す。

「すみませんでした」

 素直すぎる。

 アンガーマネジメントが聞いて呆れる。

 完全に先生のストレス緩衝材になっているのか、それとも、先生のストレス製造機になっているのか。どちらも成しているような、そんな回答だった。

 ソニアはぺこりと頭を下げる。

 その目線の先には膨大な量の悪口がある。


 次の休み時間。

「・・・・・・ソニア」

「何?」

 おれは、もう率直に問いかけた。

「お前、傷つかないのか?」

「傷つく? なんで?」

「だって・・・・・・」

 ソニアの無垢な目とツインテールを見ると、本当に自分の思っていることを素直に言ってしまう。

「お前、つらい思いをしている気がするから」

 ソニアは、真顔で前を向きながら、涙を流した。

「ねえ、司。確か涙って、つらい時に出るんだよね」

「そういう時もあるよ」

「じゃあ、私は今、つらいのかな」

「つらいんじゃないかな」

「司」

 ソニアは、おれの方を向いた。

「つらいって感情を、教えてくれて、ありがとう」

「・・・・・・どういうこと?」

「私には、感情が、ないの」


















第二章

 潮風が吹いた。

 靡くソニアの髪は、新たな感情を吹き込んでいくような気がした。

「感情が、ない?」

「うん。私、感情がないの」

 感情が、ない?そんなこと、あり得るのか?

「信じてないの?」

「・・・・・・正直、信じることができない。だって、感情がないなんて・・・・・・」

「そっか。それならそれでもいい」

「で、でも、個性は人それぞれで・・・・・・」

 ソニアは立ち上がり、雑巾を絞った。

 そして、机の上の悪口を全て消した。

 雑巾をしまうと、海を眺めた。

 海は、今日も理不尽なほどに綺麗で。

 ソニアの悪口なんて、誰も気にしていないような感じで。

 でも。

 おれのうつ病も、今日も変わらずで。

 おれは、ソニアに、「手伝うよ」と言おうとしたんだけど、なんでだろうか、言えなかった。

 でも。

 悪口が消えたからだろうか。

 なんとなく。

 ソニアに。

 笑顔が戻った気がする。

 不条理にも、次の授業のチャイムが鳴った。

 ソニアには感情がない。

 どういうことなのだろうか。

 おれは、感情、の定義を、いつも授業中に開いている電子辞書で調べてみた。

・外界の刺激の感覚や観念によって引き起こされる、ある対象に対する態度や価値づけ。快・不快、好き・嫌い、恐怖、怒りなど。

 それは、おれがいつも感じていることだった。

 なぜなら、おれは、感傷的だから。

 感情的、という言葉の方が、正しいのだろうか。

 いつも、感情を露わにしてしまう、そんな性格。

 じゃあ、さっき。

 助けようと思ったのに。

 なんで。

 手が。

 止まったんだろう。

『お前は、努力をしてこなかった。だから、ここにいる』

 記憶が少しだけ蘇る。

 おれが、1学期のテストで赤点をとった時に指導をくらった時だ。

 もともと、気にしすぎなところはあったのだと思う。

 そこで、熱い指導を食らったわけで、その後に病院にかかったら、うつ病だなんていう診断結果をもらった。

 正直、そこまで驚かなかった。

 だってあの時は、なんとなく、何にもやる気が起きなかったし、不安だったし。

 今も、将来に対する不安的なものは拭えないけど、でも、あの時は結構ひどかった。

 今は、割と勉強が得意になって、なんとかなってるけど。

 ソニアは、今、その先生たちの餌食になっているわけで。

 なんとなく、先生たちに嫌われたら、他の生徒たちも関わったら自分も先生たちに嫌われるんじゃないかとか、少し、クラスで浮いてしまうようなこともあったりする。だから、ソニアに近づく人は、結構少ない。

 でも。

 ソニアは、別に悪いことをしているわけではないと思う。

 勉強って、したらした分だけ必ずできるようになるわけではないし、現にソニアは提出物だってちゃんと出している。まあ、授業中は寝ていることが多いけど、他の人だって寝ている。

 だから、勉強の良し悪しだけで人を怒ったりすることは少し間違っているとおれは思っている。

 社会に出れば結果が全てだから、と大人たちは言うけれど、じゃあ、社会人は全員結果を残しているのかと言われると別にそうではないと思うし、それなのにこの世界の大半は社会に出れているわけで、所詮社会なんてそんなところなんだと思う。

 だから、別におれにやりたいことなんてないし、とは言ってもプログラミングはやっぱり好きで、それ系の職種に就こうとは思っている。それは、やりたいことがあるっていう認識でいいのかな。わからないけれど、冬になるにつれてだんだん勉強が難しくなっていく。

 情報系の大学は、結構勉強が難しいっていうのは聞く。おれも、プログラミングはできるけど、完璧に出来るわけではないし、数学も好きだけど、完璧に出来るかって聞かれたら、そうでもない。

 じゃあだから趣味に没頭すればうつ病が治るのかって言われたらそんな簡単な話でもなくって、なかなか、治らないのが現実。

 休み時間。

「なあ、ソニア」

「なに」

「ソニアって、本当に感情がないの?」

「うん、感情が、ないよ」

「そうなんだ。じゃあ。つらい思いとかも、せずに済むってことなの?」

「うん。でもね、さっき、少しだけ、嫌な気分になった。これは、初めて」

「そうなんだ」

 ソニアは、こちらを向いた。

「多分、司が教えてくれたんだよ。私に、つらいっていう気持ちを」

「おれが・・・・・・」

「あの時、声をかけてくれたから。そうしたら、なんか、私、現実味を帯びたように、嫌な気分になって。あ、でもね。いい気分にもなったりした。これも、初めて。司が、教えてくれたんだと思う」

「・・・・・・どういうこと?」

「私には、感情がない。でも、多分だけど、司だけは、私に感情をもたらすことができる」

 おれだけは、ソニアに、感情をもたらすことができる・・・・・・。

 ソニアの目が、太陽に反射してきらりと光った。

 そして、ニコッと笑った。

「ねえ、司。私に、たくさんの感情を、教えてほしいな」

「でも、おれが教えられる感情って、そんなにいいものではないよ」

「・・・・・・なんで?」

「それは・・・・・・」

 まだ、学校の誰にも言っていない。

 おれが、うつ病だっていうこと。

 なんでだろう。

 言いづらいっていうか。

 気を遣わせるっていうか。

 逆に、なにかいじめられるのではないかとか、そういう不安もあったりとか。

 嫌われちゃうんじゃないかとか。

 病んでるやつと友達やりたくないって思われちゃうんじゃないかとか。

 そんなことを思っているから。

 誰にも、言い出せずにいる。

「いいよ。私は、悪い感情も、いい感情も、含めて、たくさんの感情を知りたいから」

 チャイムが鳴った。

 次の授業が始まる。

 おれは、ソニアの笑顔に少しときめいた、その情景が脳裏から離れない。

 ソニアを気になっていたっていうのは、本当に、恋愛感情としての気になっていたっていうことなのかな。

 それは、わからないけれど。

 でも。

 おれは、手伝わなかった。

 机の上の悪口を消すという行為を、手伝わなかった。

 というか。

 手伝えなかった。

 なんでかわからない。

 手が、出なかったのだ。

 体が、動かなかったのだ。

 でも、ソニアは、おれに、たくさんの感情を教えて欲しいって言ってくれた。

 この、冬の寒い時期に。

 たくさんの感情を。

 教えて欲しいって、言ってくれた。

 おれに、何ができるんだろうか。

 何か、できることはあるのだろうか。

 授業が始まった。

「じゃあ、この問題をソニア。この問題も、ソニア。お前、前回赤点だったからな」

「わかりました」

 ソニアは、淡々と答えを書いていく。

「全問正解。今回は赤点取らないってことか? あ?」

 理不尽だ。

 正解したのに、間違えた時のように怒られるなんて。

 おれだったら、おれだったら、って、毎回考える。

 その考え自体が、間違っているのかな。

 だって、当事者はおれじゃないし。

 この考えは、他の人が精神病んでるのを見てそれを他人事だって思うようなそんな考え方だからそれも間違いなのかな。

 そう思ったけど、結局ソニアの返事は。もう、わかりきっている。

「そうです」

 なんで、こんなに冷静でいられるんだろうか。

「そうか。じゃあ、次の問題もやってもらおうか」

「わかりました」

 クラスがざわざわとする。

 ソニアはすらっと正解をする。

「はい、正解。そうして行われた壬申の乱は・・・・・・」

 授業が進行をし始めた。

 ソニアは電池が切れたように眠り始めた。


 かっこいい・・・・・・。

 朝の、起きなさーい!からビビってるおれとは大違い。

 ソニアにとって、怒られなんてなんでもないんだろうな。

 うつ病の気持ちは、うつ病の人にしかわからない。

 おれは、そう感じながら、他の人との違和感をずっと覚えてきた。

 でも、それ以前に。

 他人の気持ちは、わからない。

 その人の気持ちは、その人になってみないとわからないのだ、とおれは思い知らされた。

 

 チャイムが鳴った。

「ねえ、司。感情って、何?」

「感情、か・・・・・・。感情って、なんなんだろうな」

 おれは、突然の質問に戸惑った。涙がどうして出るのかといい、感情とは何なのかを聞いてくる行為といい、ソニアは何も知らないのだろうか。いやでも、さっきの授業であっさり正解していたし、そんなことはないんじゃないかとも思えたりするが・・・・・・。

 そんなことを思っていると。

 ソニアは、辞書で感情の意味を調べ始めた。

「外界の刺激の感覚や観念によって引き起こされる、ある対象に対する態度や価値づけ。快・不快、好き・嫌い、恐怖、怒りなど。・・・・・・だってさ。司、私のこと、好き?」

「え、え!?いきなり聞かれても・・・・・・」

 い、いきなり何を聞くん?

 すごいな、末恐ろしい、末恐ろしいわ、ソニア・・・・・・。

 

 他人を、騙すこと。

 簡単なことだと思われがちだけど、これがなかなか難しい。

 騙すって言っても、手品のこと。

 手品って、練習が難しくってめっちゃ根気がいるんだけど、でも、その練習をしている時はなんとなく、うつ感情とかを忘れられる気がして、没頭していく。

 

 おれは、カバンからトランプを取り出した。

「一番上にあるカードを覚えてねー」

 一番上はスペードのエース。

「うん、覚えた」

「じゃあ、これを中にしまうんだけど・・・・・・」

 そして、パチンと指を鳴らした。

 一番上のカードをめくった。

 スペードのエース。

「指を鳴らすと、一番上に戻ってくるんだよ」

「すごい・・・・・・」

 ソニアは目を丸くした。

「すごい! すごいよ、司!!」

「すごいだろ〜!!」

「なんか、体がドキドキしてるっていうか、ウズウズしているっていうか、なんていうんだろう、この感情!」

 ソニアは、ツインテールを震わせながら、ニコニコと笑う。

「それは、驚きと、好奇心だよ。」

「これが、驚きと、好奇心なのね!!」

 ソニアは、驚いて、今にも飛び上がりそうになっている。

「ねえ、司」

「なに?」

「どんな時に笑うの」

「嬉しい時だよ」

「じゃあ、私。今、嬉しいのかな」

「そ、そうだよ!嬉しいんだよ!!」

「そっか」

「司」

「なに?」

「私に、新しい感情を教えてくれて、ありがとう!」

 ソニアの笑顔は、満開だった。

「新しい、感情・・・・・・」

 ソニアは、ニコッと笑った。

「私、さっき、嬉しい感情と、悲しい感情を、司から教えてもらった。だから、嬉しい。嬉しい。嬉しいんだよ」

 ソニアは、ニコニコと笑った。

 なんか、ソニアがニコニコとすると、おれまで嬉しくなってくる。

「そっか。それはよかった」

 二人で、ハハハ、と笑い合った。

 おれは、そんな、感情を露わにしたソニアのことが、少しだけ、好きなのかもしれない。

 

 土曜日は、午前中に部活動を行う。週末が終わったらテストなのにこうして集まるのには、やっぱりおれたちは、緩いながらに剣道が好きっていう感情がみんなどこかしら思っているっていうことなんだと思う。

