伯爵令嬢のお相手は。
暇にあかして書き上げたものでございます。
短編にしては長すぎると思いますが、どうかお付き合いお願いします。
年上伯爵令嬢(男に興味が持てない二十一歳)×年下侯爵令息(見た目清純な肉食)のお話です。
読み終えたら感想などいただけると嬉しいです。
夜会というのは、貴族たちの社交場である。
その場では、老いも若いも関係なく気兼ねなく踊りあかし、お喋りをし――そして、そこで恋心を重ねていくのだ。
そんな夜会の会場で、淡い色の生地に小花の刺繍がなされた流行のドレスを纏う歳若い淑女たちは、顔を赤らめていま憧れの〝あの人〟の話をしていたのであった。
「ああ、相変わらず……ベラ様って素敵よねぇ」
子爵令嬢がポッと顔を赤らめて遠くを見ている。その視線の先には、背の高い女の姿があった。
男性よりは低いが、貴族の女性にしてはしっかりとした体格をしている上に踵の高い靴をはいているため、スラリとした細身の体が引き立った。髪は赤銅色で、目は優しげな灰色をしている。そして女をくらりとさせる甘い雰囲気も持っていた。そんじょそこらの男ではかなわない。
いつもの男装も似合うが、今日のような淡い薔薇色のドレスも素敵だ。立ち姿がとても美しいから、あれよあれよという間に男が群がってくる。
それに悔しい思いを噛み締めていると、彼女は自分の視線に気付いたらしく、男たちを少し待たせてこちらに歩いてきた。
「こんばんは、ポリーネ。趣味のよいものを着ているね。とても綺麗だよ」
「あっ……べ、ベラ様」
自分の名前を覚えてくれていることと褒め言葉に対する感動で涙があふれ出そうだ。やっぱり、彼女はカッコいい。普段の男装姿ではなく女の姿だけれど、一部の淑女にとって、彼女は魅力的で、自分の家格を考えると高嶺の花だった。
そんな彼女を一時とはいえ独占するような形になってしまい、たじたじになりながら、ポリーネは口を開いた。
「あ、あの……べ、ベラ様も、とても、綺麗です。黒の刺繍なんて、誰も思いつきませんわ」
言い切ると、さらに俯く。差し出がましいことを言ってしまったと、後悔する。
しかし、彼女はそんなことは考えもしなかったようで、ニッコリと笑った。
「ありがとう、私の天使。君のほうが素敵だよ。さあ、広間に行こうか?」
あまりに素敵な笑顔に、令嬢たちは色めき立ったのであった。
**********
夜会とはまったく面倒なものである。女の子に会えるのは大歓迎だが、どうせなら女の子だけのお茶会にして欲しいものだ。
恨みがましく思いながら、ベラは淡い薔薇色のドレスを翻し、自分をダンスに誘おうとする男たちの目をかいくぐって密かに、バルコニーに出ようとした。
そのとき、足にスカートの裾が絡まり、ついでにいえば靴の踵がまたもグニッと横倒しになりそうになる。バルコニーに出ている少数の人々に聞こえないよう、忌々しげに舌打ちを打った。
褒められたのは嬉しいが、こんな恰好は正直言って、好きじゃない。肩が露出したドレスはいま王都で流行りの意匠だそうだが、北方においては冷えやすく、ボロ布でもなんでもいいから羽織りたくなる。裾は地面につくかつかないかくらいの丈で、さらに繊細なレースで縁取られている。少し歩いただけで汚れが付くのではないかと気が気ではないし、動きにくく全体的に頼りない。靴は踵が高く、気を抜けば華奢なヒールを折ってしまいそうになる。
ベラが好むのは、シャツにタイ、ベスト、ズボン、長靴といった男用の一揃えである。女の服は動きにくいから嫌いだ。機能性にもかける。
胸の谷間を必要以上に強調する意味が何処にあるのか。男を喜ばせるだけではないか。ベラはむしろ、男よりも女を喜ばせてやりたい人であるため、この服は大の苦手だった。
ベラは年頃の女にしては珍しいほど、男に興味がなかった。というのは、叔母の影響だ。かといって叔母が男嫌いなのか、というとそういうわけではなく、そもそもは、叔母が姪と同じ趣味を共有しようと歌劇場に連れて行ったのがはじまりだった。
結果は、大成功。ベラは歌劇の世界にどっぷり浸った。その歌劇というのは男女で共演するものではなく、女が男装して男役も演じるという珍しいものだった。そのせいで、ベラは男に興味がなくなってしまい、女の子好きに拍車がかかり、いまにいたる。
バルコニーに出て夜風にあたり、度重なるダンスの誘いのせいで温まった体を冷やすと、このあとのことを考えて大きく溜息を吐く。
戻りたくない。女の子に囲まれるのは願っても見ないことだが、男に囲まれるのはただ鬱陶しいだけだ。
また一つ盛大な溜息を吐くと、笑い混じりの声が耳に入った。
「随分、お疲れのようですね、ベラ」
背後から聞き覚えのある声が聞こえ、そっと振り返る。そこには予想通り、金髪の男が立っていた。
「シャー」
「戻りたくない?」
「……もう、沢山だ」
いままで被っていたお嬢様の皮を脱ぎ捨て、ベラは本音を呟いた。
伯爵令嬢の仮面を取り去り、行儀悪くバルコニーに頬杖を付きつつむくれたようにいうベラを見ると、彼の唇は美しく弧を描き微笑んだ。
「それは丁度いい。僕もそろそろ退屈していたところですから、よければ一緒に帰りましょう。グレゴリー様とカタリーナ様には従者に伝えさせます」
グレゴリーとカタリーナというのは、ベラの叔父と叔母で、義父母である。幼くして父と母を亡くしたベラを、この歳まで育ててくれた恩人だ。
ベラの曇った表情は、瞬時に明るくなる。
「いいのか?」
「ええ」
ニコリと笑い、ベラの背に手を回す。彼は他の令嬢とは一味違う尽くしがいのないベラにも紳士的な態度を変えない。彼が女を惹きつける魅力というものはまさに、そこにあるのだろう。
彼の名はシャーメイン・ウィルフォング。今年で十九歳になるウィルフォング侯爵の長男で、半年後の二十歳の誕生日を迎えたとき、同時に侯爵を継ぐことが決定している、今後を期待される侯爵の跡取り息子である。
夜会以外で出会いが少ない貴族社会で、シャーメインと出会ったのは、ベラが十五歳のとき。やはり、夜会のときであった。
社交界に足を踏み入れ、やっと空気に馴染んできたかと思えば、叔母の誘いで特殊な夜会に参加することになったのである。一種の社会勉強のつもりであった。
特殊な夜会、というのは仮面舞踏会で、ほとんどの人が身分を隠して踊り明かすためにやってきた上に、当時は中年の人々に人気があったらしく、年嵩の者が非常に多く、ベラくらいの歳の子はなかなかいなかったのである。
退屈をもてあましていたときに見つけたのが、シャーメインである。
