作者:アザとー
食欲の無い私のために、夫は毎朝スープをこしらえてくれる。
赤い赤いトマトスープ。
浮き身に刻んだトマトをちょっぴり浮かべて、よく冷やしたとてもおいしいスープ。
赤い赤い――血のように赤いスープ。
その少女に会ったのは私が日課としている真夜中の散歩の途中、人気の無いガード下でのことだった。
ちょうど終電が上を通る時間で、狭いコンクリートのトンネルはごんごんとうなっていたが、その大音響の中でも少女の声だけがやけにはっきりと私の耳に届いた。
「おじさん、血のにおいがする」
私は内心ではびくりと震えたのだが、あくまでも冷静に見えるように顔の筋肉をこわばらせて、こう言った。
「わけの分からないことを言っていないで、家に帰りなさい。君のような子供が出歩いていい時間じゃないだろう」
少女は中学生にもならないだろうという年のころで、真っ黒な髪を野暮ったい眺めのおかっぱに切りそろえているのがひどく幼い印象を受ける。だから私の言ったことは大人なんら誰でも言うような類のありきたりな一言だったはずだ。
しかし少女は、ふふんと鼻を鳴らして私の言葉を嗤った。
「ずいぶんと真っ当なことを言うのね、『殺人鬼』のクセに」
脇の下から汗が噴出し、心臓が大きく跳ね上がった。顔の筋肉が必要以上にこわばるのを感じる。
「あっはっは、探偵ごっこか何かかい? だとしたら、ちゃんとお友達と遊びなさい」
そう言いながらきびすを反した私の袖口を捕らえるべく、少女が動いた。
すでに電車の音は遠く、ガード下のトンネルの中には微かな残響が残っているに過ぎぬのだから、真っ当な人間の動きであれば衣擦れなり足音なりが聞こえたはずだ。
だが、彼女の動きは無音であった。風のそよぐ音ひとつさえさせず、彼女はいつのまにか、私のジャージの袖をしっかりとつかんでいた。
「ねえ、おじさん、そんなに急がないでわたしの話を聞いてよ」
小さな笑息をこぼしながら、少女が囁く。
「わたしね、おじさんの秘密を知っているの」
「知っているわけがない……知っているわけがないんだ」
「いいえ、知っているわ。おじさんの、というよりおじさんの奥さんの秘密、かしら?」
このとき、私はどんな顔色をしていただろうか、おそらくはガードの天井に等間隔に並んだ明かりに照らされてずいぶんと白んでいたはずだ。
「妻は半年前に死んだ! 死人を貶めるようなことを言うつもりなら子供だとて許さないぞ!」
「へえ、死んだの?」
「そうだ。居眠り運転のトラックに突っ込まれて即死だった」
「じゃあ、どうしておじさんは……死人を飼っているの?」
「死人が飼えるわけが無いだろう。君はアレか、おかしい人なのか?」
「おかしいのはおじさんのほうよ」
少女はひどく優雅なしぐさで腕を組み、その片方の手を顎の下に添えた。
「奥さんがもう死んでいることを知っているのに、一緒に暮らしている。それだけじゃない、血を食餌とする化け物になってしまった奥さんのために、こうして『獲物』を漁っては人間の血液を調達している、これは『人間』としては異常なことなんじゃないのかしら?」
緊張をごまかすために奥歯を食いしばれば、こめかみの辺りで太い血管がどくどくと脈打っているのを感じた。
そう、私は緊張しきっている。
常人にはいきなりに理解しがたいだろうが彼女が言ったことは全て事実だ。私が散歩を日課としているのは、殺すに適した相手を物色するためである。
