有働治
「これ、有働先生ですよね」
昼休みの生物教室。
新聞部員の女子生徒が見せてきたのは古いローカルペーパーで、見開きには丸尾花と自分の名前が踊っていた。
子どものふたりがそれぞれピアノに向き合っている。丸尾花はピアノには漫ろで、観客席の方に意識がいっている。自分は真剣そのものだが、彼女とはまた似て非なる焦りが隠れ見える。
「先生、ピアノ弾けたんですか?」
「昔はね」
渋々、俺は認めた。
「病気で弾けなくなったんだ」
言外に、深入りするなというニュアンスを込める。
果たして微妙に伝わらず、女子生徒はもうひとり、幼い天才に水を向けた。
「丸尾花って、あの世界的なピアニストのですよね! テレビで見ました!」
昨夜放送されていたバラエティ番組の名前を出して、女子生徒は黄色い声をあげた。
「いまどきの学生は、あまりテレビを見ないもんだと思っていたよ」
苦笑し、クリーム色のコーヒーを一口啜る。コーヒーは砂糖もミルクも多めが好みだが、いまばかりは何も入れないコーヒーが飲みたかった。
「知り合いだよ。話したことも昔はあるけど、一緒に遊んだとかもないし、話せるようなエピソードもない。連絡先も知らないな」
残念そうに肩を落として、女子生徒は教室に戻っていった。
背中を見送る目は、我ながら冷めていたと思う。準備室から顕微鏡を持ち出し、長机の上に並べる。次の授業がある。
準備をしながら、俺は中学生の頃のことを思い出してしまった。
中三にあがる春休みのことだ。
兄貴は日本でトップといえる大学に進み、スキー部の姉貴はインターハイで全国でも有数の成績を収めていた。
親は子どものこと全般に淡白だったけれど、この時ばかりは子どもふたりを誉めそやした。
居た堪れなくて、早々にピアノ部屋に閉じこもった。
防音の施された部屋にはアップライトピアノ。上の兄姉が使い始め、いつか自分専用となった愛器だ。
「くそっ」
誰に聞かせるでもなく吐き捨てて鍵盤を叩く。不愉快な、音とも呼べない音が鳴る。
気が立っている。
心を落ち着かせるために椅子に座り、深呼吸をして指を置いた。
何か弾こう。
そう思うと同時に弾いていたのは、ラフマニノフ編曲『熊蜂の飛行』だった。好きな曲だ。高速パッセージ。分かりやすく技術を聴かせられる。
その日初めてピアノを弾く時、まず弾く曲がこれだった。
今日も指は動く。その確認。ショパンもシューマンもリストも、もっと古いものでももっと新しいものでも、指が動かないといけない。
ふと丸尾花の顔が浮かんだので、俺は首を振って残像を振り払った。
同い年で、同じピアノ教室に通っている。意識せざるを得ない相手。
直接会ったことはあまりない。だいたいがコンサートなりコンクールなりの演奏の場でだからだ。
人前で演奏する時に異様にボロボロになってしまう性質らしい。あがり症というやつだ。普段は神がかり的な演奏をすることもままあるらしいが、正直、あまりうまいと思ったことがない。
それでもあいつの演奏は、どこか人を惹きつける魅力があった。
それが何かはよくわかっていない。
ただ、俺はあいつの陰だ。あいつがいる前では、俺はいつも二番手でいる。そう評価されている。
悔しくて仕方がないが、認めざるを得ない。そう自覚している自分にむかっ腹がたつ。
一番にならなくちゃ。
なんて子どもっぽいだろうか。
防音されて何も聞こえないはずの扉の外から、団欒する家族の声が聞こえる気がしている。勉強でも運動でも、兄貴や姉貴には勝てなかった。ふたりが飽きて、俺が上手くなったのがピアノだった。
余計な気を回している。
弾かなきゃ。
俺はなるべく無心になって、同じ譜面を繰り返した。
その次のレッスンで、
「こんにちは、有働治くん。あたし、丸尾花っていうの。よろしくね」
先生の都合でレッスンの日がズレて、俺の後に練習が入ったのだという。「早く来ちゃった。見学してもいい?」と馴れ馴れしく教室の保護者席に腰掛けたあいつは、リスみたいに大きな目をしていた。
