群青に沈む
シャンパンゴールドのカーテンが波打つように射し込んで、濃紺のさんご礁を群青に薄めていく。
お隣りの珊瑚たちの陽気なお喋りで、今日もわたしは目が覚めた。
このごろは夜が短いから、みんなの体の色が鮮やかな水色に映えてとても美しい。
わたしはこの景色が一番好き。どこを見渡しても全く同じ色の生き物はひとつもないから。誰とも違う形に生まれて模様のひとつもなくたって、生きていて良いって思えるの。
「ねえみんな聞いた?ウツボのやつが住み着いて来たらしいのよ」
わたしの横で、人魚ちゃんが声を落として話を振った。
「あいつらの恐ろしい顔といったら、一度見たら忘れられないわ」
「そうなの!緑色のサンゴにいるクマノミちゃんなんて、もう三日も寝込んでるって言うんだから」
ひっどーい、なんて言って、みんながそれぞれに同意。ぼーっとしてたら目立っちゃうから、わたしもこくこく頷いておいた。
わたしの朝はいつも決まって、人魚やサクラダイや、カサゴたちとの噂話で始まる。いちおう言い訳しておくと、わたしが聞きに行ってるんじゃなくて皆んなが話しに来るんだよ。
「みて!この前拾ったサンゴのかけら!とってもキレイじゃありません?」
「わあーっ、ほんとね!いいなあ」
「どこで拾ったの?」
「ばかねえ、ここに決まってますわ。ピンクのサンゴなんて他にいないわよ」
キラキラの珊瑚を光に透かして、ミノカサゴは得意そう。
「ようお似合いでありんす」
ひらひらのピンクのひれを見て、サクラダイがにっこり笑う。
優雅で友達をたくさん褒められる彼女のこと、わたしも好きだなあ。きっと心が綺麗な子だと思うの。
「サクラダイになら、緑色なんかが似合うんじゃない?」
「うんうん、きっと可愛いよ」
てっきり照れてくれるかと思ったけど、サクラダイはちょっと下を向いて口角を上げた。
「人魚さんも人間さんもありがとうござりんす。されど、わちきに飾られある珊瑚が憐れでおりんすから、生まれついたこの鱗だけでよろしゅうおりんす」
きれいな鱗をきらきら振って、サクラダイが微笑みかけたのはわたしだけ。
可愛いって言ったから、嫌だったのかしら。わたしが喋ると、いつも変な空気になっちゃうんだよね。
「でねー、聞いた?ホホジロザメがね……」
微妙な雰囲気を壊すように、人魚ちゃんが話を変えた。
この子のこういう所、尊敬してる。
わたしも人魚ちゃんみたいになれたらいいのに。そうしたら言いたいことも、思い通りに話せるのに。
「おっかないから出てけぇってさ、あの威勢のいいカニが怒鳴ったんですって。そしたら、あいつなんて言ったと思う?」
思う?なんて疑問形だけど、引っかかっちゃ駄目。子どもじゃあるまいし、これは当てっこじゃない。
「小さなカニなんか食べたって腹の足しにもならない、ですって!じゃあ私のことは食べるわけ?ほんとひっどいんだから!信じられない!」
ホホジロザメは、わたしや人魚ちゃんのことだって食べたりしない。もっと大きな魚じゃないと食べた気にもならないんですって。何もしないから安心しろって大口を開けて笑うような、豪快で包み隠さないところも好きなんだけどな。
それがダメなら、あの子はなんて言えばよかったんだろう。食べたりしないから心配するな?でもそれじゃあ、なんだかホホジロザメのせっかくのいいところが、すかすか透けて見えなくなってしまうと思うの。みんなはそう思わないのかな?わたしがヘンなのかしら。
「やっぱりあの子……」
だれかがまたひそひそ噂話を始めたけれど、今日はもうお喋りしたくないな。ホホジロザメのことばかり、胸の真ん中がなんだかもやもやしちゃう。
陽気で楽しいホホジロザメに笑い飛ばして欲しくって、わたしはそーっとお喋りの輪を抜けて、海がすこし深いほうへ泳いでいった。ホホジロザメはずっと泳ぎまわっているから見つかるかわからないけれど、もやもやしながらだまっているより、ずっといいよね。
