星に手を伸ばして
殿下、わたくしあなたの事が大好きで大好きで大好きです。
「レア嬢への暴虐の数々、もはや看過できるものではない。……あなたとの婚約は破棄させてもらう。…………なぜ、こんな事を……」
愛しております。
だから、どうか、
「マリエール、あなたを公爵家から追放する。それがあなたの罪に対する罰だ……どこへなりとも行くが良い」
「……わかりましたわ。殿下、」
どうか殿下、
「どうか、お幸せに」
◇
「まぁ、なんて綺麗なんでしょう!」
わたくしの頭上には一面満天の星空が煌めいています。お気に入りの星空を描いた風景画……それと同じ場所に今立っているのです。
ここに来て良かった。
星空を遮る物がない、海に面したなだらかな崖の上。その遥かには水平線が望めます。
今は夜。空と海の境界が曖昧になったこの場所でなら、あの一番大きな星にも手が届くのではないかと錯覚します。
けれど、星に手が届く事はないのです。
あの一等星は、わたくしにとっての殿下でした。
幼い頃から婚約者としてお傍にいた殿下。
けれどもあなたは遠い存在でした。
交わす言葉は少なく、その目にわたくしを映す事はほとんどありませんでした。
そんな状態が何年も続いていたのです。
それでも結婚すれば、王と王妃と言う立場になれば、何かが変わるはずと思い、わたくしは妃教育に打ち込んでいました。逃げていたのです、彼と向き合うことから。
その代償は突如としてわたくしの目の前に現れました。
レア・ダルトワ侯爵令嬢。
幼い殿下の最も近くにいたご令嬢で、わたくしが婚約者になる前の婚約者候補。
世間では彼女は死んだものとされておりました。野盗に襲われその短い命を散らしたのだと。しかし実際は、政敵に命を狙われた為に、身分を隠し侯爵領の奥地で平民に紛れて暮らしていたそうです。思えば侯爵だけは、彼女の事を行方不明とだけおっしゃっていました。
そうして、身の危険が去った事を確信した侯爵は、彼女を侯爵家に復帰させ社交界に出したのです。
殿下は彼女の存命をご存知なかったようで、初めて夜会で彼女にお会いした時、とても驚き、そしてとても嬉しそうにしていらっしゃいました。
その後もわたくしの知らない顔で、殿下は楽しそうにご令嬢と親しくなさっていたのです。
何度も、何度も。どこにいてもどんなパーティに出ても。
その度にわたくしは身を焼くほどの嫉妬に駆られました。
あの方が憎い。あの笑顔はわたくしには向けられないのに。何故婚約者でもないあの方が彼の傍にいて、わたくしは一人寂しい思いをしなければならないのでしょうか。
ですがわたくしは気付いてしまったのです。
わたくしが婚約者の座にいる事、それが間違いなのだと。
真実彼が婚約者に望んだのはあの方で、彼が愛しているのは、あの方……。
そう、気付いてしまったのです。
悲しみに身を引き裂かれるようでした。
痛みに嘆く心でも、それでもわたくしの気持ちは変わりませんでした。
彼が好き。大好き。愛しています。
だからわたくしは、ただ彼の幸せを願って身を引くことにしたのです。
彼は優しい。
望まぬ婚約者にも義務を果たしてくださっていました。恒例のお茶会に夜会のエスコート……心無くともわたくしには大切な思い出です。
優しい彼はきっとわたくしに遠慮して婚約を破棄するなどなかなか言えないでしょう。
あの令嬢は人気がありましたから、うかうかしていれば他の殿方に奪われてしまいます。
わたくしに考える余地などありませんでした。
彼女を虐げ嘲り危害を加え、わたくしは殿下の婚約者に相応しくないと様々な場で印象付けました。
彼女に対する嫌味が決して本心で無かったとは言いません。
わたくしから殿下を奪っていくのだから、この程度の痛みくらい受けるべきだと思っていたことも否定しません。
わたくしは醜い女なのです。
そしてそんな醜い女に相応しく、殿下は大勢の前で婚約破棄を宣言されました。
望まれざる婚約者は退場し、真に愛する方と晴れて婚約なさるのです。
あの婚約破棄の場でも、彼女は殿下の隣で気丈にわたくしを真正面から見ておりました。
彼女は強く、また貴族の暮らしと平民の暮らし双方を知っているので良い妃となるでしょう。
そして役目を終えたわたくしはただ一人、この崖までやって来たのです。
恋焦がれた一等星は手に入らなかったけれど、せめてこの景色だけは実際に見て、この目に焼き付けたかったのです。
あの風景画は公爵家の部屋に置いてきてしまったので、もう二度と見れないのですから。
崖の端まで行くとそこに広がるのは空と溶けた海ばかりでした。
大地は無くただ満天の星空だけ。
そして頭上に輝く一等星。
ああもしこの星空に身を投げたなら、あの星を手に入れられるのかしら?