少女は相変わらず顎の先をひねり回すという大人っぽいしぐさで、しかし表情はひどくあどけなく笑っていた。
「心配しないで。わたしはあなたの奥さんと『同族』だから」
つづけて、こうも言った。
「私なら、あなたの奥さんを救ってあげることができるわ」
その言葉を聞いてしまっては、少女を家に招かないわけにはいかない。私はそのまま、彼女をつれて帰ることにしたのである。
「こっちだ、妻を紹介しよう」
少女をリビングに案内する。分厚いカーテンを引いたうえに電気さえつけぬ部屋は薄暗く、私ならば電気をつけなくては足元さえ危うい。
だが少女は、その暗さにすら躊躇することなく部屋の中へと進んだ。
テレビの前のソファにぐったりと寝込んでいた妻が身を起こす。
「あら、可愛いお客様ね、どなた?」
このとき、少女との間ではすでに打ち合わせが済んでいた。だから私はあらかじめ用意されていた言葉を、ただ発音しただけだ。
「今日からうちの子になる沙月だ。ほら、養子をもらおうって言っていただろ?」
普通の女なら精査するであろうこの話を、妻は幾度か首をひねっただけで飲み込んだ。
「ああ、そういえばそんな話をしていたかしら」
最近はいつもこうだ。
ろくに体をおこすことさえできず、こうして横になったまま、思考もいくぶん薄くなっているらしい。あの事故のことも……自分がすでに一度死んだことさえ覚えているのかどうかあやしい。
私は沙月の袖を引き、キッチンへと彼女を連れ出した。ここならリビングでぐったりと眠っている妻に話を聞かれる心配も無い。
「ご覧の通りだ」
「やっぱり思ったとおり、衰弱しているわね」
「本当に妻を救えるんだろうな、せっかく生き返ったのに、あれじゃあんまりだ」
「ちょっと言葉がおかしいわね。奥さんは『生き返った』んじゃなくて『蘇った』。あれが人間とは異質の存在だっていうことは理解してるんでしょう?」
「ああ、理解している。心臓が動いていないことにも気づいている」
私の妻は間違いなく死んでいる。半年前の事故でトラックに体をすりつぶされて、無残な死体となったはずだった。彼女の胎にいた赤ん坊もそのときに死んだ。
しかし死んでから二日後、彼女は突然『蘇った』のだ。
棺の中から起き上がった彼女が真っ先に口にした言葉は……
「ねえ、赤ちゃんは?」
私が妻の隣にあった小さな棺を開けてやると、それを覗き込んだ彼女は一言だけ「そう」と小さくつぶやいた。
そのときの私はまだ、妻がどのような存在に変化したのかを良くは理解していなかった。何しろ人間の体としての体裁を成すようにきちんと処理されてはいるが事故ですりつぶされた体はあちこちが欠損していて、右腕などおかしな方向にねじれている上にだらりとぶら下がったままだ。
人間ではない動くしかばねだということは見た目にも明らかだが、私はこれを、何らかの未練を引きずって動くだけの哀れな存在だと思っていた。
駅前にいた浮浪者の女を金で釣って連れてきたのは私だが、止めを刺したのは妻だ。彼女はおびえきって逃げ惑う女に飛びつき、首元に歯を立てて皮膚ごとに太い血管を噛み千切ってしまった。そうして噴出す血の一滴のこらずをすすり喰らったのである。
血をすするたびに妻の体は修復されてゆく。だらりと千切れかけていた右腕はめきめきと骨をきしませながら元あった場所へと……もちろんねじれも正されて、食餌を終えたときには、彼女はすっかり整然の姿を取り戻していた。
それから妻は、血にまみれた己の両手を電灯の光に透かして静かに微笑んだ。
「きれいねえ……」
