はらい主の神社 上
ネオン街から少し離れた所。住宅街の暗い夜道を、1人のやつれた男性がトボトボと歩く。
疲れが溜まっているその顔は、終電ギリギリの時間まで、会社で働かされていた事が伺える。
「ちっくしょ。あの上司……なんでいっつも夕方に小言を言って、仕事を押し付けてくるんだよ……同僚も御愁傷様って顔でよぉ……ったくよぉ。俺は何の為に働いているんだ……」
独り身で、扶養家族と居ない男性は、フラフラとした足取りになっている。何も今日だけの事ではなく、男性は毎日のようにこんな時間まで働かされている。
「『公務員は良いね、給料も良いんだろう』とかさ……現実見てから言えよ。お前達より安いよ……くそっ。何の為に、必死になって公務員試験を取ったと思ってる。安定した生活を、可愛い奥さんと家族を手にする為なのに! もう40過ぎだ……はは。何だこの世の中は……」
口から溢れるのは、常にそういった不満ばかり、しかも独り言を言っているのに無意識だ。
すると、男性が歩く住宅街の通りの脇に、突然神社の鳥居が見えた。ここは良く通るが、こんな神社は見え覚えが無い。他の神社の鳥居よりも赤いなんて、こんな所には無かったはず。
「疲れて幻想か? いや、ちょうど良いや。神頼みしておかないと、やってられねぇや。それと、何か行きたくてしょうがないんだよなぁ」
フラフラとその鳥居を抜け、先にある階段を上がる。
すると、こじんまりとしているが、小さな社が見えてきた。一応柄杓で手を洗う場所と、絵馬を飾る所、更には社務所のような建物もあった。
とは言え、広さ的には公園程の広さしかない。
「良いことが起こるように、神頼み……か。最近初詣にも行ってないしな。どれどれ……」
とにかくお参りを――と思ったが、賽銭箱はなかった。代わりに、社の前には血の様に赤い絵馬が置いてある。
「なんだこりゃ?」
不気味なその絵馬に、男性は冷や汗をかく。ここはもしかしたら、立ち寄ったらいけない場所だったのかも知れない。
「ようこそ、お参り下さいました」
「うぉわっ!?」
その時、男性の後ろから突然女性の声が聞こえ、その男は悲鳴を上げてしまった。
それもそのはず。さっきまで誰も居なかったし、社務所に明かりも点いていなかった。誰も居ないし、そんな気配もなかったのだ。
それなのに、男性の後ろには巫女服姿の女性が立っていたのだ。
「あ、あんたは……?」
「あら、堪忍え。驚かしてしもた。ここは『はらい主』のおわす神社や。私はその巫女や。あんたはん、何か恨みを晴らしたい相手はおるかえ? その負の感情、持ってたら良ぉ無いから、その絵馬に書きなはれ。代わりに晴らしたるさかい」
その巫女の女性は、腰までの長い艶のある黒髪ロングヘヤーで、前髪は綺麗に切り揃えられていた。それがまた、切れ長の目を映えさせていて、怪しさと凛とした雰囲気の両方を醸し出している。
スタイルも抜群で、良く風俗に行く上司には受けそうな程に、豊満なボディをしている。
「う、恨み……?」
「そうや。恨みや。ここはその恨み晴らしを、二束三文で引き受ける場所や」
京言葉を使う巫女は、戸惑う男性に向かって、にいっと口の端を上げ、挑発的に話しかけてくる。
「なんや? 怖いんか? 恨みは誰だってあるさかい、恥ずかしい事ちゃうえ。単純にまじないや、まじない。何も本当に何かが起こるわけやない。ただ、その強い恨みをここに吐き出し、浄化さすんや」
「そ、そうなんですね……でもそんな神社、こんな場所にありましか?」
やはり恐怖の方が先立つ男性は、辺りを見渡し、この神社がこんな所にあっただろうかと、必死に思い出そうとする。
通勤で長年通っているのに、こんな神社はやはり見たことがない。
「あの、やっぱりちょっと――」
とにかくここから去るべきだ。
異様で異質。
男性は、脳から出る「逃げろ」という信号に、素直に従おうとする――が、巫女の女性の目が怪しく赤く光ると、男性の中にある不満が、一気に爆発してきた。
職場の上司の男性の、その横柄な態度に、むちゃくちゃな業務の振り分けに、自分にばかり仕事を押し付けてくること、当たり前のように残業をさせ、その残業代を払ってこない事。
しかも、税金で出る役所からの経費で、毎週末には飲み歩き、いかがわしい店にまで行っている。
さてそうなると、恨みつらみは募り続け、我慢出来るものではなくなる。
別に絵馬に書くくらいなら、ちょっと愚痴る感じで、絵馬に書いてスッキリするなら。御祓のようなものなら……やっても良いかも。と、男性は考えた。
「その絵馬、下さい」
「はいな。お賽銭の額と同じで良ろしおすえ」
「えっ……と、つまり5円だけでも?」
「5円でも10円でも100円でも、二束三文で受けますさかい。ええご縁はありますえ」
それくらいで良いのなら、本当にただ単に悪い感情を清めてくれる、そんな神社なのだろうと、男性は確信していた。
そして絵馬を買った男性は、そこに上司の名前を書き記し、社の前に奉納すると、巫女から教えられた通り、二礼二拍手一礼をし「この恨み、晴らして下さい」と言った。
もちろん、その直後に何かが起きる訳ではなく、静寂なその場は変わりなくあった。
ただ、男性は意識が朦朧としだし、そのままその場で寝入ってしまったのだ。
「おおきに。その恨み、しっかりと晴らして頂きますさかい、その後で――」
巫女はそう呟くと、臀部辺りからピョコリと狐の尻尾が、頭からも狐の耳が飛び出し、右手を狐の影絵みたいな形にすると、目を細め、怪しい笑みを浮かべながら男性を見下ろしていた。
「こぉ~ん」
しかし、その声も彼女の姿も、もう男性は確認する事は出来ず、気がついたらとっくに朝になっており、しかも自分の部屋で寝ていた。
「あれぇ?」
しかも、帰っている時からの記憶は無く、部屋に帰ってきてからの動きも思い出せなかった。
ただその手には、狐の顔の描かれたお守りを握っていた。それも、血の様に真っ赤な……。