「なあ、みんなで飯行かねーか?」

 翔太のせっかくの誘いだけど、おれは断らなければならない。

「すまん、おれ、いけない。塾、あるから」

「そっか〜、他のやつは〜?」

 おれは、部活とかがあるから、土曜日とか日曜日でもやっている病院に通っている。

 街中にある、交通の便もいい、いい感じの病院。

 予約制で、一番予約が取りやすい時間が昼の時間だから、おれは昼を選んでくるわけで。

 それで、いつも部活帰りのご飯は断ってしまう。

「保険証と診察券をお出しください」

 おれは言われるがままに財布から保険証と診察券を出す。

「カウンセリングと診察で、承っております」

 そして、待合で待つ。

 いろんな人がいる。

 予約も取りやすく、アクセスもいいだけあって結構混んでいるから、少し待つ。

 その後に、カウンセリングが待っていた。

「・・・・・・その現象は、解離、ね」

「解離・・・・・・ですか」

「うん。解離。時々、自分が自分じゃない感じがすることがあったりしない?その、ソニアさんを助けられなかったのも、自分を客観視するもう1人の自分によるものだと思うの」

「そうですか・・・・・・」

 解離。

 意識や記憶などに関する感覚をまとめる能力が一時的に失われる状態。

「うつ病が治るのと一緒に、治っていくから」


 そうか。

 おれは。

 おれが知らないところで。

 いろいろなことを、抱えていたんだな。

 カウンセリングが終わると、また待合で。

 今度は、診察。

「診察番号847番でお待ちの方」

「はい」

「診察室へどうぞ」


「今日も、カウンセリングお疲れ様でした。最近の調子はいかがだったでしょうか」

「なかなか、うつ感情が取れなくて・・・・・・」

「そうですか。それでは、お薬の調整をしておきますね。次の予約は来週でよろしいですね・・・・・・」

「あ、待ってください」

「はい、どうなさいました?」

「再来週、でも大丈夫ですか?」

「はい、あ、でも、再来週ですと年末年始に入ってしまいますので・・・・・・」

「じゃ、じゃあ、再々来週で!」

「わかりました。でも、何かあればいつでも予約をお取りすることはできますからね。何かあれば、必ずすぐに応急処置として連絡を取り、予約をしてください」

「わかりました」

「お大事になさってください」

 その後は、お会計をして、薬局でお薬をもらって、今日のところはおしまい。

 いつまで、このような生活が続くのかわからないっていう不安が常にあるけれど、それも背負いながら生きていかなければならないと心に決める。

 帰りの電車も少し怖い。

 自分が、突然死にたくなるんじゃないかとか。

 突然、とてつもない不安に襲われるんじゃないかとか。

 そんな不安でいっぱいだから。

 少し、怖い。

 でも、なんとか最寄りの駅に着く。

 自転車を走らせようとしたら、外は雪が降っている。

 綺麗だ。

 そんな中を、自転車で走る。

 頑張って、家まで走る。

 家に帰るといつも通りご飯ができていて、それを食べるわけだけど。

 精神科の予約を先延ばしにしたのは、クリスマスがあるから。

 別に、予定があるってわけではないんだけど。

 それでも。

 なんとなく。

 空けておきたかった。

 あと。

 部活もどうせ入るし。

 冬だから鍛えないといけないし。

 そんなことを言い聞かせながら、夕ご飯を頬張る。

「ねえ、司」

「なにー、母さん」

「うつ病、治ってきたんじゃない?」

 おれは、聞かれた時にいつも答える。

「ふふ、そうだね、治ってきたかも」

「そうだよ。笑顔も戻ってきたし、もう病院行く必要もないくらいじゃないかな。」

「あー、まあ確かにそうかもしれないけど、一応薬が出てるからさ・・・・・・」

 母親は多分、精神科の先生に、「いつ治りますか」なんて質問をしたいんだろうな。

 おれも、何回かしたことがある。

 それでも、「わかりません。」の一点張りだ。

 いや、精神科の先生を責めているわけではないんだ。

 ただ、多分本当にいつ治るのかわからない病気なんだろうなっていうのは思った。

 だって。

 うつ感情は、ずっとおれの心の中にあるから。

 この、モヤモヤとしたうつ感情。


『私に、いろいろな感情を教えて欲しいの』


 もしかしたら。

 感情がない方が、幸せなんじゃないかって思うくらいに。

 つらい。

「もうすぐクリスマスよね、ちゃんと予定は埋めた?」

「うん」

「あらそう。彼女でもできたの?」

「部活」

「部活かー。剣道、頑張ってるもんね」

 午前部だけど。

「それより、そろそろテストよね。ちゃんと、勉強はしているの?」

「しているさ。おれにとっては、余弦定理なんて余裕だ」

「余弦定理・・・・・・?」


『余弦定理は使いました。』


 なんとなく。

 なんとなくだが。

 ソニアのことを、考えていた。

「私にはよくわからないけど、もし赤点でもとったら、もう私知らないからね」

 そうだった。

 前、赤点をとった時は。

 誰が助けてくれるわけでもなかった。

 それが現実だったんだ。

 おれは、自分の部屋に戻った。

 一度部屋に戻ると、お風呂に入ろうっていう思考になかなか至れないから、これも少し嫌なんだけど。

 でも、部屋に戻っても、明日汚い姿で学校に行くわけにもいかないし、風呂には入るんだけど。

 もし。

 もし、本当に感情がないんだとしたら。

 なんで。

 なんで、なんだろうか。

 人間の感情・・・・・・。


 その日からおれは、人間の感情について色々と調べるようになった。

 が。

 いくら調べても、感情が存在しないなんていうことは、あり得ないという結論に至って住まう。

 でも、もし感情が本当にないんだとしたら。

 そうか。

 よくよく考えてみたら、ソニア、授業中ずっと寝てるのに、前当てられた問題に全問正解していたよな。

 ソニアって、本当は別に頭良くないわけじゃないよな。

 ていうか、そもそも進学校に通っている時点で、試験は通過したわけだから、頭が良くないわけでもない。

 じゃあ、なんで他の人から置いてかれるのか。

 理由は。

 おれみたいに、赤点をとって、悔しいとか、悲しいとか、怒られてつらいとか、思わないから、なんじゃないのか。

 そういうことか。

 人間は、感情があるからこそ、他の人に触発されたり鼓舞されたりして、行動をすることができる。

 しかし。

 感情がない、ソニアだったら。

 それをする必要が、全く、ないんだ。

 だって、怒られても傷つかないし。

 おれが勉強をする理由は、確かに、いい大学に行ってプログラミングを勉強したいとかは、ある。

 でも、それ以上に。

 先生に、怒られたくないから。

 怒られると、とても嫌だし。

 なんとなく、クラスでも浮くし。

 それが、少し嫌だから、おれは、勉強をしている。

 なのに、怒られても傷つかないのならば、進路にさほど希望がないのなら。

 そうか。

 感情がないのなら、やりたいことなんて、ない・・・・・・。

 普通の人なら思うはずの、「頭が良くなりたい」という欲求だって、ないことになる・・・・・・!

 だから、ソニアは!

 赤点をたくさん取るのか!

 なるほど、そういうことか。

 それなら、ソニアが感情を持たないというソニアの主張も、少しは信じられる。

 でもやっぱり。

 ソニアを可哀想だとは思えない。

 むしろ、おれがソニアに教えられる感情なんて、うつ感情がばっかりだし。

 そんなおれに、たくさんの感情を教えてもらったところで、ソニアがどんどん不幸になるだけ・・・・・・。

『私は、悪い感情も、いい感情も、含めて、たくさんの感情を知りたいから』

 でも、もしソニアが本気でそれを望むのなら・・・・・・。

 ぐわぁぁぁ。

 来た。

 胸の痛み。

 そして。

 死にたい。

 どうしようもなく、死にたい感情。

 おれは。

 この感情から、目を背けることができないのだろうか。

 ダメなのか。

 ダメだ。

 布団の上に、ダイブする。

 そして、枕を掴む。

 終われ。

 早く、終われ。

 おれの、死にたい感情。

 どっか、行ってくれ!

 死にたい。

 死にたい。

 死にたい!!

 紐状のもの。

 充電コードとか、コンセントとかが、全て、首を吊るための道具にしか見えてこなくなる。

 この世界はカラフルで満ちているのに、まるで白黒に覆われたかのような感情に満ちていく。

 嫌だ。

 死にたくない。

 けど。

 死にたい。

 嫌だ。

 嫌だ!!!


 おれは、なんとかもうひとつの精神安定剤にありついた。

 そして、飲んだ。

 でも。

 まだ。

 自殺願望が消えない。

 消えてくれ。

 おれの、自殺願望。

 消えてくれ・・・・・・!!!


「朝だよー!! 起きてー!!」

 う、ううう。

 目が、ゆっくりと開く。

 おれは、時計を見た。

 よかった。

 まだ、時間に余裕がある。

「ねえ、司」

「なに、母さん」

「うつ病、もう、治ったんじゃない?朝ごはん、しっかり食べてるし」

 言いたい。

 昨日。

 おれが。

 どうしようもなく。

 自殺をしたくなったっていうことを。

 でも。

 言えない。




第三章

 テストを解きながら、思う。

 おれが、もしソニアにたくさんの感情を教えたとして。

 そして、おれのたくさんのことを知ったとして。

 おれが、死にたいって思っている感情が、ソニアに移ったら。

 ソニアは、どうなってしまうのかな。

 おれは、いつものことだから、割と制御は効く。

 でも。

 あの、全てがモノクロームになって、コードが全て自殺の道具のように思えてしまう現象がソニアに移ってしまったら。

 ソニアは。


 死んで、しまうのかな。


 そしたら。

 おれは。

 ソニアに。

 たくさんの感情を。

 教えたく、ない・・・・・・。

『私、さっき、嬉しい感情と、悲しい感情を、司から教えてもらった。だから、嬉しい。嬉しい。嬉しいんだよ』

 このセリフを思い出すと、やっぱり。

 ソニアのためにって、感情が、どこかしら湧いてくる。

 そうか。

 ソニアには、誰かのために、っていう感情も、ないのか・・・・・・。

 そっか。

 なんか。

 おれは。

 友達も少ないけど、何人かはいて。

 おれは、そいつらのために生きているっていうところもあるからな。

 母さんのためにも、父さんのためにも。

 もちろん、自分のために生きているっていうのが一番だけど。

でも、その認識があるのは、おれの友達や家族も、同じように、生きる意味の中に少しでもおれを含めてくれているっていう認識があるから、おれも誰かのために、って思うことができる。

 しかし、感情がなかったら、それも一方的なものになる。

 感情が、なかったら・・・・・・。

 それこそ、世界はモノクロームでいっぱいなのかな。

 感情があるから、この世界はこんなに鮮やかで。

 綺麗で。

 海も綺麗で。

 空も綺麗で。

 ソニアも、綺麗・・・・・・。

 そっか。

 おれは。

 感情があるから。

 それを綺麗だって思える。

 ソニアはあの時。

 おれが手品を見せた時。

 初めて、「嬉しい」って感じることができた。

 だから、とっても。

 幸せ、だったのだろうな。

 だから。

 他の感情も、たくさん、教えてほしいって、思ったのかな。

 そういうことに、しておこうかな。

 そうだ。

 テストが終わった後の週末。

 遊びに誘ってみよう。

 色々なところに、ソニアと一緒に行こう。

 そうすれば、ソニアはいろんな感情を知ることができるかもしれない。

 でも、断られるかな・・・・・・。

 それでも。

 ソニアにたくさんの感情を教えてあげるには、学校じゃない場所で、たくさんの経験を積むことが、大切な気がする。

 精神科も、断ってあるし。

 あと、部活も休みだし。


 金曜、テスト最終日の、テストが終わった後。

 おれは。

 ソニアに。

 声をかけた。

「ねえ、ソニア」

「ん?」

「明日、おれと一緒に、遊びに行かない?」

「一緒に、遊びに・・・・・・」

 ソニアは。

 わあっと驚く顔をした後。

 満開の笑顔で。

「うん!!!」

 と、答えた。

「これは、嬉しい感情だよ!! 私、嬉しい! どこかにクラスメイトと週末遊びに行ける、私、嬉しいよ!! ありがとう!!」

 こんなに、喜んでくれると思ってなかったけど。

 ともあれ。

 誘って、よかった。



「お待たせ」

 ソニアは、白のコートに長い髪を下ろし、少し吊り目気味のメイクで、可愛いヘアピンで前髪を止めて、映画館の前に来た。

 似合ってる。

 なんて、恥ずかしくて言えないから。

「うっす」

 としか。

 言えなかった。

「どの映画が見たい?」

「私、映画を見たことがないからわからない」

 映画を、見たことがない・・・・・・?