そう思い、身を乗り出した時でした。
「マリエール!!」
もう二度と聞く事はないと思っていた声。
ああ、わたくしは夢を見ているのでしょうか?それとも、この星空が見せた幻?
振り向いた先にいたのは恋焦がれたあの星でした。
最後に見たあの時よりもくたびれて所々が汚れてしまっていますが、彼の銀の髪はそれでも尚、頭上の星に負けぬほど輝いておりました。
「殿下……?!なぜここに……」
彼はそれに答えずこちらへ近付くと、崖に手をついてうずくまっていたわたくしの腕を取り立ち上がらせ、
「君は……!何をしようとしていたんだ……!」
とおっしゃいました。
その顔は怒っているようでしたが、焦燥と、何故か痛みに耐えているかのようにも見えました。
「わたくしは……ただ……星に手を伸ばしただけで……」
「星……星か……」
「それより殿下はどうなさったのですか?!そんな格好でお一人で……!」
王子殿下であるはずの彼は何故か平民のような服を着て、そのところどころに傷みと汚れが目立ちます。とても彼がするような格好ではありませんし、周囲に護衛のいる様子もないのです。なぜ、彼がこのようなところに……
「手紙を読んだんだ。あの、貴方の部屋に飾られた星の裏から見つけた手紙だ。」
────!
それは……わたくしの最後の賭けでした。
もしそれを誰かが見つけてくれたのなら。殿下がそれを読んでくれたのなら。そしてわたくしの気持ちを知って、わたくしを選んでくれたのなら……
そんな夢を見てしたためた手紙でした。
それを部屋の、ここの風景を描いた絵画の裏に隠しておいたのです。
そう、まるで星に願いを託すように。
それがまさか本当に手紙を見つけてくれるなんて。そしてこうしてわたくしを追って、目の前に現れてくださるなんて……
「君には……謝っても謝りきれない。私のせいで君に罪を重ねさせてしまった……」
そう言って殿下は、ほんとうにすまないとわたくしに頭を下げました。
何という事でしょう。ここにはわたくしと殿下しかいないとは言え、次期王太子が軽々しく頭を下げるべきではありません。ましてや、今のわたくしは……
「おやめください殿下!今のわたくしは何の地位も持たない平民です……!あなたに頭を下げてもらう価値などわたくしには無いのです……!」
「いいや、それを言うなら私もだ。あなたに殿下と呼ばれる価値も、あなたが慮るような価値も無い男だ。」
「何を……」
頭を上げ、こちらを真っ直ぐ見つめる殿下の目には強い意志が宿っておりました。
真剣そのものの瞳。婚約者であった折、わたくしはついぞそのような目で真っ直ぐに見つめてもらった事はありませんでした。
これは星空が見せた夢なのでしょうか。
「私は追放された。王位は弟が継ぐだろう。今の私はあなたと同じ、ただの平民だ。」
「な、なぜそのような事に!」
「私は、あなたが犯した罪の共犯者だと王に進言したんだ。いや、共犯者というより主犯かな、君を罪に駆り立てたのは私なんだから。」
「何を……おっしゃっているのですか。」
罪を重ねたのはわたくしが勝手にした事。
殿下を幸せにする為に。なのに何故それで彼が王位継承権を剥奪されねばならないのでしょう。あまつさえ王族という身分までも。それでは殿下がレア・ダルトワ侯爵令嬢と幸せになる事ができないではありませんか……!
「マリエール、私が愛しているのは、あなたなんだよ。」
わたくしの手を取った彼はわたくしの目を見たままそう告げました。
今彼はなんと言ったのでしょう?