いまでも、そのときの凄惨ともいえるほど冷たい笑顔を思い出すだけで身が凍る。
生前の妻の頬のあったばら色の生気は失われて、蛍光灯の光が当たれば青っぽいくらいの白に見える。その頬がわずかにこわばって、それでも血に染め上げられた真っ赤な唇の端は大きく上がっていて、目元は……そこには人間らしい感情などひとつも映ってはいなかった。
妻は心優しい性質で、道端にある小動物の死体にすら動揺して涙を流すような女だったはずだ。それが今、人間の死体を前にしているというのにそちらにはなにひとつの興味も見せず、うっとりと恍惚的な微笑みで自分の食餌の跡を誇るかのように眺めている。
その瞬間に、私はこれが『吸血鬼』と呼ばれる存在であることを知ってしまったのだ。
しかし、そんな妻に終焉を与えるための銀の弾丸を撃ち込もうとか、心臓を杭で貫いてこれを滅してしまおうなどという考えは私には起こらなかった。妻は私に対しては大人しくて従順であったし、食餌のとき以外は元の通りの優しくて無垢な妻だったからだ。
だから私は今日まで、彼女の人間性が失われないように最大限に配慮してきた。その苦肉の策が『トマトスープ』である。
沙月はコンロの上にあった鍋のふたを何気なく開けて、中を覗き込んだ。
「へえ、『トマトスープ』ね。悪くないやりかただわ」
妻と同属である彼女は最初から知っているはずだ。このスープの材料は『トマト』などではないのだということを。
「この材料をこれだけ安定供給しているのは『人間』としては驚くべきことだわ。たいしたものね」
彼女が玉じゃくしでかき混ぜれば、底に沈殿していた赤みがゆらりと立ち上がって鍋の中を真っ赤に染める。その様子を眺めながら彼女は語りはじめた。
「死人が蘇るなんて特に珍しい話じゃない、蘇るだけならひどく簡単なのよ」
「いったい、どうやって?」
「そのへんは生きてる人間に話したって分かってもらえないわね、だからどうでもいいのよ。問題は蘇った後なの」
「ああ、それは……」
妻が初めて人の血をすすった光景が思い出される。それが妻にとって必要な食餌行為であるとわかってはいても二度とは見たくない光景であった。
だから血を薄めてトマトスープと偽るなどという愚策を思いついたのは妻のためではない。自分の精神衛生のためだ。
「血を吸うという行為はね、自分が人間であるという感覚を著しく損なうの。だからせっかく蘇った死人たちはすぐに精神をやられ、ただのバケモノに成り下がってしまう。だからね、吸血鬼にまでなれる者は数少ないのよ」
彼女は今一度、鍋の中をかき混ぜた。
「あなたがこうして血を飲んでいるのだという罪悪感を与えないようにしてあげたから、奥さんは今日までバケモノ化せずにとどまっているのだわ」
「それでも、これでは妻を健康にするには不十分なんだろう?」
「死人が健康っていうのもおかしな話だけど、まあいいわ」
彼女は鍋の中身をひと掬い、玉じゃくしにとって口をつけた。
「ああ、こんなに薄めちゃダメ。それにこれ、冷凍よね? やっぱり新鮮なものほどの力を感じないわ」
「じゃあ、どうすれば?」
「これからは私が調理をしてあげる。血液の特性を殺さず、トマトに見えるようにぎりぎりの濃度に調整してあげるわ」
「そんなことが?」
「できるわよ? だてに二百余年も吸血鬼やってないからね」
「二百……」
「あら、いうのわすれてた? 吸血鬼になると年をとらず、滅びず……だもの」