 そしたら。

 そしたら!!

「じゃあ、おれが連れてってあげるよ」

 おれは、ソニアの手を取り、チケットを取りに向かった。

 ソニアは、嬉しそうにニコニコしている。

 色々映画あるけど。

 ホラー映画とか、恋愛映画とか。

 でも、こういう時は無難に、って思ってるアクション映画を選んでしまう自分が、なんとなく恥ずかしい。

「どうやって、買うの・・・・・・?」

「この、タッチパネルで・・・・・・どの席がいい?」

「うーーーん・・・・・・」

 ソニアは、空席情報をじーっと確認した。

 そして。

「ここの、席がいいかな」

 その席は。

 左後ろだった。

 おれと、ソニアがいつも教室で座っている席。

 なんとなく、嬉しかった。

「この席だったら、落ち着くかなって、思って」

 ソニアは、ニコッと笑った。

 感情がなかったら、美味しい、とかも感じないのかな。

 でも、おれと一緒にいたら、何かを感じることができるなら。

「ねえ、ポップコーン、買おうよ」

「でも、私、味、感じないよ」

「多分、一緒に食べれば、美味しいって思うことができるよ」

「そ、そうかな。そっか、私、司からなら、感情を貰えるもんね。だったら、買ってみよっかな」


「美味しい!! 初めて、美味しいって感じたかも!」

 スクリーンに入る前につまみ食いをしながらソニアはそう言った。

「でっしょー!! 美味しいでしょ!!」

「うん! すっごく美味しい!」

 ソニアは満開の笑顔を膨らませながらポップコーンを頬張る。

「まもなく、第4スクリーン・・・・・・」

「ソニア、開いたみたいだ」

「開いた、って?」

「映画のスクリーンがだよ!」

「じゃあ、もう入れる、ってこと?」

「うん! 一緒に行こ!」

「うん!」


「ねえ、司。ちょっとだけ、怖いんだけど」

 そっか、ソニア、映画館初めてって言ってたもんな。

 それで、おれといるってことは。

 怖い、っていう感情も、初めてってことになるのか・・・・・・。

「とりあえず、席に座ろう」

 おれたちは、席に座り、ポップコーンを頬張った。

 実はおれも、映画館は、得意ではなかったりする。

 もちろん、好きは好きなんだけど。

 でも。

 なんか。

 この。

 逃げられない、空間というか。

 閉鎖された空間というか。

 感傷的、非常に感傷的なうつ病にかかっているから。

 映画を見ていても、ストーリーに感情移入しすぎて、見終わる頃には、どっと疲れてしまっている。

 しかも、不幸なことに、その感情移入が、基本、マイナス感情にしか、いかないから。

 でも。

 今日は、隣に、ソニアがいる。

 映画を楽しみにする、ソニアがいる。

 それなら、大丈夫。

 大丈夫だって、言い聞かせるんだけど。

 やっぱり。


 映画中盤。

 どうしても。

 外に出たくなった。

 おれは、スッと映画館を抜け出した。

 トイレに駆け込み。

 手洗い場に手をつき、ハア、ハアと深呼吸をして、戻った。

 明るくなる頃になると、おれはどっと疲れていたのかもしれない。

 ソニアは、おれの肩をトントンと叩く。

「・・・・・・ねえ、司」

「お、おう、ソニア」

「あのね。めーーーっちゃ、面白かった! 楽しかった!! 連れてきてくれて、ありがとう!」

 ソニアが、そう思えたなら、本当に良かった。

「あとね」

「うん」

「映画が始まる前、手を引いた時、少しだけ、ドキドキした」

 マジか!

「そっか」

「いこ」

「うん。いこ」

 フフッ、とソニアは笑う。

「ソニア、次は、水族館に行こう。近くに、あるからさ」

「うん」


 海のトンネルに着いた。


「わあ、魚がいっぱいいる!」

「本当だ! いっぱい!」

「司、この感情は、どんな感情なのかな?」

「楽しい、って感情だよ!さっき感じた感情!」

 司はソニアの方を向き、フフッと笑った。

 ソニアも、それに返すようにして、笑った。

「ハハハ、楽しいね、司」

「うん、本当に、楽しい」

 ソニアは、前に進んで行った。

 水族館には、たくさんの魚がいて。

 キラキラしていて。

 二人を。

 二人にしか感じられない感情へと、連れて行った。


 水族館を出ると、すぐ近くに海があった。

 おれとソニアは、そこまで歩いて行った。

 

「楽しかった! 楽しかったよ、司!!」

「おれも、楽しかったよ! めっちゃ、楽しかった!」

「楽しいって感情って、いいね」

「うん、いいね」


「私、それと同時に、すごく、ドキドキしてるの。なんか、胸が苦しいみたいな」

「おれも。おんなじ感情」

「これって、なんていう感情?」

「幸せっていう、感情だよ」

「幸せ、かぁ。そっか。わたし、すごく、幸せだ」

 外は夕陽でオレンジ色に満ちていて。

 とても美しくて。

 二人の世界を一気に取り囲んでしまうようで。


「私、司のことが、好きだよ」


 ソニアはニカっと笑った。


「おれも、ソニアのこと、好き」


「好き! 司、好き! 好きだよ! 好き! わあ、幸せ! この感情、教えてくれたの、司だよ!」

「そっか。おれも、ソニアのことが、好き!この感情は、おれも、実は知らなかったんだ!!」

「幸せ!とにかく、幸せなんだ。わたし」


 おれは、ソニアにキスをした。


 夕陽は、もう暮れて。


 星がとても綺麗で。


 おれたちのことを、祝福しているかのようだった。


「私、この感情、ずーっと、とっておきたいな」

「おれも、ずーっと、とっておきたい」


 駅に着いた。


「じゃあ、また明日、学校で。じゃあね、司」

「じゃあね、ソニア」


 フフフ、と笑いながらソニアは帰った。


 次の月曜日の休み時間、おれは、ソニアに、話しかけた。

「一昨日、すごく楽しかったよな」

「楽しかった・・・・・・?」

「うん、楽しかった」

「楽しかったって、何?」

「いや、だから、そういう感情・・・・・・」

「感情・・・・・・」

「あ、ほら。昨日、おれもソニアもお互いのことが好きって・・・・・・」

「言った覚えがある。でも、その感情は、思い出せない」

 ソニアは、スーッと涙を流した。

「これは?」

「・・・・・・それは、悲しい時に出る、涙だよ」

 おれの目からは、ソニア以上に、たくさんの涙が流れてきている。

「司、なんで涙を流しているの」

「だって、おれ、ソニアのこと、好きだから・・・・・・」

 ソニアは、ソニアは、本当に、土曜日の、おれたちが一緒に感じたあの幸せな感情を・・・・・・。


 忘れて、しまっているの?

 

「ソニアは、もう、忘れちゃったんでしょう? そんなの、とても悲しいよ」

「悲しい・・・・・・。忘れてしまったから、悲しいのかな」

「多分、そういうことだと思う」

 おれは、恥ずかしくてトイレに駆け込んだ。

 おれの顔は、涙ばっかりで染まっていた。

 鏡越しに、おれの方をみんながチラチラ見ては出ていくのがわかる。

 ソニア。

 なんで。

 好きだって。

 好きだって。

 それで。

『私、この感情、ずーっと、とっておきたいな』

 って。

 ずーっと、とっておきたいって。

 そういう、こと・・・・・・?

 ずーっとは、とっておけない、っていうこと・・・・・・!?

 そんな、そんな・・・・・・!

 悲しい!

 悲しくて・・・・・・。

 悲しくて!

 おれ。

 ソニアは、10日経つと感情をまた無くしてしまう。

 その悲しみに。

 おれは。

 おれは。

 耐えられなかった。


 おれは、トイレで延々と泣いた。


 でも。

 そう思っていても。

 結果が変わることはない。

 社会では結果が全て。

 そういうことだったのか。

 じゃあ、なんで。

 なんでソニアは。

 いろんな感情を、教えてほしいって、言ったんだよ・・・・・・!


 授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。

 次の休み時間に入る。

「ソニア」

「なに?」

「ソニアに、おれは」

「うん」

「また、嬉しいって感情を、感じてほしい」

 ソニアは、フフッ、と笑った。

「嬉しいよ。今、とっても。そうやって思ってくれていることが、嬉しい」

「あと、他にもたっくさんの感情がこの世界には存在してね、だから、たくさんの感情を、覚えて欲しいの。おれが、教えてあげるから」






















第四章

 でも。

 これから、おれがソニアに教えてあげられる感情って、なんなんだろう。

 ソニアに忘れられた、悲しみかな。

 ソニアに忘れられた、苦しみかな。

 つらいな。

 授業中。

 また、襲ってきた。

 うつ病特有の、死にたい気持ち。

 偶然ペンケースの中に入っていた小さなカッターナイフを手に取り、それを高速でペンケースに戻した。

 おれは何をしているんだ。

 そうだ!

 こういう時には、海を眺めれば・・・・・・。

 ソニアは、寝ている。

 海は、とても綺麗だ。

 あの日のことを。

 海での、ソニアとのやりとりを思い出す。

 それで。

 また。

 悲しくなる。

 悲しくなる。

 ソニア。

 君は、本当に、忘れてしまったのかい。

 おれたちで、一緒に映画を見に行って、ポップコーンが美味しくて、映画館が少し怖くて、それで、海に行って。


 休み時間。

 ソニアは、おれにこう告げた。

「感情を」

 ソニアは、おれの目を、じっと見た。

「私に、感情を……」

 そこまで言うと、ソニアは、涙を流した。

「こ、これは……胸が苦しい。ドキドキする」

「どうしたの、ソニア」

「あなた、今、どんな感情になっているの?」

「おれは、今、とてつもなく悲しい」

「私も、今、とてつもなく、悲しい」

 え、なんで。

 ソニアまで、悲しいの。

 悲しいのは、おれだけなはずなのに。

 ソニアは、窓に手を伸ばした。

「待って!」

 おれは、ソニアを引き留めた。

 ソニアは、涙を流しながら、おれの方を向いた。

「私は、この悲しい感情から、解放されたい」

「それはおれも同じだよ。でもさ。おれは」

 やばい。

 涙が。

 涙が止まらない。

 クラスでおれ達だけ、なんか目立っている。

「こういう瞬間を耐えていかないと、生きていけないじゃんかよお」

 おれは。

 何を言っているんだ。

 いや。

 全て。

 理解している。


 今。

 おれの感情が。

 直で。

 ソニアと。

 つながっている……!