ホホジロザメはさんご礁が好きじゃないから、わたしもいつも通り、青い青い群青色の沖をめざして泳ぐ。
浅い海は泳ぎづらいし、食べられないカラフルな魚ばっかりで目がチカチカするんだって。景色とかおしゃれとか、なんにも気にしないホホジロザメの、ちょっとガサツなところが落ち着くの。
今日はこのあたりにいるかな?こんな、気持ちがすっきりしない日は、むしょうに会いたくなるけれど。
「ようにんげん、今日はだいぶん出張ってきてんな。なーんかおれに相談か?」
「わ、びっくりしたあ」
後ろからぬうっとあらわれたホホジロザメが、わたしの肩に鼻先をのせる。
「ハハハッ、おめー本っ当毎回じゃなあ。芸がねえとか思わんのか、こんの不用心女」
「ホホジロザメってよく見てるよねえ。なんでいつも当てられるの」
まっ白い鼻にほっぺたをつつかれながら言ったら、ホホジロザメは豪快に、ふはははって笑った。
「今日も絶賛ぼんやり中だな。おめー相談でもねえと、わざわざ会いに来んだろが。おれだって寂しいんだぞぉ」
「たまには、ホホジロザメが来てくれたっていいんだよ?」
「嫌だわさんご礁なんか。人魚のやつらが、まーたぎゃあぎゃあ騒ぎ立てるだろぉ。おりゃ人魚は好かん。コソコソ悪口ばっか叩くやつは、相手にせんと放っとくのが一番だ。おめーはちゃーんと聞くとこが美徳だが、ああいうやつらにゃもったいねえわ」
「……うん。気にしない、気にしない」
ちょっと元気を出して笑いかけたら、ホホジロザメは十倍も笑ってくれた。
「おー、放っとけ放っとけそんなやつ」
「うん」
やっぱりすごく、心が軽い。
こんなふうに、自分でできるんだもんね。ホホジロザメってすごいなあ。
「ありがとう!」
「おうさ。いつでも来いよー」
「ホホジロザメ、いつもどこにいるかわからないもん。ずっと探してるんだよ?」
ふりむいて鼻の横をちょんとつつくと、ホホジロザメは大きな口をがばっと開けてガハハっと笑った。
とんがったギザギザの歯がいっぱい生えてる。あぶねえから近づくなよーって、釘を刺された大きい歯。
「ま、さんご礁じゃねえとこにいるわな」
「それが広すぎるんだって!大陸だなから出てったら、わたし帰ってこれないもん」
「んじゃ大陸だなにいてやるわ。泣きベソかいた誰かさんが探すってーからよ」
「泣いてないよっ!」
ぎゃーすか言いあらそいをして、追いかけっことか隠れんぼして遊んだ。
わたしが隠れた昆布の森、食いちぎって見つけられたのはすごかったなあ。
ホホジロザメはいつも仲良くしてくれるけれど、わたしとあの子とは大きさがちがいすぎるから、ずっと一緒には過ごせないんだよね。
ホホジロザメは体が大きいから、ずーっと泳いでないと息ができないんだって。わたしに合わせてゆっくり動いてくれるけれど、ほんとはすっごく速く泳げるんだよ。
優しいよねえ。あの子のいいところ。
ホホジロザメと別れたあとも、わたしはしばらく大陸だなを泳ぎまわってからさんご礁に帰った。
だってねえ、友だちに会ったら、お喋りしなくちゃいけないんだもん。さんご礁は目がちかちかするってホホジロザメが言ってたの、ちょっと分かっちゃうかも。
頭を振ってちょっとにっこり、口角を上げて家まで帰る。
かわいいでしょって譲ってもらった実つきの海藻、こんなにカラカラ騒がしかったかしら。念願の、だあれもいない部屋なのに、なんだかちょっと落ち着かない。
……しまっておこうかな。今だけ。あとでまた、ちゃんと飾るから。
来てくれた時に飾ってないと、不思議に思われちゃうしね。
ふわふわの水雲クッションを抱きしめて、やわらかい砂にごろんと寝そべる。
優しい波にゆられて、波のもようなんて描いたりして。
うん。最高。
ふはーって深呼吸して、目を閉じて波の音を聴く。
そうこうしていたら寝ちゃってたみたい。入り口の昆布が、がさがさーって鳴って目が覚めた。