彼女はコロコロと無邪気に笑うが、その年を知ってしまってはその裏に隠された邪心を疑わぬわけにいかない。私は少しふるえはじめたひざをなだめるようにして足を踏ん張った。
「なぜ、そこまでしてくれる? 何がのぞみだ?」
「やあねえ、ここに来るまでの間に話したでしょ? 私をこの家の子供にして欲しいの」
「それだけか?」
「それだけ。でも難しいことだと思うわよ」
「別に難しいことなんか無いだろう。部屋なら好きに使えばいいんだし、君一人が暮らすくらいの余裕はある」
「そういうことじゃなくてね、私の『親』になってちょうだいって言ってるのよ?」
「親? 君のほうが年上なのに、か?」
「年の問題じゃない。愛情の問題よ」
沙月はスープ鍋のふたを静かに閉じて、肺腑の底から湧くような、深いため息をついた。
「二百年もこの世にいるとね、たいがいのものは手にはいるの。富も、名誉も、男女の愛も全て味わったことがあるわ、でもね、『親子の愛』だけは、どうしても手にはいらなかった」
「それは……」
それはそうだろう。彼女は年をとらない、なのに親になった者は年をとる。そもそもが自分より知識も人生経験もあるものを子供として愛せるかといわれれば、少しばかり自信が無い。
「うん、難しいことだな……」
「でしょう?」
「だけど、精一杯努力はすると約束しよう」
「そうね、がんばってちょうだい。そのかわり、あなたたちが私に親としての愛を向けてくれている限り、私はあなたたち夫婦に娘としての愛を向けてあげるわ」
「ギブアンドテイクだな」
「ギブアンドテイク……いい言葉ね。わたしは無償の愛とか信じていないのよね」
玉じゃくしからも手を離して、沙月は私を見た。射抜くように、まっすぐに私を見た。
「これは私の経験則よ。人は相手からの愛を得ようと人を愛する。つまり愛するという行為自体が愛情を受ける対価としての代理行動なの」
「そんなことは無いだろう。私が妻に向けているこれは、無償の愛というものなんじゃないのか?」
妻のために犯罪に手を染めてまで血を集め、妻を養い、これをかくまってまでそばにいる行為を、私は少しぐらい評価されたかったのかも知れない。
だが沙月の言葉はあくまでも冷酷に。
「あなたはそれによって、自分を愛してくれる奥さんの存在という対価を得ているじゃないの」
これに返す言葉を、私は持ち合わせていなかった。ただ唇を閉じてうつむくしかない。
沙月はそんな私に少し哀れみを含んだ笑顔を向ける。そのくせ口調はあざといほどにわざとらしく、子供っぽく。
「まあまあ。これからよろしくお願いしますね、『おとうさん』」
こうして沙月と妻と、そして私は、家族ごっこを始めることになったのだ。
沙月は調理のみならず、『食材』の調達をもかってでてくれた。理由は私よりも死体の処理がうまいから。彼女に言わせると私のやり方ではどうしても血のにおいが漏れ出してしまうのだそうだ。
そうして一週間もしないうちに、妻のからだはすっかり回復した。
起き上がって家の用事などもすることができる。昼のうちに表に出ることができないのは吸血鬼の特性であるから仕方ないが、日が沈んだ後であれば外出もできるようになった。
沙月は妻によく懐き、妻もこれを可愛がった。
私と話をするときは生意気そうに薄ら笑いを浮かべている沙月も、妻といるときはしんそこ無邪気な、まったくの子供であるかのような反応を見せる。怒られればぷいと拗ね、ほめられれば輝くように笑い、くるくると表情の変わるさまを見ているとこれが人にあらざるものだということなど忘れてしまう。