 だから。

 おれが悲しいから。

 ソニアも、悲しい。

 そんなことは、少し考えたらわかること。

 でも、自殺なんて。


 いや。

 思い返してみれば。

 おれは、一度、そんなことを想定したことがあった。

 あれはたしかテストの最中。

 ソニアが、もし。

 もしも、おれのうつ病が移ってしまったら、なんて……

 大丈夫かなあ。

 はあ。

 たまに。

 おれと、ソニアの感情は、リンクしてしまうのか。

 でも。

 ソニアは、感情を持たない。

 なら。

 おれの感情が全て、ソニアに……。

 なにいい。

 それ。

 少し。

 恥ずかしい……。

 ソニアは、顔を赤らめている。

「これ、どういう感情?」

「多分、恥ずかしい、っていう感情……」

「恥ずかしい、なんで、私、こんなこと感じているんだろう」

「それは……」

 おれの感情が、移っているから……。

 なんて。

 言えない。

 でも。

 別に、この現象は、すぐに終わるでしょ。


 ソニアは。

 海を見た。

「綺麗……。これは、どんな感情?」

「綺麗、っていうそのままの感情で合っているんじゃないかな」

「そっか」

 でも。

 おれは今、海を見ていない。

 で、綺麗、って感じていない。

 ってことは、ソニアとの感情のリンクは終わったのか。

 でも。

 いま。

 ソニアは。

 自分で海を見て。

 自分で。

 綺麗って。

 ってことは。

 ソニアにも。

 少し。

 感情が。

 目覚めている、っていうことかな。


 チャイムが鳴った。

 授業が始まる。

 ソニアは、眠る。

 先生は、ソニアに怒る。

 ソニアは、それを気にしない。

 やっぱり、ほとんど、ソニアに感情はないんだ。


 今週末、クリスマス。

 その時に、ソニアを誘えば。

 思い出してくれるかな。

 あの時の。

 一緒に、好きだった時の感情を。

 次の休み時間に。

 誘ってみよう。

 断られるかな……。

『ねえ、司。私に、たくさんの感情を、教えてほしいな』

 たくさんの、感情……。

 おれの、持っているたくさんの感情……。

 それって。

 やっぱ。

 ソニアを。

 汚してしまうのかな。

 おれは。



「ねえ、ソニア。クリスマス、遊びに行かない?」

「クリスマス……。遊びに、行きたい。行きたい! 遊びに!」


 大丈夫かな。

 おれのうつ病、移らないかな。

「じゃあ、遊びに行こう!!」


 クリスマスの午後五時、駅前で、待ち合わせ。

 電車の中から、なんか緊張する。

 ソニアに、一応クリスマスプレゼントを買っておいた。

 喜んでくれるかな。

 小さい、キャラクターのタオルだけど。

 それで。

 想い。

 ちゃんと、今日。

 届くかな。

 届けることが、出来るかな。

 電車の中。

 人が多い。

 どうしたんだろう。

 急に。

 頭が。

 くらくらする。

 やばい。

 心臓がどきどきする。

「次はー」

 下りなきゃ。

 この駅で、待ち合わせてる。

 下りなきゃ。

 あれ。

 体が。

 動かない。


 解離。

 まさか、ここで。

 出てくるのか!

 おれの意識とは別に、おれを動かす存在が!!


 下り過ごした……。

 何とか。


 心臓がどきどきする気持ちは、治まった。

 あれは、いったい何だったんだろう。

 えーっと、次の駅で降りて、それで、戻って……。

 ちょっと、待たせてしまう。

 仕方がない!

「次はー」


 よし。

 ここで降りて。

 タクシーを使おう!

 そうすれば、ソニアを待たせずに何とか、時間通りに、待ち合わせの場所まで行ける!



 おれとソニアは、同時に到着した。

 駅前。

 生えている木々に、たくさんのイルミネーションが施されている。

 少し、都会に出ると、綺麗だなあ。

 やっぱ、クリスマスって、いいな。

 ソニアは、白のコートに、カラフルなマフラーを纏っている。

「ねえ、どこ行く?」

「ごはん、食べに行こ」

 そこで入ったのは、でも本当に、ソニアもおれもお金を持っているわけではないから、ファミレスだった。

「いらっしゃいませ、ご注文は後程でよろしかったですか」

「あ、はい。大丈夫です」

「では、失礼いたします」


「私、ご飯は食べるけど、おいしいって、感じたことが、ないんだよね」

 そっか。

 前、ポップコーンを食べたときの感情も、忘れてしまっているのか。

「そっか」

「どれが、おいしいかな?」

「うーん……」

 おれだったら、ステーキ一択なんだけど、ソニアに合いそうなものは……。

「オムライスとか、どうかな」

「じゃあ、私は、オムライスにしようかな」

「おれは、ステーキにする」

 

「お待たせしましたー、こちらオムライスと、ステーキになります」


 わあ、っていう顔で、ソニアは溢れかえっている。


「食べてもいい?」

「うん、食べよ」


 ソニアとおれは、食べ物を口に運んだ。


「わあ!おいしい! おいしいよ、司!」

「そっか、おれもおいしい!」

「私、幸せだなあ。司と、クリスマスに、こうやって遊べて」

「おれも、幸せ」

 おれたちは、店を出て、イルミネーションを眺めながら、歩いた。

「わあ、きれー」

「ね、綺麗だねー」

 たくさんの人だかりの中でも、ソニアは、ひときわ綺麗で。


 少し、広めの歩行者道路に出た。


 綺麗な、テラス。


 そこに、何個かベンチが並んでいる。


「座ろ」

「うん」


 おれたちは、ベンチに座った。

 言わなきゃ。

 言わなきゃ。

「ねえ、ソニア」

「司?」

「おれ、ソニアのことが、好き」


 少し、間が空いた。


「私も、司のことが、好き」


 ソニアは、おれの肩に頭を置いた。

「私、この感情を、ずっと、取っておきたいな」

 その言葉を聞いた瞬間。

 おれの目から、涙が流れた。

 ソニアは、この後、この感情を忘れてしまう。

 それを、思い出してしまったから。

 そして、ソニアも同時に、涙を流した。

 そして現れる、強烈なうつ感情。

 死にたい。

 やばい。

 心が、情緒が、感情が、暴走してる。

 どうしよう。

 死にたい。

 うう。

 つらい。

 ソニアの目からも、涙があふれた。

 まさか。

 今。

 ソニアと、おれ。

 感情が、リンクしてる!?

 直接、リンクしている!

 じゃあ、おれの死にたい感情も。

 今、ソニアに直で、伝わっていってしまっている!

 やばい!

 このままだと、ソニアも死んでしまうかもしれない!

 おれは、ソニアの頭をなでた。

「ソニア、大丈夫だよ。大丈夫だからね」

 ソニアは、コクっと、頭を縦に振った。

「私は、大丈夫。死にたいけど、でも、幸せだよ」

「幸せ。おれも、ソニアといれて、幸せ」

 そんなおれ達を、綺麗なイルミネーションは、包み込んでくれる。


 治らない、うつ病。

 感情のない、ソニア。

 そんな二人でも。

 幸せを感じることができる。

 それなら。

 生きる価値。

 あるじゃん。

 そんなことを思いながら、おれ達は、帰路に立った。

 でも、明日からは冬休み。

 ソニアには会えない。

 そして。

 ソニアは。

 今日のこの。

 今の幸せな感情を。

 忘れる。


「ソニア、バイバイ」

「バイバイ、司」


 別れた後、おれは。

 トイレに駆け込み。


 思う存分、泣いた。


 おれは、帰り道、海辺を散歩した。

 そして、自分の気を、晴らそうとした。

 そしたら。

 翔太に、あった。

「よう、司」

「翔太……」

「どうした。元気ないぞ」

「ソニアが、今日のことを、忘れてしまうって思ったら、つらくて……」

 また、涙が出てきた。

 翔太は、おれに言葉をかけてくれた。

「感情ってさ、難しいよな」

「うん、難しい」

「ソニアに、想いは伝えられたのか」

「うん、伝えられた。両思いになった。でも、もうソニアは、その想いを、忘れってしまうんだ。そう思うと、つらくて」

「大丈夫。大丈夫だよ。その時はまた、想いを伝えればいいんだよ。ソニアには、お前の感情が伝わるんだろ」

「うん」

「なら、それで十分じゃね? おれなんて、絶対に付き合えないような奴を好きになって、ずっと追いかけてるくらいだからさ」

「ありがとう」

「お前、なんか、太った?」

「太ってねえよ」

「帰るか」

「そうだな」


 海の音は、優しくて。

 おれを、励ましてくれているかのようだった。


 おれは、翌日の部活が終わった後、精神科の予約を取った。

 それで、すぐに駆け込んだ。

 あの、電車の中で起こった現象。

 心臓がどくどくなる現象。

 くらくらする現象。

 あれが、もう一度起こることが怖くて。


「それは、パニック発作ですね」

「パニック、発作……」

「急に、自分が死んでしまうのではないかという恐怖感に襲われてしまう。そんな、発作です。それが、起こるのが、パニック障害。そんな、パニック障害っていう病気も、うつ病と併発することが多いんですよ。でも、うつ病と一緒に治っていきますから、大丈夫です」