「にんげんちゃんっ!!」
起きあがる間もなく、人魚ちゃんが飛びこんでくる。
人魚ちゃんって、見ためはわたしと似ているけれど、泳ぐとすっごく速いんだよね。マグロやカツオや、ホホジロザメとも変わらないんじゃないかな。
とにかくそんな速い人魚ちゃんが、イッカクみたいにわたしの部屋に突っこんできた。
「にっ、人魚ちゃん?!どうしたの?」
びっっくり、したあ……。
「朝急にいなくなったでしょう?何か変なこと言って、気を悪くしたんなら謝りたくって」
「そっ、そんな。いいのに。気にしないで」
むしろ今は、一人で寝てたいかも。
「そんな訳に行かないわ、私たち友だちでしょ?ちゃんと謝るのが、友だち付き合いの秘訣よ」
くりくり丸い大きな目でウインクして、人魚ちゃんは勝ち誇ったみたいに微笑んだ。
かわいいなぁ。
かわいくて、輝いてて、水面みたい。水面できらきら揺れる、光の網もようにそっくり。すごーく憧れて、行ってみたいって思っちゃうけど、届いちゃった場所は生きていける世界じゃない。
そんなとこが、そっくり。
憎らしい子なんだよね。
ぜんぜん嫌いじゃないけれど、なんだかちょっぴりみじめになっちゃう。温かくて、輝きつづける光みたいな子だから、わたしには眩しすぎるのかもね。色とりどりのサンゴだって、あんまり暑いと真っ白になっちゃうもん。
「それで追いかけてみたら、ホホジロザメになんか会ってるじゃない!もう私、にんげんちゃんが心配で……。もちろん盗み聞きなんかしてないわよ?ホホジロザメにバレたら私、食べられちゃうんだから!」
「心配だなんて、ホホジロザメはそんなことしないよ。さんご礁の生きものはどれも小さすぎて、食べる気にならないんだって。それに、さんご礁の海は浅すぎて、ホホジロザメは入れないって言ってたよ」
聞いてもらえないかもしれないなって、ちょっぴり不安だったけれど、人魚ちゃんはわたしが話し終えるまで聞いてくれて、目をまん丸くしてびっくりしてた。
「まあそうなの。じゃ、さんご礁から出なきゃ安全なのね!」
「ホホジロザメは、危なくなんか」
「ありがと、にんげんちゃん。みんなにも知らせてくるわ!」
「に、人魚ちゃ……」
待って、って言ったけど、人魚ちゃんはものすごいスピードで飛び出していっちゃった。まだまだ言いたいこと、たくさん残ってたのに。
人魚ちゃん、ちょっぴり思い込みが激しいとこあるから。明日になったら、どんな話になってるんだろ。憂うつだなあ…………。
結局、トップスピードの人魚ちゃんが吹き飛ばしていった砂や、海藻のカーテンなんかを片付ける気になれなくて、もくもく立った砂ぼこりの中で水雲に突っ伏して寝ちゃった。
だから、朝起きたわたしの体には、いっぱい細かい砂が積もってる。
「はあ…………」
昨日の朝のさわやかな目覚めがウソみたい。
いつもわたしの家にみんな来るし、こんな状態を見られたら、また何か言われるんだろうなぁ。散らかしたの、人魚ちゃんだけどな……。
「ねえちょっと、聞いてよみんなー」
ほら、やっぱり人魚ちゃんが話してる。
わたしと話してないんだし、わざわざここに来なくても……なんて、良くないよね。せっかく来てくれてるんだから、喜ばないと。
あんまり嬉しくないけれど。
「にんげんちゃんったら、またホホジロザメと会ってたのよ!」
「嘘ぉ。よく近づけるわねえ、あんな恐ぁい生きもの。あたし卒倒しちゃうわ」
「ほんとよ〜!」
やだなあ、寝たふりしてよう。まさか起こしには来ないだろうし……。
聞こえてるのに陰口言われるのも、いやだけどね。
「わたし、にんげんちゃんが心配で教えてあげたのに……。あの子、ほとんど泳げないのに、警戒心もないなんて!狙われたらどうするの?海の生き物じゃないのに」
……え?
わたしの体から、ぼこぼこっと泡が立ちのぼる。
わたし、海のいきものじゃない?
わたしだって、ここにいるのに。海に住んでちゃいけないの?