そう、私は幸せだった。
今日も仕事を終えて帰宅すれば、妻と沙月が並んで台所に立っていた。夕餉の支度をしているのだろう。
朝の『トマトスープ』はいまだに欠かせないが、妻は普通の食事も食べられるようになっていた。
「沙月ちゃん、餃子を包むときはね、こうやって指の先にお水をつけてね……」
吸血鬼である彼女たちが作るのだから、我が家の餃子にニンニクは入らない。ならば別の料理を作ればいいとも思うが、妻には自分が吸血鬼であるという自覚が無いのだから言っても仕方ないことだろう。
私は二人の近くに立って楽しげに餃子を包む手元を眺める。
子供の小さな手で扱うには本日の餃子の皮は少々大きすぎるようだ。沙月が包みあげた一個目はひどくいびつで、ところどころだらしなく開いたとじ目から肉餡がはみ出していた。
「あらあら、沙月ちゃんは意外に不器用なのねえ」
妻は楽しそうにくすくすと笑うが、沙月はむくれて唇を尖らせる。
「不器用じゃないもん。ちょっと苦手なだけだもん」
「そうね、じゃあ今度はどれだけ時間がかかってもいいから、ゆっくりと丁寧に包んでごらんなさい」
「うん、わかった」
沙月がひどく真剣な表情で皮を摘み上げるものだから、私は笑った。
「なによ?」
「いや、本当の子供みたいだな、と思ってさ」
これが齢二百を超える吸血鬼だなどと誰が思うだろうか。ここにはひどくありきたりな母子が……平和で静かな愛情に包まれた光景があるだけなのだから。
「何よ、にやにやして、キモチワルイ」
「こら、沙月ちゃん、お父さんにそういう口をきいちゃダメでしょ」
「だって~……」
もしもあの日、事故で子供を失わなければ……いずれ手にはいったはずの、親子の時間……妻が死を退けてまで蘇った本当の理由は、ただこんなありきたりなものが欲しかったからなのかもしれない。
私はそんなことを思いながら妻の顔を見た。彼女は……笑っていた。
それは夏も盛りのころだった。
私が帰宅すると、妻と沙月はリビングで歌番組を見ながらきゃいきゃいと黄色い声を上げていた。
「いやあ、たっつくん可愛いっ!」
「え~、お母さん、趣味悪い~、ゆーのくんのほうが可愛いじゃん」
「そんなことないわよ、たっつくんの方が見ててこう……ムラムラしない?」
「あ、分かる。なんかおいしそうなの~」
「ね、おいしそうよね~」
これが吸血鬼の会話だと思えば苦笑するしかない。が、傍から見る分にはアイドルに現をぬかすミーハー母子の日常の一コマだ。
私はそんな二人の隣に腰を下ろして、一枚のチラシを差し出した。
「これ、行ってみないか?」
それは駅前で配っていたもので、いかにも町内会手作りの安っぽさあふれるわら半紙にただ文言をコピーしただけのものだったのだが、妻も沙月もぱあっと輝くような表情を見せた。
「夏祭り? 面白そう!」
「沙月ちゃんに浴衣を用意してあげなくちゃね、お母さんのお古だけど、腰上げつけてあげるわ」
「本当? お母さん大好き!」
沙月が妻に抱きつく。実にほほえましい光景だ。その様子を見ていると、私は少しばかり不安になるのだ。
妻はこうして惜しみない愛情をこの少女に注いでいる。それにくらべて私は、この少女の言葉にとらわれてずっと惑っているのだ。
――ギブアンドテイク……いい言葉ね。わたしは無償の愛とか信じていないのよね
だとしたら、妻はこの少女に母と慕われるにふさわしい『対価』を十分に支払っている。しかし私はどうだ?