彼はベラよりも二つ年下の十三歳で、母親に連れてこられたらしい。長い金髪を背中で結い、仮面の奥で退屈そうにしていたのがよくわかった。潔く壁の花になっていた少年の顔を、いまでも鮮明に覚えている。
いまでは長かった眩いほどの金髪は短く切られ、少年のような顔立ちから青年らしい品のよい目鼻立ちになり、体つきも背肩幅が広く腰がほどよく締まり、男らしく、それでいて端整で見苦しいところがない。にこやかで、穏やかで、優しく紳士的な……まさに、物語の貴公子そのもの。これで瞳が青ければ王子様なのだが、彼の瞳は周囲が言うところによると「残念ながら」灰色だ。
しかし、ベラはその瞳の色が結構気に入っていた。人によっては冷たく見えたり、地味だったり太ったり見えるということで嫌われている灰色が、彼の目にはめ込まれているだけで優しく暖かく、好意的に見えるのだ。
シャーメインは約束どおり、従者に叔父夫婦に帰宅の旨を伝えるよう指示し、ベラを伴ってこっそりと夜会の会場から抜け出た。彼もまた、ベラと同じく結婚話に辟易していたのである。
夜会の目的はダンスを楽しみ、日頃の疲れを忘れることにあるが――それ以外にも勿論ある。むしろ、こちらのほうが本題といっても正しい。貴族は社交場へ年頃の子供を連れて行くことにより、婿探し、あるいは嫁探しをしているのだ。
シャーメインとベラはその被害者である。大概の貴族の娘が結婚話に乗り気で自分から突撃していくようなツワモノばかりだが、ベラは男たちにいくらちやほやされ、傅くような真似をされても、心が揺らがなかった。
男に関心が無いのは事実だが、まったくというわけではない。それなりに結婚は大事だと思っている。単に、彼らがベラの好みに当て嵌まらなかったのである。
シャーメインに連れられて会場から出て馬車に乗り込み、車が動き出すと、ベラはハァと溜息を吐く。
密かに吐いたつもりだったのが、シャーメインの耳は相変わらずの敏感さで聞きとめ、小首をかしげた。
「どうしたんです、ベラ。気分が悪いのですか?」
「うーん……まあ、そんなところ」
シャーには嘘をついてもすぐに見抜かれるしな。
そう思い、本音をいう。詳しく話さなかったところは、見逃して欲しいという意思表示だ。
シャーメインはそれを持ち前の感受性で感じ取ったらしく、それ以上は聴かなかったが、心配そうな顔を作った。
「大丈夫ですか? ……ああ、そういえばダンスのとき少し足首を捻っていましたね」
思い出したよう呟き、シャーメインはドレスの裾をヒョイと捲って足を露にする。突如、足元にじかにあたる冷たい空気と、手袋をした手の感触に、ベラは思わず顔を赤くさせた。
「おい、シャー……!」
思わず声を荒げてしまう。
弟より一つ年上なだけなので、ベラの中でシャーメインは男友達であり、もう一人の弟だった。今更なんとも思わないが、いくら男勝りなベラでも「他人に足を見せるな」という良識だけはあるつもりだ。足を少し捻ったのは事実だし、心配してくれるのは嬉しいが、足を捻ったのだってほんの少し、数分やすめば痛みが引くようなものだ。第一、立って歩いているのだから酷いもののはずがない。
シャーメインはベラの抗議にも耳を貸さず、じっくりと華奢な靴と足を観察すると、やっと手を離して下から見上げてきた。
ああ、眩しい。王子様の笑顔だ。
「ああ、よかった。あなたの綺麗な足は無事でしたよ」
「……それは、どうも、ありがとう」
苦い顔になって言葉に詰まったのは仕方ないと思ってもらおう。
「シャー……お前とわたしの仲だからあまり言いたくないが、女のドレスの裾を断りもなく捲るのはどうかと思うぞ」
「照れたんですか? 可愛いですね、ベラは」
「こら、お世辞をいっても何も出んぞ」
ペシリと持っている扇で、いまだ足元にある金色の頭を小突いてやる。しかし、シャーは叱られたことが少し嬉しそうで、頭を撫でさすりつつ、再度、馬車の壁に背中をもたれさせた。
しかしその顔は、まだ笑っていた。
「本当に可愛いですねぇ、ベラは」
「うるさいぞ、年下」
「初めて会ったときも可愛かった」
「うるさい。と・し・し・た」
「今日のドレスも素敵ですよ。会ったときのことを思い出します」
「おい、年下! 年長者相手に調子に乗るなよ!」
扇を振り回して抗議する。黙らせるために年下を強調したというのに、まったく黙ろうともしない。
会って本格的に親しくなってきた頃からだろうか。シャーメインはベラに可愛い可愛いを連呼するようになった。からかっているだけなのだろうが、彼を狙っている令嬢たちの嫉妬の眼差しがきついので、人前で言うのは控えてもらうことになった。すると、次は二人きりになったときに可愛い可愛いとうるさい。少しは黙れと思う。
相変わらずよく回る口だ、と感心しているとき、ふとシャーメインが不満そうになっていることに気付く。
「どうした?」
「……いつになったら私を大人扱いしてくれるんですかねぇ、ベラは」
「はあ?」
思わず問い返すと、彼は「いいえ、なんでも」といってベラではなく窓に視線をやった。
この感じには覚えがある。弟が機嫌を損ねたときによく似ているのだ。まあ、シャーメインのほうが比べ物にならないくらい可愛げがあるのだが。
「なんだよ。怒らせたのか?」
「怒ってませんよ。フン」
「怒ってるじゃないか……」
なんだこの手ごたえのなさは……。
ベラは呆れた風に、鼻で息を吐いた。それを聞きとめ、シャーメインはさらにムッとした顔になる。
「私はもう十九歳で、半年後には二十歳になります。なのにまだ大人じゃないって言うんですか、ベラは。ベラのいう〝大人〟の定義は何歳なんです?」
「ああ、わかった。わかったから」
彼は要するに、大人扱いしてもらいたいのだ。そう片付け、面倒だなと内心で呟く。あと、語尾にベラベラつけるな。遠い昔に教師に習ったもの……オノマトペだか擬音だか……を思い出す。
いい加減な態度のベラに、シャーメインは眉を顰める。
「ベラ」
「考えてもみろよ。六年もこうして一緒にいるんだぞ?」
六年。そう、六年なのだ。ベラが彼を〝大人〟として見れない理由は、主にそこにある。
「当時、お前から見た私は大人だったかもしれない。丁度、婚活真っ最中の十五歳だったし」
いまもだけど。
「お前は社交界に本格的に足を踏み入れる前の十三歳だった。お前は子供で、二つ年上の私が大人に見えたかもしれない。
でもな、お前は弟とそう歳が変わらないし、私は子供の頃のお前もよく知ってる。私の中のお前は、可愛い年下なんだよ」