ぼこぼこぼこっと、また大きな泡が立つ。
泳ぐとぼこぼこ、泣いたらぽこぽこ、息をするだけでぽこぽこぼこぼこ。
ああ、だからわたし、いつもどこにいたって見つかっちゃうんだ。どこにいたって泡だらけだから。
あふれたはずの涙は、あっというまに浮き上がってのぼっていく。
わたし……、わたしの中身は、空気なんだ。あの水面に出ていかなくちゃならないんだ。水じゃないから。
海の中にいたらだめなんだ。
でもわたし、ずっとここに住んできたの。わたしだって、海に住んでるいきものだって言えるはず。
お魚が色とりどりなみたいに、わたしだって、みんなと同じじゃなくてもいいはずで。
落ち着こうって、はあっと息を吐く。
泡が、ぼこぼこ大きく音を立てて昇っていく。
だいじょうぶ、大丈夫。わたしは、わたしなんだから。ホホジロザメも言ってくれたじゃない。人魚ちゃんの言うことを、丸呑みにして信じなくていいんだって。
「どうもこうもありんせん、にんげんさんはもう狙われておりんす。ホホジロザメは、もともとが「ひとくいざめ」でありんしょう」
「そうよねえ、いくら海に住んでたって、にんげんちゃんは、ひとだもんねえ。それにしても、ホホジロザメも芸達者ねえ」
「餌なら早く食べたらいいのに。友達ごっこなんてばかみたい!」
「ホホジロザメの頭の中なんて、わたしたちに分かるわけないわ。あいつ、どう見たって普通じゃないもん」
からだに詰まったいろんなものが、ガラガラ音を立てて崩れてく。
そんな、そんな。
目もとから、細く細く泡が昇る。
…………そんなわけ。
ホホジロザメはいつだって、嫌なことぜんぶ笑い飛ばしてくれて、ばかなわたしのこと、支えてくれて。
会いたかったはずのホホジロザメに、今はぜったい、会いたくない。
あの鋭い歯、危ないから触るなよって言ってくれたのも、うそ。ほんとは、大けがして死んじゃえばいいなんて思ってたの?
わたしのこと、おいしそうなのずっと我慢してたの?
嘘だ嘘だ嘘だ嘘だうそだ嘘噓噓噓噓噓噓噓噓噓嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘…………
…………うそつき。
もうなんにも聞きたくなくて、家の裏から飛び出した。
ぽこぽこぼこぼこ泡を立てて、ぶくぶくぷくぷく沈みながら、どことも決めずにただ泳いだ。
わたしの泳ぎがへたなのも、わたしがこうして沈んでいくのも、全部ぜんぶ人間だから。
炭酸水みたいに、か弱い泡がどこまでも昇る。
沈んでく。見上げれば群青いろ、脚のさきにはくろい闇。伸ばした手は泡も掴めなくて、わたしの体は、群青の煮凝りに食べられていく。
だれか笑ってよ。だれか、わたしにかまって。わたしを愛して。
いらないなんて言わないで。わたしはにんげん、だからなに。お魚たちだって、人魚ちゃんだって、みんなちがう見ためでしょう?なんでわたしだけ追い出されるの?わたしだって、海のいきものなんだよ?
あのおそろしい水面から、出ていけないんだよ。追いださないで。
ぷく、ぷくく、ぽこ。
しらあいの海にはサンゴがあった。でも、くろい海には底がないんだね。
細く長く立ちのぼった泡も、落ちていくうちに枯れちゃった。
空っぽのわたしの中が、重い水でいっぱい詰まったのかな。
くろばっかりのわたしの目に、懐かしい海の色がかがやいている。
マリンスノーっていったかな。ホホジロザメが、あのこわい歯をむき出しにして、いつか教えてくれたっけ。
そうっと手を伸ばす。
……わたしも、仲間に。
わたしも雪になりたい。きらきら輝く雪になって、絶望の底へ、希望を振りまいて沈んでいきたい。
なけなしの期待をいっぱいのせた腕が、ぶつっと切れる。
…………え?
まっくろで長い、刃物みたいなするどいひれ――
………………ねえ。
腕はひとくちに飲みこまれて、わたしは海溝へ沈んでく。
深く、ふかく。
くろく、黒く。
……だれか、あいして。
まっくろな海が、もも色の心臓をとぷんと染める。
……ねえ。
ごぼりと一つあぶくが昇り、わたしはだれにも見えなくなった。