「パニック発作は、いつ起こるかわからなくて、怖くて」

「でも、決して、パニック発作で死ぬわけではありません。それは、言えています。だから、そこは心配なさらないでもいいと思います」


 新年。

 おれは、神様にお願いをした。

 どうか、うつ病が治りますように。

 そして。

 ソニアが、おれとの感情を、たくさんの感情を、思い出しますように、って。


 夜、ベッドの上で思う。

 ソニアに、言おうかな。

 おれが、うつ病にかかっていることを。

 そうすれば、ソニアも、感情を教えてほしいって言わなくなるし。

 そうすれば、ソニアが、死にたくなることなんてないし。

 おれだけが、死にたくなる。それで、済むから。


 でも。

 それは、寂しいな。

 だって、ソニアと、もう、分かり合えないんだから。

 幸せを、分かち合えないんだから。

 でも。

 うつ病だっていうことを、ソニアにもわかってもらったうえで、それで、ソニアにまた、たくさんの感情を教えてほしいな、って言われたら。

 それだったら。

 大丈夫かな。


 でも。

 脳裏に映るのは、ソニアが一瞬、飛び降りようとした瞬間。

 おれも、何度も飛び降りようと思ったことはあった。

 だから。

 ソニアが、飛び降りてしまうことが怖くて。

 ソニアには、関わらない方がいいのかな。

 おれのうつ病が、移ってしまうから。

 関わらない方がいいのかな。


 ソニアの笑顔を思い出すと。

 涙が出てくる。

 たくさん、涙が出てくる。

 ソニアが、感情を忘れてしまうという現実。

 それは、おれにとってめちゃくちゃ残酷な現実。

 ソニアに好きを分かち合っても、それでも、出来ない。

 付き合えない。

 だって、おれのことが好きって、思うまで、また。

 もう、10日いるから。

 おれたちの恋は、10日間で消えてしまう、恋だから。

 だから。

 おれは。

 もう。

 ソニアと、関わるのは。


 もし、ソニアに、おれがうつ病だっていう事実を伝えたとして。

 ソニアは、どんな反応をするのかな。

 やっぱり、かわいそうだとか、悲しいとかって、思うのかな。

 そんなおれでも、好きだって、思ってくれるのかな。

 うつ病の人が彼氏って、恥ずかしくないのかな。

 大丈夫かな。

 そんなことを考えながら。

 今日も。

 睡眠薬と抗うつ薬、精神安定剤を飲み、眠りにつく。


 翌朝。

 なんとなく、気分が悪い。

 死にたい。

 朝から、死にたいなんてこと、普通ないのに。

 それなのに、今日は何となく。

 つらい。

 そんな気分が、拭えない。

 つらい。

 うご、けない。

 スマホを見ようにも、すぐに閉じてしまう。

 今日は、なんとなく。

 調子が、悪い。

 もう、忘れたかな。

 ソニア。

 おれとの、感情。

 とっくに、忘れているよな。

 そんなこと、気づいているはずなのに。

 なんでこんなに、調子が悪いんだろう。


 もともと、新学期が始まる前に、精神科の予約は取ってあった。

「気分の落ち込みが激しい日がたまにありまして」

「波もあったりしますからね。お薬の調整をしておきますから」


第五章

「なあ、ソニア」

「何、司」

「ソニアは、怒られたりとかして、つらかったり、しないの?」

「うん。私には、感情が、ないから」

 ソニアは、海を見つめる。

 おれも、海を見つめる。

「なあ、ソニア。海、綺麗だね」

「うん、綺麗……あれ、これは……。感情……?」

「うん、感情だよ」

「あなたといると、私は、感情を持つことが、出来る……」

「そうだよ」

「じゃ、じゃあ。司、私はあなたに、たくさんの感情を教えてほしい……」

「ねえ、ソニア。実はおれ、うつ病なんだ」

「うつ、病……」

「悪い感情に支配される病気。その気持ちが、ソニアに移ってしまうから、おれは……」

「そんなの、いい!」

「え……!?」

「私、海が綺麗って思って、嬉しかった!だから、もっと、たくさんの感情を知りたいの!それが、たとえ、悲しい感情でも、苦しい感情でも、死にたい感情でも」

「本当に……?」

「うん。私、死なないし」

「でも、ソニアは……」

 10日間で、感情を、忘れてしまう……。

「10日間で、感情を忘れてしまうんだよ!」

「そう、だけど、でも……」

 ソニアの目から、涙がこぼれ落ちた。

「この感情は、悲しい、で、合ってる、よね?」

「多分・・・・・・。ねえ、ソニア」

 なんで。

 ソニアは。

「ソニアって、なんで、感情がないの?」

「それはね・・・・・・。私、実は、人間じゃないの」

「人間、じゃない・・・・・・!?」

「そう。私はね、ロボットなの」

「え、そうなの!?」

「うん。ロボットなの」

 そういうことか。

 おれは、今までたくさん、心理学とか、脳科学とかを独学で勉強してきた。

 でも、それは、もちろん自分のためでもあったんだけど、ソニアのことを、深く知りたかったから。

 ソニアが、なんで感情がないのか、知りたかったから。

 だから、まさか。

 でも、それだったら、一応納得がいく。

 ロボット。

 ソニアは、ロボットなのだ。

 だから。

 感情が、ない。

 そういうことか。

 感情が、プログラムされていない。

 ただ、おれが関わると感情が出てくる、何かのバグ。

 そして、たまにリンクするのも、何かのバグだとすると、確かに辻褄は合う。

「私は、生まれた時から、もう、この体だった・・・・・・」

 高校一年生だったのだ。

 頭脳も。

 でも。

 感情だけ、なかった。

 感情がないから、何も感じない。

 エネルギー源は、普通の人間と同じ。

 私は、SO002A。

 型番から取って、自分で、ソニア、と名付けた。

 人間にとてもよく似た、アンドロイドだ。

 私には、親がいる。

 その親は、高校一年生の娘を亡くした親。

 そのストレスに耐えかねて、私を、買った。

 そして、私は親から菜月と呼ばれている。

「ねえ、菜月。今日、学校で何があったの」

「うーん。勉強をして、でも授業中に寝て、先生から怒られて」

「そっか。菜月は先生から怒られたんだ。菜月は、そんな子だったかしら」

「そうだよ。そんな子だったよ」

「そうよね。菜月が言うんだもんね、そうよね」

「そうだよ」

 私は、お母さんに合わせると言うよりは、お母さんを私に合わさせた。

 だって私には、菜月の気持ちとか、感情がわからないわけだから、私が菜月だってお母さんに思わせた方が都合が良かった。

 私は、感情を持たないロボット。

 お母さんのために生まれた。

 何にも感じることができない。

 楽しいも、苦しいも、美味しいも。

 そんな日々を、ずーっと過ごしていた。

 私は、もうすぐ死んでしまう。

 開発されて間もない高機能ロボットの寿命は、一年。

 私は四月に入学したから、もうそろそろなのかな。

 だからと言って、何を思うわけでもない。

 だって私は、感情を持たないロボットだから。

 でも。

 神様が与えてくれた、何かのバグなのかな。

 私は今、海が綺麗だと思うことができた。

 そしてそれは、この男、司の目の前だったから。

 司とは、たくさんの思い出がある。

 初めて映画館に行った思い出や、そこでポップコーンを食べたこと、そして水族館に行って。

 海にも行った。

 クリスマスにも遊びに誘ってくれて、ファミレスに行ってその後に、ベンチで・・・・・・。

 好きだって。言われて。

 私も、好きだって、言って。

 そっか、私。

 司のこと。

 好きだったんだ。

 そして。

 司も。

 私のこと。

 好きだったんだ。

 司は、感情を覚えている。

 ってことは。

 司は、まだ、私のことを好きでいてくれている。

 大切に、思ってくれている。

 それなら。

「ねえ、司」

「ソニア?」

「私ね、寿命が一年のロボットなの」

 司から、涙が流れた。

 私も、涙を流した。

 あれ。

 私。

 こんなこと。

 考えたこと、なかったのに。

 今。

 もうすぐ死ぬのが、悲しくて。

 もっと、生きたい、って思えてくる。

「司、だからね。私、たくさんの感情を、知りたいの」

 司は、涙を流して、止まらない。

「本当に、本当に、一年で、いなくなっちゃうの?」

「うん・・・・・・」

「そんなの、嫌だよ・・・・・・」

「私も、嫌だ・・・・・・」


 ソニアに、そんな事実があったなんて。

 あと、数ヶ月で、ソニアは、いなくなってしまう。

 そして、ソニアは、人間じゃなくて、ロボットだった。


 あと、数ヶ月しか、会えない。

 それは、ソニアが感情を覚えていないことよりも、つらいことだった。

 だって。

 そんなこと。

 全く。

 予想して、いなかったから・・・・・・。

 まって。

 ロボットなのだとしたら。

 プログラムを変えれば。

 どうにか、なるんじゃないか。

「ねえ、ソニア。ソニアの体に、どこか、ケーブルを繋ぐ口みたいなのって、あったりしない?」

 ソニアは、左の袖をまくり、脈を見せた。

 そして。

 そこが。

 開いた。

「ここから、USBケーブルで、パソコンと接続できるよ」

「それなら!おれのプログラミング技術があれば、どうにかなるかもしれない!」

 そうじゃん。

 その手があるじゃん。

 そうしたら。

 ソニアは。

 過去の感情を。

 思い出すかもしれない。

 感情を、忘れなくできるかもしれない。

 そして。

 寿命も。

 伸ばせるかも、しれない・・・・・・。

 いや。

 それは、ないか。

 機械の寿命は不条理で。

 来たら、壊れて使えなくなってしまう。

 エアコンも、冷蔵庫も、パソコンも、テレビも。

 寿命が来たら、突然、使えなくなってしまう。

 それが、耐久消費財の宿命。

 そして。

 ソニアは。

 一年しか、持たない。

 それは、変えられない運命。

 そんなの。

 理不尽すぎる。

 でも。

 感情の面なら!

 なんとかなるかもしれない!!!


「ねえ、ソニア。今日、うちに来れたりする?」

「うん、行けるよ」

 今日はラッキーなことに、部活がない。

 それなら。

 ソニアが。

 プログラミングで。

 おれ達の記憶を。

 思い出せるかも、しれない。


 でも。

 おれは、うつ病。

 ソニアは一度、飛び降りようとしたこともあった。

 ソニアに感情をプログラムして、今までの感情も思い出させたら。

 急に、死んじゃったりしないかな。

 おれのうつ病の感情を思い出して。

 大丈夫、かな。

 

 でも。

 でも。

 思い出して、欲しい。

 おれは、何度も泣いた。

 ソニアが感情を思い出せないと言う事実を目の当たりにして、何度も泣いた。

 だから。

 思い出してほしい!



 インターホンが、鳴った。

 ドアを開けると、制服姿のソニアが立っていた。

 おれは、部屋に案内した。

 誰も帰っていない。

 それも、ラッキーだった。


「ソニア」

「うん」

「感情を思い出すことに、抵抗はない?」

「ないよ」


 私は。

 映画館に行った時。

 水族館に行った時。

 クリスマスに遊んだ時。

 たくさんのことを。

 感じて、いたんだろうな。

 そんなことを、思いながら。

 自分の左腕を司に見せた。

 司は、私の腕にケーブルを差し、それをパソコンへと繋げた。

 そして、カチャカチャとパソコンを操作し。

 エンターを押した。

 瞬間。




『・・・・・・ソニア』

『何?』

『お前、傷つかないのか?』

『傷つく?なんで?』

『だって・・・・・・。お前、つらい思いをしている気がするから』

『ねえ、司。確か涙って、つらい時に出るんだよね』

『そういう時もあるよ』

『じゃあ、私は今、つらいのかな』

『つらいんじゃないかな』

『司。つらいって感情を、教えてくれて、ありがとう』


 つらいっていう感情を、初めて感じたあの日のことが。


『一番上にあるカードを覚えてねー』

『うん、覚えた』

『じゃあ、これを中にしまうんだけど・・・・・・指を鳴らすと、一番上に戻ってくるんだよ』

『すごい・・・・・・』

『すごい! すごいよ、司!!』

『すごいだろ〜!!』

『なんか、体がドキドキしてるっていうか、ウズウズしているっていうか、なんていうんだろう、この感情!』

『それは、驚きと、好奇心だよ』

『これが、驚きと、好奇心なのね!! ・・・・・・ねえ、司』

『なに?』

『どんな時に笑うの』

『嬉しい時だよ』

『じゃあ、私。今、嬉しいのかな』

『そ、そうだよ! 嬉しいんだよ!!』

『そっか』

『司』

『なに?』

『私に、新しい感情を教えてくれて、ありがとう!』

『新しい、感情・・・・・・』

『私、さっき、嬉しい感情と、悲しい感情を、司から教えてもらった。だから、嬉しい。嬉しい。嬉しいんだよ』

『そっか。それはよかった』

 初めて、嬉しいって、思った時の、トランプマジックの思い出が。


『ねえ、ソニア』

『ん?』

『明日、おれと一緒に、遊びに行かない?』

『一緒に、遊びに・・・・・・うん!!! これは、嬉しい感情だよ!!私、嬉しい!どこかにクラスメイトと週末遊びに行ける、私、嬉しいよ!! ありがとう!!』

 司が、遊びに誘ってくれて、とても嬉しかった思い出が。


『お待たせ』

『うっす。・・・・・・どの映画が見たい?』

『私、映画を見たことがないからわからない』

『じゃあ、おれが連れてってあげるよ』


『どうやって、買うの・・・・・・?』

『この、タッチパネルで・・・・・・どの席がいい?』

『うーーーん・・・・・・ここの、席がいいかな。この席だったら、落ち着くかなって、思って』


『ねえ、ポップコーン、買おうよ』

『でも、私、味、感じないよ』

『多分、一緒に食べれば、美味しいって思うことができるよ』

『そ、そうかな。そっか、私、司からなら、感情を貰えるもんね。だったら、買ってみよっかな』


『美味しい!! 初めて、美味しいって感じたかも!』

『でっしょー!! 美味しいでしょ!!』

『うん!すっごく美味しい!』

 初めて、美味しいって思うことができた感情が。

『まもなく、第4スクリーン・・・・・・』

『ソニア、開いたみたいだ』

『開いた、って?』

『映画のスクリーンがだよ!』

『じゃあ、もう入れる、ってこと?』

『うん!一緒に行こ!』

『うん!』


『ねえ、司。ちょっとだけ、怖いんだけど』

 ちょっとだけ、怖いっていう感情も。

『とりあえず、席に座ろう』


『・・・・・・ねえ、司』

『お、おう、ソニア』

『あのね。めーーーっちゃ、面白かった! 楽しかった!! 連れてきてくれて、ありがとう!』

『あとね』

『うん』

『映画が始まる前、手を引いた時、少しだけ、ドキドキした』

『そっか』

『いこ』

『うん。いこ』

 映画が面白いっていう感情も、手を引かれて少しドキッとした感情も。

『ソニア、次は、水族館に行こう。近くに、あるからさ』

『うん』


『わあ、魚がいっぱいいる!』

『本当だ! いっぱい!』

『司、この感情は、どんな感情なのかな?』

『楽しい、って感情だよ! さっき感じた感情!』

『ハハハ、楽しいね、司』

『うん、本当に、楽しい』

 水族館が、楽しいっていう感情も。


 

『楽しかった!楽しかったよ、司!!』

『おれも、楽しかったよ! めっちゃ、楽しかった!』

『楽しいって感情って、いいね』

『うん、いいね』


『私、それと同時に、すごく、ドキドキしてるの。なんか、胸が苦しいみたいな』

『おれも。おんなじ感情』

『これって、なんていう感情?』

『幸せっていう、感情だよ』

『幸せ、かぁ。そっか。わたし、すごく、幸せだ』


『私、司のことが、好きだよ』


『おれも、ソニアのこと、好き』


『好き! 司、好き!好きだよ! 好き! わあ、幸せ! この感情、教えてくれたの、司だよ!』

『そっか。おれも、ソニアのことが、好き! この感情は、おれも、実は知らなかったんだ!!』

『幸せ! とにかく、幸せなんだ。わたし』

 司のことが、好きだっていう感情も。それが、幸せだっていう感情も。

『ソニアに、おれは』

『うん』

『また、嬉しいって感情を、感じてほしい』

『嬉しいよ。今、とっても。そうやって思ってくれていることが、嬉しい』

 私のことを思ってくれて嬉しいっていう感情も。


『こ、これは……胸が苦しい。ドキドキする』

『どうしたの、ソニア』

『あなた、今、どんな感情になっているの?』

『おれは、今、とてつもなく悲しい』

『私も、今、とてつもなく、悲しい』

『待って!』

『私は、この悲しい感情から、解放されたい』

『それはおれも同じだよ。でもさ。おれは。・・・・・・こういう瞬間を耐えていかないと、生きていけないじゃんかよお』

 司と一緒に感じた、耐え難いほどの悲しみの感情も。

 

『ねえ、どこ行く?』

『ごはん、食べに行こ』


『いらっしゃいませ、ご注文は後程でよろしかったでしょうか』

『あ、はい。大丈夫です』

『では、失礼いたします』


『私、ご飯は食べるけど、おいしいって、感じたことが、ないんだよね』

『そっか』

『どれが、おいしいかな?』

『うーん……。オムライスとか、どうかな』

『じゃあ、私は、オムライスにしようかな』

『おれは、ステーキにする』

 

『お待たせしましたー、こちらオムライスと、ステーキになります』


『食べてもいい?』

『うん、食べよ』


『わあ! おいしい! おいしいよ、司!』

『そっか、おれもおいしい!』

『私、幸せだなあ。司と、クリスマスに、こうやって遊べて』

『おれも、幸せ』


『わあ、きれー』

『ね、綺麗だねー』


『座ろ』

『うん』

 

『ねえ、ソニア』

『司?』

『おれ、ソニアのことが、好き』


『私も、司のことが、好き』


 クリスマスが本当に楽しくって、それで、司のことが大好きだっていう感情も!