こうして何くれとなく気を使って沙月をわが子のように愛そうと振舞ってはいるが、これは平穏で愛情に満ちた家庭という幻想を維持するための打算的な愛情に過ぎぬのではないだろうか。
そんな思いにとらわれながら、それでも私は妻と沙月を連れて夏祭りの会場へと足を向けた。
会場は近所のグラウンドを開いて設営されたもので、中央には盆踊り用のやぐらが立っている。電線を張り詰めてぶら下げられたちょうちん照明は明るく、ひとはごった返していた。
射的の屋台を見つけた妻は私の肩を押す。
「あなた、こういうの得意でしょ」
沙月は期待をこめた目で私を見上げる。
「本当に? じゃあ、あのぬいぐるみ、とって」
こういうなにげないやり取りは好きだ。理屈など考えずに、いかにも父親らしい振る舞いを反すことができるから。
「よし、ぬいぐるみだな」
私は店のオヤジに硬貨を渡し、古びた空気銃とコルク弾を受け取った。
「あれ、あのピンクのクマのぬいぐるみね!」
沙月がはしゃいだ声をあげる。だから私も少しはしゃいだ気分で、銃を構える。
一発目の弾は大きく左にそれて屋台のテント生地にむなしく当たった。
「なによぅ! 得意なんじゃないの!」
「いや、銃身がかなり曲がってるんだよ。こう、照準を右に寄せて……」
二発目の弾はぬいぐるみのわき腹すれすれを掠める。
「おおっ! いい感じかもっ!」
「だろ? もらったも同然だ!」
……けっきょく、硬貨を8枚ほどもつぎこんで件のクマを手に入れたわけだが……これは同情したオヤジが台の後ろのほうに景品を置きなおしてくれたからで、俺の手柄というわけではない。
それでも沙月は大喜びで祭りからの帰り道の間中、ぬいぐるみに頬ずりしていた。
「かわいいわねえ……」
そのしぐさを眺める妻は相好を崩す。
「少し変わったところのある子だけど、ああいうところはやっぱり女の子ねえ」
妻が若いときに買ったという浴衣は赤地に花火の意匠を散らした派手なもので、それにピンクの兵児帯を大きなリボンに締めている沙月は人形のように愛くるしい。それが二百余歳の齢さえも手放してただの幼子と同じしぐさでぬいぐるみを愛でているのだ。
「本当にかわいいな」
「わたしね、このままずっと、三人で暮らしていけたらいいと思うの」
「ずっと、か」
それは血を吸うバケモノである彼女たちにはたやすいことだろう。しかし『人間』である私には余りに残酷な言葉だ。
「ずっと……は無理だよ」
「あら、分かってるわよ。ただの理想を言ってみただけ」
ふふふ、と軽く笑う妻はどこまで理解しているのだろうか。
彼女は自分が一度死んだことを覚えていない。それでも事故の記憶はあるようで、生まれてくるはずだった子供の産着を時々は取り出して泣いている事を、私は知っている。
「そうか、ずっと……か」
この先、年取らぬ彼女たちにどこまで付き合ってやれるかわからないが、命の続く限り、私はこの二人と家族でいたいと願った。そのための対価として愛情が必要ならいくらでも支払ってやろうとも。
そんな私の決意も知らぬ沙月はぬいぐるみを抱えて振り向いた。
「ねえ、お父さん、お母さん……」
それに続く言葉がなんだったのか、おそらくは他愛ないおねだりの類だったのだろう。沙月は鼻先で発音するような甘ったれた声を出していたのだから。
その声をさえぎったのは暗がりの中、我が家へ向かう曲がり角の向こうから現れた若い男の一言だった。
「沙月、やっと見つけたぞ」
あどけなかった少女の顔が一転、理知的で小生意気な齢二百の吸血鬼の表情へと変わる。
「こんなところにまで、しつこいわね、あんた」
「お前こそ、吸血鬼が家族を持つなど、夢物語だと、どれだけ聞かせたら分かるんだ」
「わたし、物分りの悪い性質だからね」
男はきざったらしいしぐさで肩をすくめ、軽く舌を鳴らして見せた。
「そのたびに毎回毎回、お前を連れ戻しに来る俺の手間を考えてくれよ」
「じゃあ、ほっといてくれればいいじゃない!」
「そうはいかない。お前は我らの眷属となり、死の先にあるこの世の真理を知ってしまった。つまりお前の選ぶ道はたった二つ……」
男は顔の前に指を二本立ててみせる。沙月に見せ付けるように。
