第一夜[会遇]
ひどく陰気な街並みだった。それなりに建物は立ち並んではいるが、それのほとんどが無機質な瓦礫に埋もれ、荒廃しきっていた。その様子を見ていると、街というよりはむしろ廃墟という言葉の方が似合うように思われるのだが、その荒れ果てた街にはまだ辛うじて息をしている者の気配がしていた。
深い暗闇と凍てつくような寒さに支配されたその街の路地裏に、微かに光の洩れる場所が一つだけあった。年月を食んで傷を纏ったドア、その古めかしいドアに貼り付けられた小窓から溢れる光だ。
その消えそうなほど仄かな光に真っ直ぐと向かう一人の男の影。細かな砂利を踏みつけて急ぐ足の動きは、迷いこんで来たのではなく、確かに目的を持って歩く人間のそれだった。
やがてその人影が光の前に辿り着くと、少しの躊躇もなくドアに手を掛け、強く押す。
ドアの向こう側は、まるで別世界のようだった。
玄関も廊下もなく、ドアを開けるとすぐに、壁にかかったランプのオレンジ色の淡い光で満たされた広い部屋に繋がっていた。部屋には木製の棚やガラスのショーケースが並んで、その中には上品で繊細な陶器の人形が陳列されている。その他にも、棚の上などにはインテリアとしてだろうか、とても細かな飾り付けのされたボトルガーデン、薔薇に似た造花が生けてある綺麗な花瓶まで飾ってあった。そのどれもがドアの外の破壊された街並みからは想像もつかない。
その部屋に入ってきた人間も同じことを思ったようで、自分がこの場所へ来た目的もしばし忘れた様子でその内装に見いる。外に広がる真っ暗な空と同じ色のコートを羽織ったその長身の人物は、部屋の中を細部まで見渡す。すると、その視線が、とある場所で止まった。
男の興味を引いたのは、一メートルほどもある巨大な砂時計だ。磨かれた床に無造作に置かれたそれは、一般的な砂時計の何百倍もの砂が収められていて、今もスルスルと砂が上から括れた部分を通って落ちて行き、下の空間で山を作っている。上の部分の砂は下の部分の砂よりずっと量が少なくなっていて、それがどこか物寂しさを匂わせていた。
「それが気に入ったの?」
突然響いた声に男はハッとして、顔を上げた。声の主は、部屋の一番奥のカウンターの向こう側で、優雅な椅子に座って古ぼけた新聞を読んでいる十五かそこらの少年だった。少年は艶やかな銀色の髪と綺麗なエメラルド色の眼をしていて、金色のチェーンが付いたモノクルを右目側に着けていた。
まだあどけなさの残る顔立ちをした少年の不思議と大人びた佇まいは、まるでそこだけが現実から切り取られているかのような光景だった。
「けど、悪いね。それは売り物じゃなくて、僕の私物なんだ。この店のお客さん以外では、唯一の外界との接点なんだよ」
「……接点?」
「そう。砂時計の近くの壁を見てごらんよ」
促された男が目を向けると、落ち着いたブラウンの壁に、白い字でいくつものタリーが書かれていた。その一番右下の一つだけがまだ三画目までしか書かれていなかったが。
「その砂時計は丁度一年で全て落ちきるからね。一年経ったら壁に一画書き足して、また引っくり返して時を数え始める。時間に忘れられてしまうのが怖いから、僕はこうしているんだ」
新聞を眺めながらそう言う少年を取り囲む空気は、明らかに異質だった。部屋という同じ空間にいながら、全く別の世界で生きているような感覚。ここまで異彩な少年なら、あの噂はいよいよ本当かもしれない、と男の眼にうっすらと光が宿る。その光にふらふらと操られるように、男は気が付いたらカウンターテーブルに両の手をついて、別世界の少年に震える声を発していた。
「人形を、一体くれ」
少年は目を新聞から男に移し、口許に微笑を浮かべる。
「人形なら、そこにあるじゃない。好きなの選んでいいよ、値段は靴裏に貼ってあるからさ」
「……違う、『裏』の人形だ」
『裏』。そう聞いて少年は微笑をやめ、品定めでもするように男を見る。
「裏の人形はすごく高価だよ? それに、僕の店はカードも扱ってないし、払えるの?」
少年の言葉にも男は眉一つ動かさない。まるで心など最初から決まっていたように。
「構わない。予算なら二億ある。数千万ならオーバーしてもいい。頼むから……売ってくれ」
余程その裏の人形とやらが欲しいのか、男は早口で捲し立てるように懇願する。放っておけばそのうち土下座でもしそうなその勢いに彼が本気であることを悟ったのか、少年は徐に古く黄ばんだメモ帳と色褪せた万年筆を取り出した。
「まぁ、本音を言うと、もう二億追加で取りたいところだけど、負けてあげるよ。裏の人形を欲しがる人間はみんな必死な様子だけど、君ほど本気の人間は本当に久しぶりだ。君なら僕の人形を大切にしてくれそうだからね」
少年は軽く笑みを溢すと、嬉しさのあまり動けなくなっている男に椅子を薦め、座らせた。
「なるべくオーダーを聞くよ、お客様。どんな人形が欲しい?」