まさか、そんな都合の良い事があるはずありません。
「嘘……嘘ですわ。殿下がそんなはず……ああ、やはりこれは夢なのですね……」
「マリエール!」
「だって、殿下はわたくしと居てもつまらなさそうで、わたくしに声をかけてくださる事も、ましてや笑顔を向けてくださる事もなかったではありませんか。わたくしとろくに目も合わせようとしなかったでしょう……?」
「ッ……!……それは……!」
「だからわたくしは、殿下を幸せにする為に身を引いたのに……」
そう口にすればする程、身体から熱が奪われていくようでした。心が冷えていくと身も震えるのでしょうか?ましてここは夜の海。ただでさえ冷えると言うのに。
その冷たい風がわたくしを攫っていくのを阻むかのように、突然全身が温かさに包まれました。
「嘘でも夢でもない!私はずっと、君だけを愛していた!あなたが傍にいると緊張してろくに話しかけられなかったし、あなたのその深い海のような美しい瞳を正面から見る勇気もなかったんだ……!」
わたくしを抱きしめた殿下はそう叫ぶように告白してくださいました。
殿下の言葉を裏付けるように、抱きしめられた胸元から彼の心臓が早鐘を打っているのが聞こえてきます。
ああ、まさか本当に彼は……
その温もりを確かめるように、おそるおそる彼の背に手を回せば、ピクリと彼が緊張したのがわかりました。
「ま、マリエール!すまない!その……急いで来たから身だしなみが……匂いはその……ああ、いや、あなたに汚れが移ったりとかはしていないよな?」
なんて、わたくしを引きはがしながら殿下は目に見えて狼狽えはじめたのです。そんな殿下が珍しくて、わたくしは張りつめていた気持ちがゆるむように自然とほほ笑んでいました。
「ふふ、殿下。汚れているのはわたくしも同じですわ。それにもう、貴族でも無いのですからそんな事気になりませんよ。」
「……あなたの、そんな笑顔は初めてだな。」
思わず笑みがこぼれたわたくしを呆然と見つめていた殿下は、そう言ってふわりと笑ったのです。
その笑顔は今まで見てきたものとは全く違っていて、わたくしは顔に熱が集まるのを感じ、思わず彼から目をそらすように俯いてしまいました。わたくしはきっと今、とても恥ずかしい顔をしている、そう思ったからです。
けれど優しく頬を撫でるようにした殿下の手が、わたくしの俯いていた顔を上げさせました。眼前にはとても嬉しそうな彼の顔。
「あなたには完璧な姿しか見せたくなかったんだ。……それが、どれだけ愚かな事だったか今わかったよ。」
「殿下……」
「どうか、フォマローと呼んでくれないか。」
「……っ……フォ、マローさま、フォマロー様……!」
わたくしの朱に染まっているであろう顔は、嬉しいやら恥ずかしいやらできっとぐちゃぐちゃになっているのでしょう。けれどわたくしにはもう感情を隠す術などないのです。もう淑女の仮面などは必要ないのですから。
思いが溢れるようにわたくしの頬を涙が伝いました。
そんなわたくしに殿下は、いいえフォマロー様は、とても愛しいものを見るような笑顔を返してくださるのです。
こんな風に彼に全てを曝け出し、受け入れてもらえる日が来るだなんて、あの頃のわたくしには微塵も想像できなかったことでしょう。
「マリエール。」
彼はわたくしの手を取るとその場に跪かれました。そして、
「もう私には何も無い。地位も財産も。それでも私を……いや、僕と共にこの先を歩んでくれますか?」
と、そうおっしゃったのです。
わたくしは止めどなく溢れる涙を拭う事もせず、ただ「はい」と返事をするのが精一杯でした。
フォマロー様はそんなわたくしをそっと抱きしめてくださいました。少し遠慮がちなその抱擁に、まだ汚れの事を気にしていらっしゃるのかしらと、思わずくすりと笑ってしまいました。
きっと、わたくし達はあのまま何事も無く、貴族令嬢と王子として過ごしていたらこの様に心通わす事はなかったのでしょう。
何もなくなったわたくし達ですが、その代わりにただ一つ真に心から欲したものを互いに手に入れる事ができたのです。
わたくしは彼の背に手を回し、この手で強く強く彼を抱きしめました。
今度こそしっかりと、離れないように。