『私、この感情を、ずっと、取っておきたいな』


『ソニア、大丈夫だよ。大丈夫だからね』

『私は、大丈夫。死にたいけど、でも、幸せだよ』

『幸せ。おれも、ソニアといれて、幸せ』


 その後に感じた、司のとてつもなく悲しい感情も!

 全て、思い出した!


 私は、司に抱きついた!

 抱きつきたくて、たまらなかった!

「司! ありがとう! 大好き!」

「ふふ。おれも、ソニアのこと、大好きだよ」

 全部思い出して、私は。

 泣きながら、笑っている。





























第六章

 ソニアの感情の記憶が、元に戻った!!

 成功した!!

 そして、ソニアは今、嬉しい、って感じている!

 そして、ソニアに感情もプログラムできた!

 これで、ソニアも、普通の人とおんなじ、色々なことを感じることが、できる!

 よかった。

 よかった。

 でも。

 色々なことを感じるっていうことは。

 怒られたこともそのまま間に受けてしまうし。

 そして。

 死んでしまう。

 あと少しで、死んでしまうことも。

 それに対する悲しみとも。

 これから毎日、付き合っていかなければいけないということ。

 ソニアは、おれを抱きしめながら、耳元でこう言った。

「ねえ、司。私、死にたく、ないよ・・・・・・」

「おれも、嫌だ。嫌だよ。ソニアを、失いたく、ないよ・・・・・・」

 その日は、二人でたくさん泣いた。


 二月に入った。

「ソニアは、いつ生まれたの」

「私は、四月の一日、午後五時に生まれた」

「ってことは、あと、二ヶ月は、生きられるっていう、ことだよね?」

「うん。あと二ヶ月は、生きることができる」

「じゃあ、あと二ヶ月の間、たっっくさんの感情を、おれがソニアに教えてあげるね!」

 ソニアは、笑顔でおれの目を見た。

「うん!私も、司にたくさんの感情、教えてあげる! それで、司のうつ病も、治してあげる!」

 こんなに、嬉しいことを言ってくれる人がいるなんて。

「ありがとう!!」


 二月の十四日。

 ソニアは、おれにチョコレートを作ってきてくれた。

「はい、これ。彼女からの手作りチョコだよ〜!」

「わあ、ありがとう!」


 家に帰って、食べてみた。

 すごく、美味しかった。

 中に、手紙が入っていた。

「司へ。たくさんの感情を、私に教えてくれて、ありがとう。私は、とても幸せです。」

 こんなことを言われたら。

 とっても嬉しくて。

 泣いてしまうよ。


 でも。

 ソニアは、どんどん弱っていって。

 そしてとうとう、学校にも来なくなった。

 おれは、ソニアに会える手段がなくなった。

 ソニアの母は障害を抱えていたために、携帯を契約することすらできなかった。

 


 三月の三十一日。

 午後四時五十分。

 ソニアは、疲れ果てながら、おれの家を訪ねてきた。

「司、久しぶり」

「ソニア!」

 おれは、ソニアをバッと抱きしめた。

「バレンタインデーの手紙、ありがとう! もう、会えないかと思った! 来てくれて、本当にありがとう!!」

「うん、ありがとう・・・・・・」

 ソニアは、もう、壊れかけていた。

「ソニア、おれ、ソニアに会えて、とっても幸せだったよ!」

「私も、とっても幸せだった」


 ソニアは、最後の力を振り絞って、話した。

「私も、人間に生まれたかったな、そんなこと、何度も思った。でも、ロボットに生まれて、司に出会えて、嬉しかった。映画館も、水族館も、海も、ファミレスも、イルミネーションも、バレンタインも、全部、私の宝物だよ。本当に、ありがとう」

 ソニアは、満開の笑顔を見せて、涙を流し、そのまま、話さなくなった。

「ソニアーーー!!!」



「うつ病、もう、ほとんど、治っていますね。パニック発作も、解離も、最近、なくなったでしょう」

「はい・・・・・・」

「ただ、うつ状態は続いています。何か、あったのでしょうか」

「大切な人を、亡くしました」

「そうでしたか。心配ですから、もうしばらく、この病院に、通ってください」

「わかりました」


 ソニアが、うつ病を治してくれた。

 それは、とても嬉しい。

 でも。

 同時に。

 ソニアが、いなくなってしまったこと。


 とても、悲しい。

 悲しくて、仕方がない。


 おれは、その夜、電話をした。

「なあ、翔太〜」

「司〜? 大丈夫か〜?」

「うーん、あんまり大丈夫じゃないかもしれない」

「まさか、お前の彼女、もう・・・・・・」

「そう、なんだよ」

「そっか・・・・・・」

「お前は、想いを伝えられたのか?」

「ああ、伝えられたさ。振られちまったけどな」

「そっか。」

「でも。ソニア。最後、幸せそうだった」

「なら、いいじゃねえか。ソニアも、幸せだったと思うぞ。お前と、一緒で」

「そうかなぁ」

「そうだよ。明日、剣道部、来いよ」

「ああ」


 手紙を見返す。

「司へ。たくさんの感情を、私に教えてくれて、ありがとう。私は、とても幸せです。」

 その裏に。

 写真が、貼ってある。


 水族館での、二人で撮った写真。


 ソニアの、満開な笑顔が、おれの涙で染みる。

 

 楽しかったなあ。


 幸せだったなぁ。

 

 今日も。


処方された薬を飲んで、眠りにつこう。

 でも。

 眠れない。

「いろんな感情を教えてほしいの」

 言葉が。

「ありがとう」

 言葉が。

 頭を駆け巡る。

 そして。

 心を痛めつける。

 なんで。

 なんで、壊れてしまったんだ。

 なんでだよ。

 つらいよ。

 つらい。

 つらい。

 つらい。

 胸が苦しくなる。

 これは、恋の胸の苦しさであってるの?

 それとも、悲しみの胸の苦しさなのかな。

 とにかく、苦しくて。

 つらくて。

 ベッドで横になっても、それだけでもつらくて。

 おれは。

 もともと、付き合うべきではなかったのかな。

 告白するべきではなかったのかな。

 好きになるべきではなかったのかな。

 そんなことを思うくらいに。

 つらくて、苦しい夜。

 ソニアは、今どうしているのかな。

 ソニアは、もう、戻ってこないのかな。

 現実が。

 受け止めきれない。

 つらい。

 心が痛い。

 眠れない。

 早く、眠りにつきたいのに。

 眠れない。

 つらい。

 ぐるぐる思考が、頭の中を駆け巡る。

「希死念慮」

 それは、死にたいと、自ら命を断ちたいという欲求。

 それが、今までで一番強まっている気がする。

 たくさんの紐状のものが部屋にある。

 どれを使っても、簡単に死ねる。

 でも、ソニアの神様は人間だから、ソニアは空には行かないのかな。

 よくわからないけど。

 つらい。

 今。

 この状況を抜け出したい。

 その一心しかない。

 そういえば、ソニアもおんなじようなこと言ってたっけ。

 言ってたよな。

 なんか、色んな思い出が蘇ってくる。

 ソニアは、ずっとそばにいた。

 隣の席だったし。

 海を見ると、隣にソニアがいた。

 クリスマスも、初めて、女子と過ごした。ソニアと、過ごした。

 ファーストキスも、ソニアだった。

 つらい。

 眠れない。

 眠れない。

 おれは、コードを首に押し当てた。

 そんなことをしても、何にも変わらないことくらいわかっているから、すぐに離したけど。

 危険すぎる。

 おれは、精神安定剤をもう一錠飲んだ。

 でも、全然効かない。

 ネットで、死にたいって検索した。

 ひとりでかかえこまないで、っていう言葉がたくさん出てきた。

 おれは、勇気を出して、翔太に電話を。

 かけようとするも、勇気が。

 やっぱり出ない。

 だめだ。

 涙が出てきては止まる。

 そして、地球の重力が、突然強くなったような感覚に襲われる。


「病院を、変えた方が良さそうですね」


 結局、そんな夜が何度も続いたまま、おれの高校生活は終わりを告げた。

 別に、自殺をしたかったわけじゃない。

 消えたかった、ただそれだけ。

 でも、そんなことできるわけもなくて。

 普通に勉強して、普通に入れる大学の、情報系の大学に進んだ。

 
































第七章

大学の入学式で、誰とも話さなかったおれは、結局あんまり友達ができないまま、オリエンテーションを迎えた。

 サークルのたくさんのビラが配られたけど、おれは、その中で色々回った。

 フットサルとか、小説を書くサークルとか。

 でも、結局一番落ち着くのは、やっぱり剣道サークルだった。

 なんでだろうか。あの、小さいコートで、狭い視界で、闘う。でも、相手の動きを予測したりとか、読み合いとか、そういうのを久々にやってみると結構楽しくて、剣道サークルに加入することになった。

 大学でも、あの感じで剣道を続けたかったから、その選択をしたってこともある。

 で、大学までの距離は、別に、一人暮らしは必要ないような、でも家から一時間半くらいかかるような感じだった。でも、いつも、大学までの一時間半の距離の電車は結構つらくて、座れないし、ぐるぐるとマイナス思考が回ってしまって、つらいし。

 動画サイトをとにかく巡回したりとか、マンガを読んだりとか、そんなことをしながら、なんとか頑張って時間を潰した感じだった。それでも、混んできたらなんもできないし、手が空いてしまうし、結構暇だったりすると、イライラしてくるようになったりして、少し嫌だ。

 

  授業は高校の頃に思っていたよりも結構大変で、というか履修登録の時点で、授業の多さに結構驚いていた。

 それで、サークルにも顔を出すようにした。

 サークルの新歓では、結構楽しい感じだった。

 居酒屋に行ったんだけど、先輩達が結構お酒を飲むから、大丈夫かなって一瞬心配になったんだけど、でも、おれたちが飲まされることはなくって、むしろ結構楽しくて、大学のサークルってこんなに楽しいんだって、実感した。

 その中に、月曜日に同じ一般教養の授業を二つとっているっていう人がいて、おれは別に学科に友達もそんなにいなかったから、その人と二人で、月曜日は授業を受けた。

 その人は女の人で、ハルという名前の人だった。

 名前は、カタカナで、ハル。

 画数がどうのこうのって言ってて、多分親がそれを見越して、つけてくれたんだろうなって、思う。

 ハルは、一般教養の授業を、結構しっかりと受けていた。おれは、よくわからないこととかたくさんあったから、たまに寝てしまったりとかして、その度に単位が取れなくなるのが怖くなっていった。