ベラの弟は今年で十八。シャーメインは十九だ。たった一歳の差だとおのずと弟のように思えてくるものだ。
シャーメインに言い聞かせるように言って見つめれば、彼はばつの悪い顔をして目を逸らした。
シャーメインは窓の方を睨みつけるようにしてベラから目を離したように見えた。どうやら、さらに機嫌を損ねてしまったらしい。
いつからだろう。シャーメインがベラに自分を大人としてみるようにと主張するようになってきたのは。思い出せないが、随分と前からな気がする。
なにか言おうと口を開けたが、彼を年上としての立場から宥めるような言葉しか出てこないような気がして、結局口を噤んでしまった。二人はそのままの状態で馬車内でのひと時をすごし、それは伯爵邸に着くまで続いた。
「えーと……送ってくれてありがとう、シャー」
邸の前で馬車が停まり、いよいよ下りる段階になって、ベラは気遣わしげにシャーメインを見やる。シャーメインはまだ機嫌が悪そうだったが、目で頷いた。
「じゃあ、今日はこれで。おやすみなさい。……わっ!」
つん、とやたら長い靴の爪先がへりに軽く引っかかり、均衡を崩す。
「お嬢様」と声を上げて御者が庇おうとしたが、小柄な彼がベラを庇えばどうなるか馬鹿でもわかる。ベラは普通のご令嬢よりも背が高く、体格がいいのだ。しかも今日は頼りないわりに重たいドレスをみっちりと着込んでいる。
このまま前に足を踏み出して、運良く着地できたとしてもドレスの裾を踏んで滑るのは確実だ。
そんなことを一瞬のうちにやけに冷静に考えていると、腰をグッと後ろから攫われる。
ベラの上半身はすでに、前のめりになっていた。あと一秒遅かったら絶対に顔面を強打していたことだろう。
「う、わ……ありがとう、シャー」
「大丈夫ですか?」
「……う、うん」
耳元で低く囁かれて、顔が熱くなる。胸が早鐘を打っているようになっているのは、きっと慣れない男という生き物と密着しているからに違いないと、自分を納得させた。しかし、そうなると矛盾点が出てくる。相手は、子供のように思っていたシャーメインである。自分はシャーメインにドキドキしている。
ややあって、「彼の美声にビビっただけ」と片付ける。無事に声変わりを終えてから、彼は爽やかで聞きやすい声になった。ベラの好みの声なのだ。
シャーメインはベラの腰に腕を回したまま、ゆっくりと彼女の両足を地面につけて立たせてくれた。数秒とはいえ、お世辞にも華奢とはいえないベラを抱っこしたのだ。しかも片腕で。
そのとき、シャーメインがいっていた意味がはじめてわかった気がした。
(シャーは……逞しくなったんだな)
それを私に伝えたかったのか。いつまでも貧弱なもやしっ子ではないのだと。
弟のように思っていた男友達の成長に胸が温かくなるのを感じながら、同時に寂しいとも思う。危なっかしい彼のほうが自分の弟よりも弟のようだったから、当然の感情である。
ベラは地面に足をつけると、馬車の中に戻っていったシャーメインを振り返った。
「シャー。さっき……いや、今まで子供扱いしていてすまなかった。お前は大人になったんだな」
彼の成長に対する嬉しさと、ほんの少しの寂しさを胸に微笑むと、シャーメインは灰色の目をパチクリさせていた。
突然意見を翻したベラに驚いたのだろう。理由を聞かれるかと思っていたが、彼は何も言わずにニッコリと上機嫌に、そして上品にベラに向けて満面の笑みを向けた。その笑顔はとても嬉しそうで、ベラのほうが幸せな気分になった。
「わかってくれたのなら、いいです。おやすみなさい、ベラ」
「おやすみ、シャー」
シャーメインは最後にもう一度唇を緩ませるだけの笑みを向け
ると、馬車の扉を閉め、御者に車を出すよう命じて自宅に帰っていったのだった。
*************
翌日、ベラは昼近くになって目を覚ました。
昨晩は夜会であったため、誰も起こしにこない。もしかすると、叔父か叔母が寝させてやれと言ってくれたのかもしれない。
上体を起こし、癖のある髪をかきまわしてから、手探りに箪笥の上から眼鏡を取る。
夜会のときは外しているが、ベラは元々視力が少し悪かった。この丸い銀縁の眼鏡をかけていないと、視界の四割がぼやけて見えるのである。なので普段はかけている。
眼鏡をかけると、寝台の下でそろえられている室内履きに足を通す。使用人のお咎めを受けないよう髪形を整え、夜着にガウンを羽織っただけの姿で部屋を出た。
まず最初に向かうのは、居間である。そこは伯爵一家が過ごす空間で、頭が覚醒するまでの間ゆったりと過ごせる場所なのである。
居間の扉を開けるとまずはじめに絨毯が目に入ったが、次に目に入ったのは、今は家にはいないと思いこんでいる人物だった。
「おはよう、ベラ」
微笑みもせず、かといってまったくの無表情でもない。だが、ベラに視線を向けようとはしない。何故なら彼は、読書中だからである。
「帰っていたのか」
「なにか都合の悪いことでも?」
都合の悪いことなど一つもない。むしろ、嬉しいくらいだ。
ベラの弟は現在、王都にいるはずだった。彼は以前からの希望通り、王都の大学で勉強しているのである。
いずれは当主として我が伯爵家に君臨する男である。彼も何か考えるところがあるようなので、学歴は有利になると思っているのだろう。貴族においても平民においても定義は同様で、学識があるものは今の世の中、大変便利なのである。最高教育機関の大学に通っていれば尚更だ。
つんと澄ました気位の高い黒猫のような弟が、確かに家にいることを認識し、ベラは首を横に振った。
「いいや。隣の椅子に座っても?」
「お好きなように」
相変わらず素っ気ない。これで可愛げがあればいいのに。……いや、これで性格までよかったら彼はきっと早死にしてしまう。
変なところで弟が性格悪男であることに安堵し、ベラは弟の隣の椅子に腰掛けた。長椅子と同じ布が使われた、同じ意匠のものだ。
一息ついたところに、使用人の一人が紅茶とビスケットを持ってきて、すぐに退出した。弟は本を読みながらつまんでいたが、ベラは食べる気にならなかったのでお茶だけ啜った。
窓から入る心地良い光で体を温めていると、居間の扉が静かに開いた。
立っていたのは、ベラの養父で叔父である、グレゴリーだった。彼も、ベラと同じく夜着にガウンを羽織っている。彼とベラは本当の親子ではないが、彼の癖毛とベラの癖毛は血縁関係を確かに物語っている。
顔色が悪いのは、起きぬけだからだろうか。叔父は起き抜けに弱い。そして表情に乏しい人だから、余計に怖い。
