現代病床雨月物語 第三十話 「司馬遼太郎氏が 書かなかったこと(その二)」 秋山 雪舟(作)
司馬さんは、明治後期の「坂の上の雲」の時代以降の乱世・変革期の小説は書かなかった。専ら「街道をゆく」の紀行文に力を注いでいた様に感じます。
なぜ一九〇四~〇五(明治三十七~三十八年)の日露戦争以降は書かなかったのか、それ以降も日本は、一九三一年(昭和六年)の柳条湖事件や一九三七年(昭和十二年)七月七日の盧溝橋事件を契機とする日中戦争や一九四一年(昭和十六年)十二月八日に始まった太平洋戦争(第二次世界大戦)とその後に訪れる人類始まって以来の原子爆弾の投下、八月十五日のラジオによる天皇の玉音放送等。世界的な常識では九月二日の無条件降伏文書への調印(署名)が太平洋戦争(第二次世界大戦)の終決であります。この時、調印(署名)をしたアメリカの戦艦ミズーリ号の甲板には当時のアメリカの星条旗と共に幕末ペリー提督時代のアメリカの星条旗も用意されていたと言われています。このことは日本の有史以来の歴史的な出来事です。
この時代を司馬さんが書かなかったのは司馬さん自身が軍人として従軍し敗戦を経験したからです。それは生々しく誰もが経験してしまった未曾有の身近な出来事だったからです。社会には戦争の犠牲者・負傷者・戦災孤児・戦災未亡人等々が大勢存在したため書けなかったのだと思います。
司馬さんは軍人として従軍した自分ではなく次世代の人にそれを託したのだと思います。
時代が令和になり昭和が遠くに感じます。ですから冷静に昭和時代を振り返り検証できる環境は整ってきています。
しかし司馬さんが書かなかった時代も断片的には多くの作家がその時代の風を作品に込めて書いています。例えば、戦後千三百万部を超える大ベストセラーとなった五味川純平さんの「人間の條件」や遠藤周作さん・城山三郎さん・野坂昭如さん。現在活躍中の浅田二郎さん。また山岡荘八さんの「小説太平洋戦争」等々、多くの作家が当時の風を読者にあてています。
私は、日露戦争と日中戦争・太平洋戦争(第二次世界大戦)との大きな違いは日露戦争までの日本が目指してきた事とそれ以降の戦争では大きく違う事です。それは世界における日本の位置もまったく違うからです。日露戦争時の日本の目的は明治維新以降の不平等条約の解消でした。具体的には第一に関税自主権の獲得でした。また外国人が日本国内で起こした事件・事故に対しての裁判権の確立でした。日本は日露戦争に勝利した事により一九一一年(明治四十四年)にやっと欧米列強に認められこれらの権利を獲得します。その後、アメリカ大統領ウィルソンの提唱により一九二○年(大正九年)国際連盟が発足しました。発足時にはアメリカは自国の国内問題で加入できませんでした。国際連盟の発足時は四カ国(イギリス・フランス・イタリア・日本)の常任理事国でした。日本はアジアで唯一の常任理事国であり、唯一の非キリスト教国であり、唯一の非白人(有色人)の国でありました。その当時の日本には白人国家の植民地になっていたアジアから多くの若者が自分達の未来と民族の独立への希望をもち日本の大学に留学に来ていました。日本は欧米列強から抑圧を受けている民族や国家の希望の星でもありました。しかし日本の進んだ道は、アメリカとの経済摩擦とそれ以降に訪れる一九二七年(昭和二年)の昭和恐慌と一九二九年(昭和四年)のニューヨーク株式市場での大暴落=世界恐慌による脆弱な日本経済の破綻でした。日本人はこれを乗り越える為にもがき苦しんだ中でそれまでの常識が行きづまり、変わってテロルの嵐が吹き荒れました。この流れを後押ししたのが日露戦争に勝利した成功体験でした。この成功体験が人々の心を虜にしていたのです。この風潮が軍部独裁政権を樹立させてしまった要因だと考えます。
時代が令和になり世界情勢が不安定になり政治・経済の未来を描くことが困難な時代になってきました。しかし日本は前回の歴史的教訓・経験を生かして人を傷つけない政治・経済体制を創ることです。「坂本竜馬ファン」で終わらないことです。これが司馬さんが書かなかったことに対する司馬さんへの応えだと思っています。