 ハルと同じ一般教養の授業は、二限と三限だったから、二限と三限の間で一緒に学食でご飯を食べた。

 ハルは、剣道を大学から始めたらしく、みんなについていくのが精一杯だという。

 だから、剣道サークルを、辞めるかもしれないという。

 それで、小説のサークルに入ろうか迷っている、と相談をされた。

 そこで、高校まではどんなことをやっていたのかと質問をすると、なぜかはぐらかされてしまった。

 ハルは、おれと同じ地域に住んでいるらしく、家が遠いということについて話した。

 ハルは、電車の中では何もしていないのだという。

 おれとは違い、時間の使い方が上手いのだと感じる。

 おれは、三限が終わったら、そのまま病院へと向かう。

 その病院は、今まで行っていた駅前の病院とは違う病院で、入院施設とかのある大きな病院だった。

 次第に、自分のプログラミング技術が向上するにつれて、本当はソニアを守れたのではないのかとか、そんなことばかり考えてしまう癖ができた。

 でも、実際そんなことはできるはずもなくて。

 だって、ソニアの寿命は、一年だったから。

 そんなことを考えながら電車に乗っている時間は、とてもつらい。

 何かに没頭しようにも、できないし、結局パニック障害とかも治っていないから、いつパニック発作が起こってもおかしくない状況で、めっちゃ怖い。

 今日も、病院は普通に終わった。

 高校一年生の時に愛する人を亡くしたのは、とても大きなショックだった。

 そのトラウマは、おれの頭にずっと残り続けていて。

 でも、大学は結構楽しいなって感じるから、入院治療を結構勧められるんだけど、それは断るようにしている。

 だって、入院したらその時間絶対大学には行けないし、紐状のものは持ち込み禁止だから、スマホとかも持ち込めないし。

 電車の中での相当長い暇な時間を持て余してしまうくらいのおれだから、入院なんてして、すごくたくさんの暇な時間ができたら、それこそもっと病んでしまう気がして、本当はそれが一番怖かった。

 あと、元々数学が得意だったっていうのと、プログラミングを元々やっていたっていうことから、大学の授業にも難なくついていけるから、それは嬉しいポイントだった。

 高校の頃みたいに、できない人を追い詰める雰囲気もないし、それが大学の一番のいいところなんだろうな、と感じたりした。

 精神病院が終わると、帰ることになるんだけど、まあ精神病院から家までは割と近いから、電車で二駅くらいだから、そこまで負担にはならないんだけど、でも、精神病院があるところの最寄りの駅が普通しか止まらないっていうのが結構おれにとっては問題だった。

 なぜなら、通過電車が通るから。

 通過電車は、ものすごいスピードで走るから、うつ病の症状で、一瞬飛び降りたくなってしまったりするから、それを抑えるのが大変だったりする。

 で、家に帰ると、いつものように夜ご飯が用意されている。これは、とてもありがたくて、感謝をしないといけない。

 その後には、お風呂に入るんだけど、いかんせんまだお風呂は苦手で、疲れて帰ってからのお風呂は、結構つらかったりする。

 大学に入ったから何かアルバイトを始めようと思っておれが選択したのは、塾の講師だった。

 塾の講師のアルバイトは、結構一時間半とかで終わったりして、それでいて時給が少し高めだから、まあお小遣いの足しになるかなあとか思って初めた。

 生徒と話していても楽しかったりするし、あと、担当教科は数学にしたから、おれは別に知っていることを教えるだけで、なんら抵抗はなかった。

 でも、夜の塾の講師のバイトを終え、寝る前になると、やっぱりうつ気分は襲ってくるから、今日も精神安定剤と睡眠薬と、抗うつ剤を飲んで眠る。

 火曜日から木曜日は、情報学部の専門科目がびっしり詰まっているから、他の学部の人と関わることはほとんどないんだけど、でも、火曜日の夜には剣道サークルがあるから、そこには顔を出す。

 でも、今日そこに、ハルの姿はなかった。

 多分、みんなが防具をつけてしっかりと剣道をしているのを見て、嫌になったんじゃないかな。

 それで、小説のサークルに行ったのかな。

 剣道は、おれは別にそこまで強くないから、結構やられることが多いけど、たまに一本を取るととっても嬉しかったりする。

 で、夜遅くまでサークルをやって、駅まではみんなで話しながら帰るから、その時間が結構楽しかったりする。

 水、木は、大学の授業と、課題に追われることになる。

 特に、情報の授業で出る課題が、提出期限が木曜日までのものが多いから、消化するのに結構時間を追われる。

 金曜は、一般教養。

 金曜も、二、三限を取った。一般教養は、学部学科関係なく参加する授業だから、たくさんの人が移動したりする。

 二限が始まる前、授業の準備をしていると、後ろから声がした。

「司」

 自分の名前を呼ばれてびっくりした。

 振り返ると、翔太がいた。

「翔太!お前、おんなじ大学受けてたのか!」

「うん。おれは、外国語学部だけどね。」

「外国語・・・・・・お前、英語できたのか!」

「うん、まあまあね。一年、アメリカがイギリスに留学に行こうかな、なんて思ってる。」

「留学・・・・・・! すごいな、お前!」

「いやいや。そんなことないさ。ただ、自分の語学力をあげたいと思うだけ。それより、お前、そういえばなんで、二年の頃、剣道部を辞めたんだよ」

「それは・・・・・・」

 そう。おれは、高校二年で、部活を辞めた。

 なんでかっていうと、なんとなく、って言ったら正しいのかな。

 自分のメンタルがぶっ壊れて、剣道をする気が起きなかったんだよな。

 ソニアを失った悲しみは、それだけ、おれにとって大きかった。

 あと、勉強も、一回赤点を取ったことがあるくらい、意外とスレスレで行ってた教科もあったにはあったから、部活の時間を少し、勉強に当てたいって思ったこともあった。

「なんとなく、だよ」

 ソニアを失った悲しみが、とかっていうのは、なんとなくだけど、言うことができなかった。

「ふーん。なんとなく、か。でも、今は剣道サークルに入ってるんだろ?」

「なんで、それを知ってるの?」

「いや、おれこの前のサークル、ちょっとだけ、見学してたんだよ」

「あ、そうなの?」

「うん。」

「で、翔太は剣道サークル入るの?」

「いや、入らない」

「あ、そうなんだ」

「おれは、よさこいがやりたくってさ」

 よさこい。

 確かに、都会の広場とかで時々練習している人たちを見かける。

 結構、楽しそうだよな。

 充実していそうで、楽しそう。

「へえ、よさこい、いいじゃん」

「でもおれは、司が剣道をやりたいっていう気持ちがまだあるっていうのを知って、なんとなく嬉しいよ」

「そっか」

 そう。

 高校の頃、剣道から離れて、それからなんとなく、やっぱり剣道がやりたいって思えた。

 これは、自分でも嬉しかったことだと思う。

 だって、剣道の楽しさって、結構計り知れないくらいあるから。


 気がつくと、暑い夏に入りそうな時期になっていた。

 おれは、七月の末、月曜日の昼、いつものようにハルと学食を食べていると、ハルに、花火大会に行かないかと誘われた。

 行きたいとも思ったけど、ソニアのことが忘れられない気持ちもいっぱいあった。

 でも、なんとなく、なんとなくだけど、女子と花火に行ってみたいっていうのがあって、結局一緒に行くことになった。

 八月に入り、夏休みに入っても、おれのうつ病は治らなくて、ずーっと通院をする日々が続いた。

 おれは、花火大会当日、気合を入れて、浴衣を着て行った。

 ハルと、駅で待ち合わせていた。

 ハルは、少し遅れて到着をした。

 茶髪にお団子ヘアのハルは、綺麗だなって、思わせた。

 まだ、五時。空は、明るい。

 おれたちは、タピオカミルクティーを飲みながら、ぶらぶらと歩いた。

「タピオカ美味しい?」

 おれがそう問いかけると、ハルは、一瞬真顔になった後、クスッと笑顔になって、

「美味しいよ」

 と答えた。

 別に、まずいことを言ったわけではないと思う。

 気に触ることを言ったわけではないと思う。

 そのあと、金魚すくいとかやっていると、だんだん夜は更けてきて、おれたちはいい感じの場所を見つけて座った。

 そこで、色々な話をした。

 ハルは、外国語学部にいること、そこで出る課題がレポートばっかりで大変なこと、映画を観てそこに出てくる英文を五分で覚えないといけない授業があってそれがとても大変なこととか。他にも、たくさんのことを話してくれた。まだ、一年生だけど、将来何になるかとかも決めていないし、留学をどうするかも決めていないこととか。そんなことを、話してくれた。

 おれも、情報学部の課題がすごく大変なこととか、アルバイトで生徒の成績がうまく上がらなくて大変なこととか、それでも、大学が楽しいこととか、そんなことを、話した。

「剣道サークルは、楽しい?」

「うん、楽しいよ。小説サークルは?」

「いいと思う。最近、割と出来がいい小説が書けてね、それを今度、新人賞に出そうと思うんだ」

「そっか。めっちゃいいと思う」

「そうかな」

「うん。おれも、ちょっと読んでみたいな、なんで思う」

「今度、読ませてあげよっか?」

「本当?嬉しいな」

「そう思ってくれて、私も嬉しい」

 ハルは、満面の笑みで、喜んでくれた。

「本当に嬉しかったんだ」

「うん。嬉しい」


 花火が、どんどんと上がっていく。

「司〜、花火、綺麗だね〜」

 ハルは、少し、涙を流していた。

「ハル、なんで泣いているの?」

「いやいや、なんか、幸せだな〜、なんて思って」

「そっか」


 花火を見ていると、とても綺麗で。

 ハルも綺麗で。

 だんだん、二人だけの世界に入っていくかのように。

 おれたちは、花火に見惚れていった。

「ねえ、司。ちょっと、場所、変えない?」

「・・・・・・うん」

 そう言って、おれたちは立ち上がった。

 ハルについていくと、誰もいない、花火がすごく綺麗に見える場所に着いた。

「ここ、本当は立ち入り禁止なんだけどね、私たちだけで、独占して花火を観られる、特等席が、ここなんだよ。」

 そう言って、ハルはフフッと笑った。

 空全体を埋め尽くすように、花火が一気に開いた。

「ねえ、司。私、幸せ」

「ハル、おれも、幸せ」

 おれは、もうこの時点で、ハルと一緒になりたいとさえ思っていた。

 花火マジックっていうやつなのかな。

「司。私、司のこと、好きだよ」

「ハル、おれも。ハルのことが好き」

 おれたちは、手を繋いだ。

 大きな花火が、舞い散った。


 花火大会が終わって、駅に向かう途中。

 ハルと、約束した。

 十日後の火曜日に、遊びに行こうって。

 ちょうど、二人空いてるからって。

 おしゃれなカフェに行くことになった。

 嬉しかった。

 新しい彼女ができて。

 帰りの電車も、同じ方面だった。

 ラッキーなことにおれたちは座れた。

 二人で、花火の写真とか、二人で撮った写真とかを見返しながら、浴衣姿で盛り上がった。

 家について、お風呂で、セットしてゴワゴワになっている髪をシャンプーでサーっと洗い流して、また、薬を飲んで、眠りにつこうとした。

 そこで思い出す、ソニアのこと。

 なんとなく。

 思い出してしまった。

 水族館に行った時のこと、映画館に行った時のこと、クリスマスに一緒に過ごしたこと。そして。ソニアがバレンタインデーに手紙をくれた後、壊れてしまったこと。


 全て、脳裏に蘇ってきてしまった。

 ハルの、花火の思い出より先に。

 その後に、ハルとの花火の思い出が蘇る。

 たくさんの話をして。

 二人で、立ち入り禁止の場所で花火を眺めて。

 楽しかったなぁ。

 おれは、結構死にたかった。

 今まで、結構死にたかった。

 でも。

 こんなに、幸せなことが、あるんだな、って、思ったら、死ななくてもよかった、って、思えてきた。

 だから。

 今日も。

 そのまま。

 眠りにつくことができたのかもしれない。

 次の日は、夏期講習で塾は大忙しだった。

 バイトは昼から始まって、今まで担当したことない生徒を担当したりとか、数学担当って言っていたのに数学以外をやらされたりとか、バッタバタで大変だった。

 その間も、なんとなく昨日の花火の思い出が蘇って、楽しかった思い出に浸りながら、仕事ができたから、なんとかこなせた。

 次の日も、また次の日も夏期講習。

 なかなか大変だけど、次の火曜日、ハルと遊びに行けるって考えたら、なんとか頑張ることができた。

 精神科の先生にも、薬を少しずつ減らしていきましょうって、言われるくらいまでになった。

 そして、迎えた火曜日。

 ハルは、白のワンピースにニット帽を被って、現れた。

「久しぶり」

「うん、久しぶり」

「いこっか」

「うん、いこ」

 そして、おれたちは、カフェへと向かった。

 ハルは、小さなチーズケーキを頼んだ。

 おれは、ガトーショコラを頼んだ。

 ハルは、チーズケーキを待つ間、下を向き、話し始めた。

「実はね、私、今度、手術があるの」

「手術・・・・・・?」

「うん・・・・・・実はね、私、本当はもう、余命を過ぎているの」

「余命・・・・・・え!?」

 余命!?