「ああ、ベラ。起きていたのか?」
「おはようございます」
「おはよう、ベラ」
「おはようございます、叔母上」
叔父の後ろから伯爵夫人のカタリーナが続き、叔父とは正反対のにこやかな笑顔で挨拶してくれる。二人を足して二で割れば丁度なのに……と、最近思うことを心の中でまた思ってしまった。
グレゴリーが部屋に入ってきたので、ベラは一人用の椅子を叔父に譲り、叔母にすすめられるままに彼女の隣に腰掛けた。
グレゴリーは疲れたように息を吐く。元々が少し病弱な人であるため、彼が溜息を吐くときはいつもヒヤヒヤさせられる。
「叔父上、どうかなさったのですか?」
「……ベラ。お前の輿入れのことなんだが」
「……あーっ! 見て下さい、叔父上! あんなところに妖精が飛んでいるー!」
「ベラ、真面目に聞きなさい」
ふざけたベラに、叔父は冷えた声を浴びせた。
冗談が通じない、逃げられないと悟ったベラはすっとぼけるのをやめ、姿勢を正した。
貴族の娘として生まれてしまった手前、輿入れは避けては通れぬ道だった。
「ベラ。お前、また早くに夜会を抜け出したな? ウィルフォング侯爵の息子と一緒に」
叔父の高圧的な声に、猫背になってしまいそうになる。彼の声は甘いが、そこから感情が抜けてしまうとただの機械音に聞こえる。
「まったく困ったものだ。壁の花となるならまだしも、勝手に夜会を抜け出したりして……。お前は、嫁ぐ気はないのか?」
「………」
何も答えられなかった。
なにも、結婚したくないわけではない。女の幸せというのがどういうものなのか気になるし、叔父夫婦に恩返しだってしたい。
伯爵家のためになる結婚なら、どんなに年上の男にだって嫁いで跡継ぎを産んでやる。それくらいの気概はあった。しかし、それを言うといまは言い訳にしか聞こえないとわかっていたので、ベラは黙っていたのである。
叔父の言うとおり、結婚したくないという思いもあった。結婚しろと迫られるなら結婚してやる気であったが、自分から進んで結婚しようとは思わない。それはつまり、結婚したくないということだ。
「よくわかった」
叔父の諦めたような声に、ベラは胸が痛くなるのを感じた。
呆れられたのだろうか。当然かもしれない。政略に使えない娘など、貴族には不要なのだ。
叔父の反応が怖くて顔を直視できないでいると、叔父はベラを見やった後、フーッと息を吐き出した。
「……伯爵家が援助している女子修道院がある」
は? と顔を上げると、叔父はいつもの温かな顔でベラを見ていた。
「最近、院長が死んだ。明日、明後日にでもそこへ行って、経営者になるんだ。必要な手続きはすでに済ましてある。場所は御者に伝えよう」
「叔父上」
「もうなにもいわなくていい」
グレゴリーは温かな笑みを顔に浮べる。
それはいつもの、叔父の笑顔だった。
**************
ベラの修道院いきの話は、叔父夫婦、弟たちを交えてとんとん拍子で進み、叔父の提案から僅か二日後には出発することになった。
荷物などはすでに運び込ませており、あとは張本人が赴くのみだったので、ベラは普段着のシャツとベストとズボンの三つ揃えを着て家を出た。
「急なことでしたわねえ」
二頭立ての馬車に揺られながら、侍女のエッダが感慨深げに呟いた。
叔父がいうには修道女になる必要は無いらしい。〝経営者〟として院長代理もつとめる予定なので、侍女は連れて行けと言われていた。それで、馴染みのエッダを選んで連れて行くことにしたのだ。
修道女ではない経営者は、結婚が許されているが、叔父は修道女として女子修道院に入ったとわざと噂を流し、ベラを結婚から遠ざけるつもりらしい。
ベラは溜息を吐く。叔父に言われて初めて、自分の思いを自覚した。……やっぱり、結婚したくない。
認めてしまうとすっきりした。どうやら無意識のうち、叔父夫婦に恩返しをしたいという思いと葛藤していたらしい。
いくら伯爵家が力を持っていても、二十一になったベラを好き好んで嫁に貰ってくれるところはそうそうないだろう。心に決めた相手もいなかった。女の子が大好きなベラのことを配慮してか、叔父は女子修道院の経営権をくれる。
叔父には感謝しっぱなしだ。早くに親を亡くし孤児となったベラを引き取って、進んで養子にして実子と変わらぬ扱いをして可愛がってくれた。冷たい印象を受けやすいが、彼は実はとても優しい人なのだ。
好きなときに帰っておいでといってくれた叔父夫婦と、何処か不満顔の弟二人の顔を思い出し、胸が温かくなる。
家族のありがたみというものを再確認し、少し唇を緩ませて人知れず微笑んでいると、ふいに激しい馬蹄の音がするのに気付いた。
「なに? 盗賊討伐から帰った騎士たちかしら? それとも、自警団の訓練?」
ベラよりも若干耳が遠いらしいエッダはいましがた異変に気付いたらしく、窓のカーテンを捲り、外をよく見ようとする。
エッダの呟きに、ベラは納得した。女子修道院は街外れにあり、近くには山もある。行商人も通るので、騎士たちが定期的に見回りをしているのだ。街から外れた広大な景色を見れば、自警団の訓練というのも、頷ける。
特になんとも思っていなかったベラは、エッダのように好奇心のまま外を見ようとすることもなく、馬車の壁にもたれてジッとしていた。しかし、いよいよ馬蹄の音が近くなってきて、さすがのベラも怪しまずにはいられない。
気のせいだろうか。自分の乗るこの馬車を、追いかけているような気がするのだが……。
「いたぞ!」
え、という間もなく、馬車が急停止した。無防備に壁に背を預けていたベラは思いっきり頭を打ちつけ、舌を噛み、口の中に広がる僅かな鉄の味に悶絶した。
「いっ……!」
「ベラ様!? 大丈夫ですか!?」
エッダが心配そうに聞き、ベラに近寄る。急な事態に対応できず、あたふたとしている彼女はなんとかハンカチを渡そうとする。その直後、馬車で一つきりの扉が開き、光が差し込んだ。
その奥に立っていた人物に、ベラは言葉を失った。
顔を隠すのが目的のような黒い外套を纏い、余った布を頭に被って完全に顔を隠している。目すらよく見えず、口にも同じく夜色の布を巻いて完全装備の状態だ。
まさに暗殺者。その言葉がピッタリだった。
突然現れた黒ずくめの男に、臆病なエッダはベラに擦り寄る。それを腕に庇っているのを、男はフードの奥から見下ろす。
「ベラ嬢か?」
「……いかにも。私がベラだが」
「は……? ああ、そっちがベラ嬢?」
……そっちって、なに?