「われわれのもとに帰り、真っ当な吸血鬼として暮らすか、あるいは……」
男は立てていた指先を垂直に、私のほうへと向けた。そう、射的の空気銃で狙いを定めるかのように。
「……ここでお前の大事な『家族』と一緒に死ぬか……」
「いけない! 逃げて、お父さん!」
パシュッと、空気を切り裂く音がした。やはり空気銃なのだと、そんな見当違いのことを考えていた。
「お父さん!」
沙月が抱えていたぬいぐるみを手放して駆け寄ってくる。その姿がひどく傾いて見える。いや、傾いているのは私の体のほうで……どさり、という音がして、私はアスファルトの上に転がっていた。
「あなた、あなた! あなたーっ!」
妻の悲鳴が
「お父さん、だめ! おとうさんっ!」
沙月の悲鳴が
(ああ、私は愛されているなあ)
そんなことを思いながら、私は自分の身におきたことをやっと理解していた。
腹が大きく裂けている。どうやったのかは分からないが空気を切る音がしたあの一瞬で裂かれたことだけは歴然だ。薄い綿地のシャツはぱっさりと開き、傷口から流れ出る血を吸い上げてみるみる赤く染まってゆく。
すでに痛みの限界など超えたのか、無痛であった。
私は少し手招きをして妻と沙月に囁きかける。
「逃げろ……ふたりで、逃げるんだ」
「だめ、あいつを振り切るには、私は人間式の生活を長くしすぎた。血が……足りないの」
「ならば、私の血を飲めばいい」
「そんなこと!」
「いいんだ。お前たちの幸せを守るためなら、私はこの体の最後の一切れまでくれてやったって惜しくない。それほどに、お前たちを……」
薄めた血で長く暮らしていた妻は濃厚な血液の匂いに酔ったか、すでに正気を失った風でアスファルトにひざを突いて零れ落ちた血をペチャペチャとなめている。
「だめ、お母さん! それはお父さんの!」
沙月の声すらすでに届かぬのか、ぴちゃ、にちょ、と、ねばっこい音が響く。
涙を流しながら、沙月が咆哮した。
「私には、家族を持つことすら許されないって言うの!」
それから彼女は、私の腹の傷口に覆いかぶさるようにして血をすすりはじめた。痛みはなかったが、ぽたりとたれた沙月の涙がシャツにしみこんでゆく温かさだけは感じた。
「沙月、お母さんがずっと一緒にいてくれる。それに、たとえ死んでしまったとしても私が君の家族だった、君をわが子として愛していた、この気持ちは消えない」
「お父さん……」
「君たちの幸せを、ずっと願っているよ」
その言葉に、沙月がささやきを返した。小さく、他の誰にも聞こえはしなかっただろう、世界で私だけに向けられた言葉……
「お父さん、最近わたしね、『無償の愛』の意味が分かってきたの」
そのあと、沙月と妻がどのように逃げたのかは分からない。何しろ私は死んだのだから。
次に気がついたときには私はアスファルトの上にだらしなく横たわる死体で、その目の前には『戦利品』を見せ付けるかのように、あの若い男が首と胴を切り離されて転がっていた。
(そうか、無事に逃げおおせたか)
このまま蘇って妻や沙月と『ずっと』暮らすということも夢想はしたが……
(沙月のうそつきめ、蘇るのはちっとも簡単じゃないじゃないか)
そう、私には未練が足りない。この世に残す唯一の心残りといえば妻と沙月のことなのだが、こうして二人のことを思い浮かべても……
(ああ、幸せだった)
思い出すのは餃子を包んだり、夏祭りではしゃいだり、楽しそうに笑顔を交し合う母子の姿だけだ。
そう、母と子と、二人でこれからも、何気ない日常を送りながら静かな幸せを築いてゆくのだろう。それを思うだけで安寧が体の隅々までを満たす。
そして耳に残る沙月の最後の言葉が……
――お父さん、最近わたしね、『無償の愛』の意味が分かってきたの
それは鎮魂歌だ。
私はわが子に一番大事なことを伝えることができた。その充足が私の意識を死人として正常な方向へ導く。
(よかった)
死人として正常な……つまり無と静寂。
だから私はこれ以上、この物語を続けることはできない。死んだのだから。
ただ願わくば誰かに……これから沙月と妻が出会うであろう誰かに、彼女たちが望むものが誰かの命やその代償としての『永遠』などではないのだと……それを……知ってもらいたかっただけなのだ……