 を、過ぎている!?

 おれが知らないところで、ハルは、大きな悩みを抱えていたんだな。

 おれは、そんなことには全く気付かずに、ハルと話していた。

 おれが、うつ病を抱えているっていうことは、ハルには言ってない。

 だって、もし、理解してくれなかったら、って思ったら怖くて。

 でも、おれも。

 ハルのことを、全然理解できていなかった、っていうことを、今、思い知らされた、

「でも・・・・・・でもね、その手術が成功したら、私、普通に生きていくことができるかもしれないの」

「そう、なんだ」

 なんて言葉を、かければいいんだろうか。

「・・・・・・頑張って、ね」

「うん・・・・・・」

「この前の花火、楽しかったよね。好きって、気持ち伝えてくれて、ありがとう。」

「うん・・・・・・」

「・・・・・・どう、したの?」


 

「私ね。実は、感情がないの」


「感情が、ない・・・・・・?」

「うん。でもね、司といると、何かを感じれるっていうか、今も、手術に失敗したら、っていう不安もあるし。でも、司とここにこれて楽しいって思えるし。でもね」

「うん・・・・・・」

「花火大会が楽しかったっていう気持ちとか、司のことが、好きだって思う気持ちとか、そういうのが、なくなってしまったの」

「そっ・・・・・・か」

 今日は、花火大会から、10日経った日。

 ソニアとおんなじ。

「私ね、実は、去年の一月に生まれたんだ。ロボット、HA0Lとして、高校三年生の頭脳を持って。それでね、大学には、入ることができたんだけど。でもね。私の寿命は、一年なの。でも、何かの悪戯かな、一年以上、命がもっていて。だから、私は、もうすぐ、いなくならなきゃいけない存在なの」

「そっ・・・・・・か」

 だから、高校までの経歴を、話さなかったのか・・・・・・。

「おれ、ちょっと、トイレ行ってくる」


『ここ、本当は立ち入り禁止なんだけどね、私たちだけで、独占して花火を観られる、特等席が、ここなんだよ』


 

『ねえ、司。私、幸せ』

『ハル、おれも、幸せ』


『司。私、司のこと、好きだよ』

『ハル、おれも。ハルのことが好き』


 忘れて、しまったのかよ・・・・・・!

 おれは、はっきりと覚えているのに。

 やばい。

 涙が。

 涙が、止まらない!!!

 剣道サークルに来てくれて。

 嬉しかった。


 みんな。

 忘れて、しまったのか。

 10日間で消える恋。

 それは、とっても残酷で。

 また、襲ってくるうつ感情。

 そんな。


 つらい。

 つらい。

 つらい、よ・・・・・・。

 つらいよ、ハル。

 感情なら、前みたいに、USBに繋いで・・・・・・。

 でも。

 明日、手術。

 おれのせいで、失敗したら・・・・・・。

 そんなことを考えると。

 とてもじゃないけど。

 できない。

 

「・・・・・・お待たせ」

「うん・・・・・・私ね、手術明日なの」

「・・・・・・明日?」

「うん・・・・・・失敗したら、死んでしまうかもしれない。壊れてしまうかもしれない」

「そっ、か」

「でも、私、司と最後にこうやって会えて、幸せだったよ」

「うん・・・・・・」

「明日の手術は、誰かが入れるわけじゃないけど、来てくれたら、成功した時に、会えるかも」

「どこで、手術するの」




 おれは、AIIT電機株式会社修理センターという施設に来た。

 頼む。

 治ってくれ。

 治って、いてくれ。


 一時間後。


 ハルが、出てきた。


 少し、涙を浮かべて、出てきた。

 おれは、たくさん涙を流した。

 そして、ハルを抱きしめた。

「ハル。ハル!!よかった!」

「私も、本当に、治ってよかった!これで、たくさん生きることができる!」

 ハルは、抱く手を止め、おれの肩に手を置いた。

「それでね」

「うん」

「私、感情が、手に入ったの!!!」

「ほんと!?」

「うん!!!」

「ねえ、司」

「なに、ハル」

「水族館、楽しかったね!」

「水族、館・・・・・・?」

「映画も、司がオススメの映画、見つけてくれたよね! 私、あの映画、すっごく楽しかったんだよ! ポップコーンも、美味しかったし!」

「映画・・・・・・」

「何度も、気持ちを伝えてくれて、ありがとう。バレンタインデーのチョコも、頑張って作ったんだぞー!手紙、読んでくれたかな?」

「バレンタイン……」

「花火も、とっっても綺麗だったよね・・・・・・」

「なんで、なんで、ソニアの、記憶を・・・・・・」

「私のお母さんがね、前のロボットSO002Aの記憶を司るマイクロチップを持っていてね、それを、私の手術のついでに、入れてくれたんだよ!だから、私は、ソニアでもあり、ハルでもあるの!」

「そ、そっか・・・・・・!」

 ソニアのお母さんが、ロボットのハルを買ったのか!つまり、彼女は、ソニアでもあり、ハルでもある・・・・・・!

『一番上にあるカードを覚えてねー』

『うん、覚えた』

『じゃあ、これを中にしまうんだけど・・・・・・指を鳴らすと、一番上に戻ってくるんだよ』

『すごい・・・・・・』

『すごい! すごいよ、司!!』

『すごいだろ〜!!』

『なんか、体がドキドキしてるっていうか、ウズウズしているっていうか、なんていうんだろう、この感情!』

『それは、驚きと、好奇心だよ』

『これが、驚きと、好奇心なのね!! ・・・・・・ねえ、司』

『なに?』

『どんな時に笑うの』

『嬉しい時だよ』

『じゃあ、私。今、嬉しいのかな』

『そ、そうだよ! 嬉しいんだよ!!』

『そっか』

『司』

『なに?』

『私に、新しい感情を教えてくれて、ありがとう!』

『新しい、感情・・・・・・』

『私、さっき、嬉しい感情と、悲しい感情を、司から教えてもらった。だから、嬉しい。嬉しい。嬉しいんだよ』

『そっか。それはよかった』


『ねえ、ソニア』

『ん?』

『明日、おれと一緒に、遊びに行かない?』

『一緒に、遊びに・・・・・・うん!!! これは、嬉しい感情だよ!! 私、嬉しい!どこかにクラスメイトと週末遊びに行ける、私、嬉しいよ!! ありがとう!!』


『お待たせ』

『うっす。・・・・・・どの映画が見たい?』

『私、映画を見たことがないからわからない』

『じゃあ、おれが連れてってあげるよ』


『どうやって、買うの・・・・・・?』

『この、タッチパネルで・・・・・・どの席がいい?』

『うーーーん・・・・・・ここの、席がいいかな。この席だったら、落ち着くかなって、思って』


『ねえ、ポップコーン、買おうよ』

『でも、私、味、感じないよ』

『多分、一緒に食べれば、美味しいって思うことができるよ』

『そ、そうかな。そっか、私、司からなら、感情を貰えるもんね。だったら、買ってみよっかな』


『美味しい!! 初めて、美味しいって感じたかも!』

『でっしょー!! 美味しいでしょ!!』

『うん! すっごく美味しい!』

 

『まもなく、第4スクリーン・・・・・・』

『ソニア、開いたみたいだ』

『開いた、って?』

『映画のスクリーンがだよ!』

『じゃあ、もう入れる、ってこと?』

『うん!一緒に行こ!』

『うん!』


『ねえ、司。ちょっとだけ、怖いんだけど』

『とりあえず、席に座ろう』


『・・・・・・ねえ、司』

『お、おう、ソニア』

『あのね。めーーーっちゃ、面白かった!楽しかった!!連れてきてくれて、ありがとう!』

『あとね』

『うん』

『映画が始まる前、手を引いた時、少しだけ、ドキドキした』

『そっか』

『いこ』

『うん。いこ』

 

『ソニア、次は、水族館に行こう。近くに、あるからさ』

『うん』


『わあ、魚がいっぱいいる!』

『本当だ! いっぱい!』

『司、この感情は、どんな感情なのかな?』

『楽しい、って感情だよ! さっき感じた感情!』

『ハハハ、楽しいね、司』

『うん、本当に、楽しい』


 

『楽しかった! 楽しかったよ、司!!』

『おれも、楽しかったよ! めっちゃ、楽しかった!』

『楽しいって感情って、いいね』

『うん、いいね』


『私、それと同時に、すごく、ドキドキしてるの。なんか、胸が苦しいみたいな』

『おれも。おんなじ感情』

『これって、なんていう感情?』

『幸せっていう、感情だよ』

『幸せ、かぁ。そっか。わたし、すごく、幸せだ』


『私、司のことが、好きだよ』


『おれも、ソニアのこと、好き』


『好き! 司、好き! 好きだよ! 好き! わあ、幸せ! この感情、教えてくれたの、司だよ!』

『そっか。おれも、ソニアのことが、好き!この感情は、おれも、実は知らなかったんだ!!』

『幸せ!とにかく、幸せなんだ。わたし』

 司のことが、好きだっていう感情も。それが、幸せだっていう感情も。

『ソニアに、おれは』

『うん』

『また、嬉しいって感情を、感じてほしい』

『嬉しいよ。今、とっても。そうやって思ってくれていることが、嬉しい』


『こ、これは……胸が苦しい。ドキドキする』

『どうしたの、ソニア』

『あなた、今、どんな感情になっているの?』

『おれは、今、とてつもなく悲しい』

『私も、今、とてつもなく、悲しい』

『待って!』

『私は、この悲しい感情から、解放されたい』

『それはおれも同じだよ。でもさ。おれは。・・・・・・こういう瞬間を耐えていかないと、生きていけないじゃんかよお』


『ねえ、どこ行く?』

『ごはん、食べに行こ』


『いらっしゃいませ、ご注文は後程でよろしかったでしょうか』

『あ、はい。大丈夫です』

『では、失礼いたします』


『私、ご飯は食べるけど、おいしいって、感じたことが、ないんだよね』

『そっか』

『どれが、おいしいかな?』

『うーん……。オムライスとか、どうかな』

『じゃあ、私は、オムライスにしようかな』

『おれは、ステーキにする』

 

『お待たせしましたー、こちらオムライスと、ステーキになります』


『食べてもいい?』

『うん、食べよ』


『わあ! おいしい! おいしいよ、司!』

『そっか、おれもおいしい!』

『私、幸せだなあ。司と、クリスマスに、こうやって遊べて』

『おれも、幸せ』


『わあ、きれー』

『ね、綺麗だねー』


『座ろ』

『うん』

 

『ねえ、ソニア』

『司?』

『おれ、ソニアのことが、好き』


『私も、司のことが、好き』


『私、この感情を、ずっと、取っておきたいな』


『ソニア、大丈夫だよ。大丈夫だからね』

『私は、大丈夫。死にたいけど、でも、幸せだよ』

『幸せ。おれも、ソニアといれて、幸せ』


『ここ、本当は立ち入り禁止なんだけどね、私たちだけで、独占して花火を観られる、特等席が、ここなんだよ』


 

『ねえ、司。私、幸せ』

『ハル、おれも、幸せ』


『司。私、司のこと、好きだよ』

『ハル、おれも。ハルのことが好き』


 ソニア……

 ハル……

 全部、思い出してくれたんだ!

「だから、司、ずーっと、これからも、ずーっと、一緒だよ!」

 ハルは、おれを抱きしめた。

「うん!!ずーっと、一緒!」

 おれたちは、満面の笑みで、笑いあった。


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