妙に拍子抜けした雰囲気が漂う。笑い出してしまいたいたいのに、非常に居心地が悪かった。
顔がほとんど見えなくても、男が微妙な顔をしていたのがわかった。ゴホンと気を取り直すように咳払いをしたからだ。
「……失礼。あなたがベラ嬢か」
「そうだが、なにか? お前は盗賊か? そうなら金目的なのだろうが、残念ながら金目のものはないぞ。……私とこの侍女に手を出してみろ。叔父上が黙っていない」
叔父に頼ることはもうしないと決めていたのに、まさかこんなところで誓いを破る羽目になるとは。
きっと金目当てだろうと顔を上げると、男は首を傾げて頭に疑問符を浮べていた。
「は? いや、金にも女にも困っていないんだが」
「……。……だったら一体、なんなんだ。変なことで引き止めやがって!!」
急な事態に対する怒りではなく、いまだ消えない頭と舌の痛みに憤り、伯爵令嬢は怒声を上げた。
それに気後れしたように、男はたじろいだが、すぐに背筋を正す。そして懐に手を突っ込んだ。
武器かと身構え、怯えるエッダを背に庇うようにして立ち上がる。男に突進したら逃げられるだろうかと一瞬で考えていると、口になにかを押し付けられた。
「むっ!?」
鼻と口に押し付けられているのは、白いハンカチだった。なにか塗られているのだろうか。頭が痛くなるほどの甘ったるいにおいがして、口元がベタベタする。
何も考えず、突然のことに思わず酸素を吸い込もうと鼻で息をしたとき、くらりとした感覚を覚える。足が痺れ、力が入らなくなり、ずるりとその場に座り込んだ。
「ベラ嬢。ご覚悟を」
「ベラ様ぁ!」
背後に庇われていたエッダはついに泣き出してしまう。
ああ、頼むからおいおい泣くな。泣くなら葬式のときに……なんて、余裕のあることばかり考えてしまうのは、死期が間近に迫っているからだろうか。
エッダの泣き声を耳にし、「ごめん」となんとか口を動かして呟く。
最後に女の子を泣かせるなんて、わたしは紳士の風上にも置けないな……。
それを最後に、ベラは灰色の瞳を瞼の奥に隠した。
*************
ベラ、と呼ぶ声がする。
その声は酷く心地良く、ベラは目を開けた。
あたりは華やかだった。華やか過ぎて困るくらいだ。何処かの会場を借りて催す秘密の舞踏会。そこに、ベラは今日、足を踏み入れた。
あらかじめ用意した派手な仮面を顔につけた叔母に促され、ベラも仮面を身につける。そうすると、視界が狭まって、慣れないベラはすぐにくらくらした。会場の装飾も紳士淑女の外見も派手だったが、ダンスも派手だった。クルクルクルクル回されて、いい加減目が回った。
派手な世界は最初、物珍しかったが、社交界に足を踏み入れたばかりのベラには早すぎたらしい。大人の世界にはすぐに退屈し、二、三曲ダンスを踊ると潔く壁の花に徹した。
ベラくらいの年の頃の女はいない。皆、二十歳以上の者ばかりだ。別の夜会で少し話をして名前を知った者も見かけたが、仮面舞踏会のときは爵位も名も名乗らず、代名詞を使って相手を呼ぶことになっている。そういう謎めいた取り決めが仮面舞踏会の魅力なのだろうが、器用なことが出来ないベラは話しかけないことを選んだ。
バルコニーに出て飲み物を飲んだり、たまに別室に用意された軽食をつまんだりしてお腹を満たし、いい加減退屈だなぁと思っていたとき、飽きずにダンスを踊っていた紳士と淑女の一組がのき、その後ろの光景が偶然、目に入った。
金髪の、まだ小柄な少年だった。女性にしては背が高く、現在進行形で身長を伸ばしているベラよりも低い。踵の高い靴をはいていなくても、彼のほうが低いはずだ。品よく切られた金髪を胸元でそろえ、後ろに結っていた。
彼もまた、ベラと同じく退屈そうな顔をして、クルクルと踊る人達を瞳に移していた。ベラは彼に自分と似たものを感じて、ダンスを踊っている人達を邪魔しないように壁伝いに向かい側に行って、さり気なく話しかけた。
「……退屈か?」
少年相手だからとつくったお嬢様言葉は省き、素で接することにした。ベラの質問に少年は少し驚いていた様子だったが、無言でコックリと頷いた。
その仕草がやけに可愛く見えて、ベラは口元に笑みを浮べる。
「坊やはいくつだ?」
少年は坊や呼ばわりされたことにムッときたように眉を顰めたが、小さな消え入るような声で、「十三」と答えた。となると……彼はまだ、社交界に出たことがないのかもしれない。
彼はちらりと上目遣いにベラを見てくる。少し恥ずかしそうに頬を染めていたが、ベラはその視線の意味をなんとなく理解した。
「私は十五だ。君より二つ年上だな。私は叔母に連れてきてもらったんだが、君は?」
「母上に」
まだ声変わりがきていないらしく、高い声で質問に答える少年が、ベラは早くもいとおしく思えてきた。理想の弟像だ。叔父の子で血が繋がっていないベラの弟たちは、素っ気ないか過度にベタベタしてくるかのどちらかにわかれている。
だからこそ、歳相応の態度の彼がとても可愛く見えた。
「そうか。……私はベラだ。君の名は?」
彼はしばしの間、人目を憚り逡巡したあと、声変わりの来ていない高い声で、こっそりとベラに名前を教えてくれた。
言いようによっては古臭いその名前が柔な彼にピッタリで、自然と笑みが零れた。
***************
「……シャーメイン」
「はい。なんですか、ベラ」
音をなぞるようにポツリと呟いただけなのに、返事が返ってきた。
懐かしい夢を見ていたようだ。どうやら人間、死後の世界で目覚める前に夢を見るらしい。
相変わらずの優しい、慇懃な口調でいい、ギュッと思ったよりも強い力でベラの手を握る。その感触がやけに現実味に溢れており、驚いて声の方向を向いた。
「……え? シャー?」
「はい。僕ですよ、ベラ。わかりますね?」
横には本人がいた。
なんでここにシャーが? そしてここは何処?
考えても考えてもわからないことばかり浮かんできて悶々としていたベラだったが、すぐに一番大事なことを思い出して勢いよく上体を上げた。
「黒ずくめの男が……エッダは!? どうなった!?」
「ああ、はい。わかっていますよ、ベラ。大変でしたね。もう大丈夫ですから。とりあえず、寝台に戻りましょうか」
ネグリジェの裾を翻していますぐ飛び降りる勢いのベラを腕で抱きとめ、寝台に戻す。そして落ち着いた声で、シャーメインは語った。
「エッダは無事です。随分神経をすり減らしたようで、すぐに眠りこけてしまいましたが、怪我は一つもありません。なので、別室で寝台に寝かせています」
よかった、と安堵した途端、脳内にめぐるのはまた新たな疑問。なんでここにシャーが? ここ何処? 修道院は? そして私が倒れてから何日経っているんだ?