レッスンはつつがなく、いつも通りに終わった。
「ちょっと力んでいたでしょう? リラックスして」
「はい」
丸尾花がいるということで少し集中を乱されていたのだろう。そうはなるまいと思っていたが、甘かった。
未熟さを痛感して歯噛みする俺は、続く丸尾が鍵盤に触れた瞬間に雷に打たれたような衝撃を受けた。
なんだこれは。
弾いていたのは『熊蜂の飛行』。俺が弾いていたものと同じだ。
だけどまるで違う。
技術のみに執着して曲の魅力を表現できていないこと、それがありありと分かってしまう演奏だった。
神がかり的。
あいつの演奏は間違いなくそれだった。
演奏が終わる。
思わず詰め寄っていた。
「どうしていつもそう弾かないんだ!?」
あいつは硬直し、えーっと言って視線を彷徨わせた。
「いつも同じように弾いているつもりなんだけど……」
モジモジと指先をつき合わせている。
「曲がこう弾いてほしいって、譜面を見て弾いてみるうちに伝えてくるでしょ? それをあたしはなぞっているだけなんだよ」
ふざけていないのは表情で分かった。
二の句が告げず、黙ってしまう。
不思議そうに小首を傾げながらあいつはレッスンを再開した。
どの曲も笑えてくるほど圧倒的で、ミスタッチなんて尚のこと、曲想が風景として瞼の裏に浮かんでくるようだった。
『熊蜂の飛行』にしてもそうだ。
あいつの『クマバチ』に比べたら、俺なんて飛べずに地面を跳ね回っているアリも同然だった。
「聴けてよかったよ」
本心からそう言った。心のどこかで、俺を支えていた柱が折れたのが分かった。
だからって、追いつけないわけじゃないはずだ。
練習は欠かさず毎日行った。休みの日は朝から晩までずっと。
だから、その夏、指が思うように動かなくなっても、はじめは「疲れてるのかな」としか思わなかった。
まずは右手の人差し指と中指が攣ったように動かなくなり、続いて薬指。左手もしだいにもたつくようになった。
ピアノを弾く以外だと別に支障はなかった。腕自体に違和感もない。ただピアノを弾こうとするとダメだった。
鍵盤に触れることが怖くなった。
俺の様子が妙だったのだろう。
親に見つかって、とうとう白状させられた。
親が医者だったのが幸いした。
両親の問診と資料の捜索。局所性ジストニアという病名を教えられた。
リハビリか、あるいは手術をすれば弾けるようになるかもしれないという。
「治の希望通りにすればいい。ただ、お父さんたちとしては、手術をしてまでお前にピアノを弾けるようになってほしいわけじゃない。外科手術には一定のリスクが付きまとう。医者としては、日常生活に支障がないのに開頭手術をするのは、リスクと見合ってないと思う」
「別にピアノが弾けなくたっていいの。あなたが元気でさえいてくれたら。まだ中学生で、大切な時期でしょう? リハビリにしても、長い期間を苦しんで。色々な選択肢が広がっているじゃない」
父と母が真剣な目をして俺に語りかけてくる。ああ、何をしょうもないことに意固地になっていたのだろうかと思った。
「俺はもう大丈夫だよ。そりゃあショックはショックだけどさ」
ピアノの前に座り、俺は両親に向かって首を振った。指が白鍵に触れて音を鳴らす。
「俺、ピアノやめるよ」
俺の脳裏には、この時、丸尾花の顔が浮かんでいた。
「……そうか」
母が俺を抱きしめてくれた。その瞬間、ふっと肩の荷が下りた気がした。
そうだ。あいつはどこまでも先へ行くだろう。空を舞うように自由に音楽をするだろう。
俺はそうじゃなかった。ただそれだけだ。
そうだろう?
じゃあ、それなのに、どうして俺は、涙を流しているんだろう。
有働治/生物教師
エピローグに続きます。
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