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この日の夜は、何度目を閉じても眠れなかった。
深呼吸を繰り返しても、心臓が強く脈打つ感覚が治らない。
息が詰まる。
こんなことは初めてだった。
喉が張り付く感覚がして、水を飲みにリビングへ行った。
テーブルに赤ワインの空き瓶とワイングラス。
珍しく母が酒を飲んだらしい。
相当嫌なことがあったようだ。
水を一口飲んで部屋に戻り、再び布団の中で目を閉じる。
深呼吸を何度か繰り返した後、目を開けてしまった。
どうせ寝れないのだ、もう諦めよう。
コートを手に取り、ネグリジェの上から羽織った。
音がしないように忍び足で玄関まで歩く。
酒を飲んだ日の母は滅多に起きない。
外の空気はひどく冷たくて、空気が体を巡るのがわかる。
手袋を重ねてはめて、ゆっくりと歩きだした。
涙が出そうなくらい寒い夜だった。
行き先など決めていなかったけれど、気がつけばふらふらとあの公園に迷い込む。
決めていなくても、ここしか行くところもなかった。
ぎゅっぎゅっと雪を踏む足音に気を取られて、キラキラと光る足元ばかりを見ていた。
ふと顔を上げた先で公園に先客がいたことに気がつく。
こんな暗闇で足元の真っ白な雪しか灯りがなくても、どうしたって一目でわかってしまう。
真っ暗な夜に溶けてしまいそうな、見覚えのあるシルエット。
吐く白い息。ポケットに突っ込む手。静かに空を見上げる横顔。
彼の孤独が、この夜のせいで浮き彫りになる。
「……会いたかった」
彼の視線が空から私へと移った。
ハッとする。
思ったことがつい、口を突いて漏れ出てしまったのだ。
少しだけ目を見開いたように見えた彼は私を捉えたまま、
「びっっくりした〜」
そう言って、とても綺麗に笑った。
私もつられて一緒に笑った。
鼻がツンとする。寒さのせいだ。
静かに涙が溢れた。
私は知っている。
涙は何食わぬ顔で流し続けていると、気付かれないものだと。
今日は特に乾燥していて、寒いようだ。
次々に伝う涙を拭わずに、彼と一緒に笑った。
暗闇の中でスッと彼の手が伸びて、私の涙を拭っていく。
彼は何も聞かなかった。
ただ、眉尻を少し下げて優しく微笑みながら、私の頬に触れる。
冷たいはずの彼の手は、私にとっては酷く温かかった。
「いると思わなかったよ。」
そう言って下を向く私に
「俺も。来ると思ってなかった。」
彼はそう答えた。
今日は星が綺麗だったから。と、告げて彼が見上げた空は澄んでいて、眩いくらいに星が輝いていた。
久しぶりに頭を上げた気がした。
理由のわからない毒素が身体を埋め尽くしていたようだ。
浄化されて、体が軽くなっていく。
この日、私は弟の話を彼にした。
彼は、
「将棋なんて触ったことない。すごい才能だよ。きっと賢い子なんだね。」
そう言って、会ったことのない私の小さな弟を褒めた。
今まで碌に相手をしてあげなかった弟。
自分の心を大事に生きるかわいい弟。
もっと愛してあげたい。私もその心を大事にしてあげたい。そう思った。
夜中だからと、彼は私を家まで送り届けた。
「俺にとって、君は星みたいな存在だよ。」
そう言う彼に、
「星?」
と聞き返したけれど、彼は何も言わずに私を見て微笑んだ。
私はこんなに綺麗なものではないし、輝いてもいない。
けれど、彼の前では綺麗でいたくなった。
結局、冬休み中に彼に会えたのはこの一度だけ。
私はまた外に出ず、ひたすらにピアノを弾き続けた。