グルグルと巡る疑問に、ベラの頭の許容量は軽く越えていた。頭を抱えて結論を出そうと唸っているベラを、シャーメインは愛しげに見つめる。
「説明が必要ですか?」
「……頼む」
なにこれ、全然、意味わかんない。
恐らく間抜けな顔をしていたのだろう。シャーメインはプッと噴出して、説明しだした。
「まず、質問をさせてください。……ベラ。あなたは修道女になるつもりなのですか?」
もう噂を広めてくれたのか。さすがは叔父上。伯爵の名は伊達じゃない。
内心で叔父を褒め称えてから、ベラはシャーメインの視線に気付いた。シャーメインはとても苦しそうな目で、ベラを見ていた。
死んだと思ったら実は生きていて、隣には幼馴染。滅多にない経験に、思考が付いていけず忘れていたが、シャーメインはベラの手を握っていた。熱い手が、ベラの手を握っている。
「ベラ。答えて」
……シャーには言ってもいいのだろうか?
長い付き合いの友達だし、シャーメインは約束を破るような男ではない。いいだろうと勝手に結論付け、ベラは一つ溜息を吐いた。
「や、修道女じゃない。叔父上に任された修道院の経営者になろうと思ってたんだ」
「そうですか。ならよかった」
シャーメインは目に見えてほっとした表情を作った。彼にとって何がよかったのかは不明だが、これ以上疑問を増やすとまた頭が大変なことになるので、ベラは口を噤んだ。
「でも何故、修道院? そんなに結婚したくなかったんですか?」
「そういうわけじゃないけど。いい縁もないし、もう誰ももらってくれないし」
なんでシャーにこんな質問をされるんだろう。今日は変な日だ。
いままでになかった結婚関係の質問に首をかしげながらの返答に、シャーメインは怪訝そうな顔をした。
「何故? ベラはこんなに綺麗なのに。あなたが望めばどんな男だって手に入ったでしょう」
綺麗? 誰が?
何の気なしに繰り出された言葉が一体誰に向けられたものかわからずポカンとしていたが、自分に向けられた言葉だということを理解して、赤面した。
シャーメインはというと、ベラのことなど少しも気にしていないようで、話を続けた。
「……ベラ。もしや、誰か心に決めた人がいるのではありませんか? 実は結ばれない運命だとか。だから世を悲観して、修道院に……」
「……ないないない。ないわー……」
一気に顔から熱が引いた。
なにを言い出すのだろうか、この子は。ベラが好きなのは男じゃなく、夢に夢見る女の子達なのに。
全力で否定すると、シャーメインはさっきの深刻な表情とは打って変わって、上機嫌に笑った。顔立ちは少年から青年へと変化したが、表情は会った当初とまったく変わらない。相変わらずの人懐っこそうな笑顔だ。思わず手を繋いで車道を歩いてあげたくなる。
「ということは、まだ僕が頑張る余地が残されてるということですね? ああ、よかった。人様のものにウッカリ手を出したら大変ですからねぇ。うん、僕の質問はこれで終わりです。これから真相を話しますね」
「……は? 何のこと? 真相?」
まったく意味がわからない。真相ってナニ。
視線で理由を問いただすと、シャーメインはニッコリと笑って衝撃的な発言をした。
「黒幕は、僕です」
……ああ、黒ずくめだけに?
ベラはなにをいわれたのかまったく理解できなかった。ベラの空っぽの心を読み取ったシャーメインは、素敵な笑顔を貼り付けたまま嬉しそうにいった。
「誘拐しちゃいました。誘拐を命じたのは僕です」
「えええええ!」
「あはは」
「あははじゃねええええ! 人騒がせなことしやがって!!」
男友達からまさかの誘拐発言! これは事件だ。
それよりも、自分を攫って何をする気だったのだろうか、こいつは。ベラを人質に取れば伯爵家は身代金を出すだろうが、シャーメインには財力も、地位もある。金目的ではない……とすると、彼の目的はベラ自身ということになる。
攫ってきてまでなにをしたかったのか……そう思っていると、シャーメインは指でベラの頬をつついた。
ベラはギロリと睨みつけ、剣呑な声を出した。
「……おい、年下」
「シャーメインです」
「ぐっ……シャ、シャーメイン!!」
「はい、なんですか」
ニコリと笑われる。
ベラは思わず額を覆った。……待て、おかしい。冷静になろう。何故、私は年下にいいように転がされているんだ。
屈辱を噛み締め、度重なる怒りと苛立ちで潤んだ目でねめつけると、シャーメインは微笑んだ。その余裕の態度も腹が立つ。昔はちょっとからかったり、唇で頬に触れただけでも顔を赤くしていたというのにだ。
「調子に乗るのもいい加減にしろ」
「嫌です」
「はぁ!?」
貼り付けたような笑顔のまま言われ、シャーメインの顔はベラの肩口に移動する。そして、カプリ、と肩の肉に甘噛みをしてきた。
「っ……シャー!! なにをするんだ! 痛いじゃない……か……」
そこまででピタリと言葉に詰まる。ベラは恐る恐る自身の恰好を見下ろした。
今日は確か、男物のシャツにベスト、ズボンの三つ揃えだったはずだ。外出用の中でも特に気に入っていた意匠のものを着ていたから、よく覚えている。――シャツは長袖のはずなのに、何故、やけに肩口がスースーするのだろう……。
ギギギ、とぎこちない動きでシャーを見やる。
「なんでネグリジェ……?」
「着替えさせたからです。脱がせやすいほうがこの先便利なので。……ベラ。そろそろ、続きをしても?」
言いつつ、ベラの首に唇を這わせようとするシャーメイン。ベラはビクッとして肩を竦めた。
「なっ……いいわけないだろう! 何をする気だ!?」
「俗に言う、既成事実をつくるというやつです」
「き、既成事実……って!」
薄暗い部屋に二人きり。そんな場所での既成事実など、一つに決まっている。
「大人の階段をのぼりましょうか。もう弟だとか、年下だなんていわせませんよ」
「やめろ! のしかかるなーっ!!」
他にも言いたいことは沢山ある。のしかかるな、喋るな、ベタベタするな、上から見下ろすな! 二、三年前までは上から見下ろされていたくせに!
ベラだって人並みに閨房は学んでいる。寝台の上で不埒な手つきで触れてくる男がすることなど……考えただけで、顔から血の気が引いた。
太腿の間に膝を割り込んで本格的に迫ってくる年下に、ベラはヒッと肩を竦めた。
「お、おい。シャー、嘘だろう? 私なんか煮ても食べてもおいしくないよ!?」
「一般に、初物は美味しいというじゃありませんか」
「人を食べ物に例えるなーっ!!」
失礼にも程があるだろうが!
なんて色気のない閨房だろう。……いや、夜這いを掛けてくる男に差し上げる純潔も色気も、持ち合わせているつもりはないけれど。
怒りと貞操の危機感に煽られ、言葉が出ないベラを、シャーメインは相変わらずの貼り付けた笑顔でベラを見下ろす。
「ふふ、寝ているベラはとても可愛かったのですよ。でも襲うのはやめました。さすがに酷かなって。ベラは生娘ですし」
「なっ……なっ……! なんで知ってるんだ!」
攫って犯そうとしている上に人の貞操のことまで調べているのか、こいつは!?
