#11
雨だった。昼休み。昼食を済ませた僕はひとり、窓際の縁に顔を乗せてぼんやりと外を見ていた。グラウンドの片隅で野球部が片付け忘れたトンボが一本、雨に濡れていた。
雨の日が好きだった。物心ついた頃から、雨の日は不思議と落ち着いた気持ちになった。雨の日の匂いが好きなんだと気付いたのはごく最近の事だ。
ブレザーのポケットからケータイとフォンボールを取り出す。直径約1センチのフォンボールを両耳に押し込んでから、折り畳みケータイの外殻の表面、クリアタッチパネルに整列しているいくつかのアイコンの中から、音符マークのアイコンをタップすると音楽ファイルが一覧で現れる。僕は最近買ったばかりの256GBのマイクロSDカードにダウンロードされているライブラリーの中からアルバムを選び、そしてモニターの真ん中に浮かんだPLAYボタンを押す。
僕の世界の色が変わる。そしてそれは湖面の波紋の様に大きく広がっていく。
エッジの効いたカッティングギターのリフ。それに続くパワフルなドラムと弾けるベース。僕は黙って目を閉じた。
誰かの声がした。僕はぼんやりとしたまま、視線を移した。
エリカの顔がすぐ傍にあって、僕は思わず椅子から転げ落ちそうになった。そんな僕を見てエリカが何か言ったみたいだった。僕が両耳からボールを外しながら、何?と訊くと「そんなにビックリしなくてもいいでしょ」と笑った。
「そりゃビックリするよ」僕はそう言いながらSTOPボタンを押してから、雨に濡れた窓を背にして、椅子に座り直した。
「何、聴いてたの?」
エリカが僕の耳を指差す。僕は、少しだけ考えてから「聴いてみる?」と言った。エリカは、うん、と頷いて僕のフォンボールを耳に入れた。僕がPLAYボタンを押すと、ちょっとだけ驚いた表情を浮かべてから、すぐに身体を小刻みに揺らした。
「これ、何ていうバンド?」
エリカは片方だけを外して僕に訊いた。僕は「ミッシェル・ガン・エレファント」と答えると「知らない」と言った。最近のバンド?と訊かれたので僕は首を横に振った。エリカはボールを両方の耳に押し込んでから、もう一度目を閉じた。
僕は窓の外を眺めるふりをしながらエリカの横顔を視界に入れた。小ぶりな耳にかけた黒い髪が小刻みに揺れていた。僕の中で何かがほんの少しだけ、ざわついた。
隣のクラスのエリカがわざわざ目の前に現れた理由が思いつかなかった僕は、どうしたの?と訊いてみた。エリカは聴こえていないのか、それともわざとなのか、返事をせず黙ってミッシェルを訊いていた。僕は、彼女の顔を見ながら、エリカに振られたのは一体いつだったかを思い出そうとしていた。
「梶君って、彼女出来たの?」
唐突にエリカがそんな事を訊いてきたので僕はまたしても驚いた。何でそんな事、と僕が言うと「やっぱり」と少し笑い、エリカはフォンボールを机の上に置いた。僕は意味がわからず、エリカの顔を見つめた。
エリカはどこまでが本気なのかわからない様な笑顔を浮かべて「駅前で一緒にいた子って、彼女?」と言った。僕は少しの間考えていたが、エリカの言っている事と僕の記憶が合致した瞬間、僕は思わず、あ、と言葉をもらした。
スカジャン達を返り討ちにして駅前のゲーセンから逃げ出したホノカと僕の姿を、あの日、エリカは見たのだろうと理解した。
彼女は少しの間顔を伏せてからこう言った。
「ついこの間、私に告白したばっかりなのに、それから何日もしない内に別の彼女とか。梶君って、一体どういう人なの?」
僕にはエリカの言っている言葉の意味がやっぱりよくわからなかった。加えて、言葉の中に何かが交じっている気がした。何だろう。僕はエリカの顔を見る。笑っている様にも見えるけど、見方によっては怒っている様にも見える。どういう事だろう。
「どういう人って言われても、僕も困るんだけど」
一瞬、僕の頭の中でホノカの顔が浮かんで、消えた。
「そうだよね」エリカはそう言いながら、顔に手を当てて僕から視線を外すと「そんな事、私に言われても困るよね」と続けた。
「一応僕は、君に告白して、その結果、振られた事になってる訳だし」
あの日の放課後、誰もいなくなった教室での出来事が、僕の頭の中でフラッシュバックする。それは僕にとってけして悲しい思い出では無かったけど、かといって後悔するようなものでも無かった。
思わず沈黙が流れる。
「あれ?なになに、この組み合わせは」
聞き覚えのある声に振り返ると、すぐ後ろにヒロユキがいて目を輝かせていた。確か、昼休み、部室に物を取りに行ってくるとか言っていたのを僕は思い出した。
「ちょっと話してただけだよ、なぁ」
僕はエリカに相槌を求めて声をかけた。だがエリカは、何も言わずに席から立ち上がると「わたし、行くね」と言って背中を向けた。そのまま振り返らずに小走りに教室を出て行った。
「なんか、お邪魔だった、俺?」
「そんな事ねぇよ」
「いや、絶対今の感じは、二人の世界、だったな」
「そんな訳ねぇだろ」
「いやいや、俺にはわかるね」
「エリカに俺は振られたんだぜ」
「で、何て言ってた?」
「駅前で女の子と一緒に居たのを見たみたいで、なんなの?って言われた」
「げ、マジか。なんなの?とか、あれじゃんか。痴話ゲンカ」
「何言ってんだよ。俺はエリカに振られたんだぜ。お前も知ってるだろ」
「いや、わかんねぇぞ。彼女も片思い中なんだろ。ある日ふとしたきっかけで、お前の事が急に気になりだして、とか。あるんじゃないの」
ヒロユキはニヤニヤしながら僕の脇を突いた。
「ないない」僕は断言する。
僕は考えた。何でエリカが突然この教室にやってきて僕にそんな事を訊いたのかを。
僕が彼女に振られたという事は間違いなく事実だ。つまり、僕の事は彼女の中では、どうでもいい人間にカテゴライズされているという事のはずだ。それとも、好きではないけどどうでもよくはない。どうでもよくないから、別の女の子と一緒にいるのは気になる。そんな事があるのだろうか。それともヒロユキが言うように、突然、何かのきっかけで僕の事が気になりだしてとか。そんな事はあり得るのだろうか。
どうにもよくわからない。僕は思わず「女子、さっぱりわかんねぇ」と呟いた。
確かにな、そう言って頷いたヒロユキは少しの間を置いてから「ちょっと待て待て!」と叫び目を見開いて身を乗り出した。
「駅前で女の子と一緒にって、誰といたんだよ、お前?」