女の子にばかりかまけて男の経験がまったくないベラは、妙に慌ててしまった。令嬢たちの前ではこんな卑猥な言葉を口にしたこともない。シャーメインもそのはずだ。しかし、普段の上品さを保っていても、口から出てくるのは卑猥な言葉ばかりな気がして、ベラはくらくらした。
「考えればわかりますよ? ベラの性格は熟知しています。貞操観念が人一倍強いってことも。今時、婚前交渉や行きずりの……なんて珍しくもなんとも無いのにねぇ」
いい笑顔でなんてこと抜かしやがる!
いままで草食だとばかり思っていた年下の男の衝撃の本性を知り、ベラは死にたくなった。実はガッツリ行く肉食だったとは。
こういうのをなんというんだったか……ああ、そうだ。下克上!
グルグルと頭の中で考えていると、突如感じた痛みに、ベラは目を固く閉じる。どうやら、鎖骨の上を噛まれたようだ。
「ヒッ……お、おい、シャー……んっ!」
怯えた声を吸い取るように唇を合わせてくる。ただの触れる口付けかと思いきや、唇の淵をなぞってぬるりとしたものが入り込み、口内を好き勝手に蹂躙する。そのぬるりとしたものというのは確かにシャーメインの舌で、彼の舌に絡め取られている一回り小さな舌は、間違いなく自分のものだった。
羞恥と怒りで顔が赤くなる。彼はベラの舌を好きなだけ可愛がると、唇を離した。やっと終わったかと思ったが、それだけでは飽き足らず、彼は軽く触れるだけの口付けを繰り返した。まるで、ベラの唇を艶かしく光らせる、二人の唾液を吸い取るように。
「お、おい……ん……シャー……?」
「もう年下だなんていわせませんからね」
シャーメインは真面目な顔でベラと目を合わせた。灰色の瞳は度重なる口付けのせいか少し潤み、うっとりするほど綺麗で――そして隠しきれない熱が浮いていた。
「いままで沢山我慢してきたんです。もう少し待ってもいいかと持っていましたが……このまま放せば、あなたはもう僕の手の届かないところに行ってしまうでしょう?」
そこまでいうと、シャーメインは首で結んでいるタイを片手で緩めて外し、ベストを脱ぎ捨てた。
外したタイとベストを床に乱雑に落とすと、シャツとズボンだけになったシャーメインはジッとベラを見下ろす。押し倒されているのだから、そういう体勢になるのは仕方がない。なのに、何故だろう――慣れない異性に見下ろされているからか、心臓が耳元でバクバクと音を立てている。
この状況をなんとかしなくては、とグイグイと彼の胸を押し返して距離をとろうとするのだが、びくともしない。それどころか、思ったよりも筋肉質で、大きな体に驚かされた。
ベラは女にしては背が高く、一部の貴族に「男のようだ」と揶揄されたこともあるほど体格がいいはずなのに、年下のシャーメインのほうが、背肩幅が広く筋肉質だった。
ペタペタと物珍しげに触れてくるベラの両手を少し照れくさそうにつかみ、シャーメインは笑い、切ない声を出した。
「イザベラ。あなたを愛しています。ずっと昔から。あなたを一目見たときから、ずっと好きです。愛していますよ、ベラ。本当です」
「……は? 好き?」
なにその魔法の言葉。
大好きな歌劇でよく聞く言葉が自分に向けられたものだというだけで、頭が付いていかない。イザベラは、思考が停止してしまい、頭が真っ白になったことによりなにも出来なくなった。その間の抜けた顔に、シャーメインはそっと触れるだけの口付けを落とす。
「はい、大好きです。……いっておきますが、これはあなたお得意の弟が姉に抱くようなものとか、友人に抱くようなものではありませんから、あしからず。異性に抱くものですからね。僕は会ったそのときから、あなたを女性として意識していましたよ」
「……うそだろ。んなわけあるか!」
「嘘なんかつきませんよ。こんな恥ずかしい嘘をつくわけないでしょう? ほら、覚えていますか? はじめて会った舞踏会のとき。あなたとすぐに目を合わせなかったでしょう? いまほどお喋りではありませんでしたし」
心なしか顔を赤くさせて、シャーメインは言う。その顔は、六年前の仮面舞踏会のときに見せた少年と同じだった。
六年前……会った当初、彼はいま目の前にいる人と同一人物だとは思えないほど言葉少なだった。最低限の言葉しか話さず、ベラが顔を覗き込もうとするとすぐに横に逸らして目を合わせてくれなかった。しかし、一度だけベラを見上げてきたその顔は確かに赤かったと思う。
「あ、あのときは多感なお年頃というやつだろう!?」
「あー、全然違います。あなたがあまりに綺麗なので、顔を合わせられなかっただけです」
「初耳なんだけど!?」
あのときのベラは、がたいだけがいい、色気もクソもなく、綺麗とはとてもいえない少女だったはず。赤銅色の髪に灰色の瞳という何処にでもいそうな容姿で、確かに少し化粧をして髪を結い上げてはいたが、仮面をしていては意味がない。身分を隠して楽しむ仮面舞踏会では叔父の持っている爵位も関係なく、ベラに魅力的な部分は何一つなかったはずだ。
まだなにか聞こうとする開いたベラの口を、シャーメインが自身の唇で封じる。黙らせるだけが目的のようで、短く舌を絡ませて、引き抜くと、ニッと唇を吊り上げた。
「愛していますよ、ベラ」
耳元で低く囁かれ、背筋がゾクゾクした。
認めよう。年下の彼を、いまだけはどうしても、異性として意識してしまう。……しかしだ。
腰のくびれを撫でた彼の大きな大人の手はやがて、腹部で結ばれている帯にたどり着き、解こうとするのはいただけない。
「!! わ、わかったから……とにかくそこを退け! 帯を解くな! ええいっ、離せ!!」
いよいよ堪忍袋の緒が切れたベラは、シャーメインに向かって、怒声と共に柔らかい枕を思いっきり彼の顔面に押し付けたのだった。
***************
母とはぐれてしまった。
はじめての夜会で起こった思わぬ事故に不安を覚えた十三歳のシャーメインは、人が集まったばかりの会場を歩き回っていた。
水色、薄緑、黒、白、赤……それぞれ違った色のドレスを着た人の後ろを通り過ぎ、何度も会場を回った。しかし、母は見つからず、「帰りになれば探してくれるだろう」とたかをくくって壁際に寄った。
退屈だ。通りすがりの給仕がすすめてくれた飲み物を飲んでも、退屈は紛らわされなかった。
一人壁の花になっていると、本格的に人が集まってきて、会場が騒がしくなる。仮面舞踏会は無礼講をしてもよいことになっているので、通常の夜会よりも一層騒がしく感じられた。騒がしいのを好まないシャーメインは、さっさとバルコニーか用意されていた個室に移って大人しくするのがよいと判断した。そこにいれば母も戻ってくる。いい考えに思えた。
実行に移そうとしたそのとき、ふと品のよい水色が目に入った。
十三歳の少年はそのドレス――いや、正確にはドレスを着ている少女――に、一瞬で魅せられた。
ふわりとした赤銅色の髪。仮面の奥に見えるのは自分と同じ灰色の瞳。変なところに親近感を感じ、沸騰したように顔が熱くなった。
自分と同じく、はじめてきたのだろうか。彼女が物珍しげにあたりを見回しているとき、自分が視界に入りそうでシャーメインは穴があったら埋まりたいと思い、彼女の視界に極力入らないよう、人ごみを利用した。
ああ、これが俗に言う一目ぼれというやつか……と、幼心に感じた。
そのうち彼女は仮面をした若い男たちに囲まれ、ダンスの誘いを受けた。しばらくしてダンスがはじまり、彼女がクルクルと上手く踊るのが、シャーメインは気に入らなかった。いつしか、『個室に戻って母を待つ』という当初の目的を忘れて、彼女を目で追っていた。
視界に入らないように、踊っている人を透かして彼女を観察していた。しかし、飽きっぽい人々はいつのまにかダンスをやめていき、彼女は最初の二、三曲踊っただけでやめてしまった。
そのことを残念に思うと、彼女がいなくなっただけでこの場はやはり退屈なのだということに気付いた。
また退屈のときが続くのか…と何度も絶えず溜息を吐いていると、ふと飽きずに踊っていた一組が視界からいなくなり、彼女と目が合った。
胸がドキドキする。苦しくて、顔が熱い。
鎮まれと念じていると、彼女が壁伝いにこちらにこようとしているのが見えた。
まさか、自分の元に来る気じゃ……という予想は当たり、彼女は自分の隣に背中を預けた。
なにかいわなくては、気の聞いた会話を……そう思ってなにかいおうとするのだが、緊張しすぎて声が出ない。
そんなこんなしているうちに、彼女が質問した。
「……退屈か?」
思ったよりも深みのある女の声が聞く。頭がぐちゃぐちゃですぐには返事が出来ない上に声も出せず、コックリと無愛想に頷いた。
気を悪くされたかと思ったが、彼女は気にせず次の質問を繰り出す。
「坊やはいくつだ?」
いましがた恋したばかりの相手に坊や呼ばわりされたことに苛立って、思わず眉間にしわを寄せてしまった。
仮面舞踏会で相手の身元を詮索することは、禁止されている。しかし、少年で夜会の作法など知りもしないシャーメインはすぐに答えてしまった。
「十三」
いって、後悔する。彼女は明らかに結婚適齢期の十六歳ほどだ。十三歳など、子供に見えるだろう。初恋の相手に子供に見られるほど、屈辱はない。
それでも、まだ望みはあると思って、キッと彼女を見上げる。上目遣いになるのは、身長差ゆえに仕方のないことだ。彼女はシャーメインの視線の意味に気付いたようで、答えてくれた。
「私は十五だ。君より二つ年上だな。私は叔母上に連れてきてもらったんだが、君は?」
「母上に」
歳の差がたった二つだということに、安堵する。けれど、たった二つでも十代においてはかなりの差に思えてくる。二十歳と二十二歳ならそう差もないように思えるが、十三歳と十五歳の差は意味が違う気がした。
「そうか。……私はベラだ。君の名は?」
ベラ……愛称だろうか? だとすると、本名が知りたいと思った。けれど、言い出すのはとてもじゃないが無理だった。
そして、多感なお年頃だった自分は、自分の名前を言うのもいやだった。シャーメインなんて、古臭い。歴史上のお偉い人物かどうかは知らないが、今時こんな名前の子供はなかなかいない。
だから、人に聞かれるのはいやだった。けれど、彼女には名前を覚えておいて貰いたかった。
しばらくの間葛藤していたが、結局彼女へ抱いた恋心に負けてしまい、「シャーメイン」と小さな声で答えた。
「……ほう。随分と珍しい名なのだな」
絶対いわれると思っていたことを容赦なく言われ、シャーメインは小さくなった。
恥ずかしがっている自分を見て、彼女がどんな顔をして、どんなことを思っていたのかはわからない。けれど、声は明るかった。
「では君はシャーだな。よろしく、シャー。私も丁度退屈していたところだ。一緒にトランプでもして遊ばないか?」
彼女が単純に退屈しのぎの理由で自分を誘ったのか、それとも自分の年齢を慮ってくれたのかはわからない。けれどなんとなく、後者に思えて不満を抱いた。
たったの二つの歳の差ではないか……と思ったが、さっきもいったとおり、十代の二歳差と二十代の二歳差は全然重みが違う。態度からみると、彼女は恐らくシャーメインを弟のように思っていることだろう。
二十歳になれば、絶対に、彼女を手に入れる。二つの年の差が、目立たなくなるそのときに。
シャーメインは十三歳のときから、そのことを決意していた。
その間に恋心が薄れれば諦めようと思っていたが、思いは年々強くなるばかりで、知能も体も大人になっていったシャーメインに比例して、結婚適齢期に突入していくベラを誰かに取られないか心配で、夜会では常に目を光らせていた。
ベラの持つ家格も、女性にしては高い背と体つきも、彼女の持つものは一般の貴族の令嬢には当て嵌まらない新しさがあり、シャーメイン以外の男の興味を引いていた。競争相手は絶えなかったのである。
半年後、侯爵を継いだあとに求婚するつもりだった。彼女に求婚すれば馬鹿にされるのは目に見えているから、彼女の養父に結婚の許しを貰い、その場の繋ぎにし、その後に少しずつ愛情を育むつもりだった。
その前に彼女が修道女になるという思わぬ事態が起こり(彼女の叔父が流したただの噂だったが)、少し暴走してしまったが、結果的に手に入ったのでよしとしよう。
幼き日の恋心が本当の意味で実るのは、いつの日か……。
少し先の話になりそうだ、と呟き、彼はすべてが終わり隣で浅く息を切らすベラを見下ろす。
体は奪った。あとは、心を奪うだけ。……それが一番、大変なのだけれど。
まるで獲物を狙う鷹のような目のシャーメインに気付かず、ベラは力なく頭を枕に沈め、そのうち静かな寝息を立てた。
遠くの空の深い藍色が、だんだん暗くなってきていた。
最後までお付き合いくださりありがとうございました!!
皆さん、こんにちは。あるいはこんばんは、おはようございます……というと、きりがないですね(笑)
はじめましての方、々 千早と申します。今回は初の短編でございます。
最近、年上と年下の組み合わせに萌えてしまい、「ど~しても、書きたい!」と思い、衝動に任せて書いてしまいました。
ウェンデル×イリスもすきなのですが、ベラ×シャーは滅茶苦茶気に入ってます! いまのところ、ダントツです! いいところは、書きやすいところ!(←ォィ 私との相性がとてもいいです!
この二人でまた、連載形式で続編が書けたらいいなと思います。
ここまでありがとうございました。これからもどうか、々 千早をご贔屓に……。