5
あれから母は、家にいる日の方が少なくなった。
2週間も経てば、放課後に角の教室へ行くことが私の日常になりつつあった。
ほとんど毎日顔を合わせるようになっても、私たちの距離はさほど変わらない。
少し会話が続くようになったけれど、相変わらずすぐに終わってしまう。
変わったことといえば、前よりも目を合わせて話してくれるようになったことくらいだ。
いつもより早く角の教室につくと、彼はまだいなかった。
ピアノを弾き始めてしばらくすると、ドアが開かれる。
「校歌?」
「うん。終業式が近いから」
「ああ」と小さく呟いて、彼は窓の手すりに触れ、もたれかかる。
再び弾き始めたピアノに、小さな鼻歌が混じった。
その鼻歌が止まった時、私の手も止まった。
彼の方を見ると、彼は不思議そうな瞳でゆっくりと私の方を見る。
「綺麗な声だね!」
転校してきたばかりで、おそらく初めて歌ったであろう校歌の音程がぴたりと合っていたのだ。
まだ声変わりのしていない、澄んだ音だった。
「……ありがとう。」
彼の瞳は床をなぞったあと、また外に向けられた。
もう一度弾いても、彼はもう鼻歌を歌ってはくれなかった。
今年は、随分と長い夏休みだった。
例年より気温が高く、ジワジワと照りつける太陽が毎朝私を起こした。
こんなに天気がいいのに、私は毎日ピアノ部屋に篭る。
窓から見た、走り回るタンクトップ姿の少年たちの小麦色の肌が、やけに眩しく見えた。
私の肌は、もうずっと雪のように白いままだ。
夏休みが終わったあと、少し日焼けした彼は声が掠れていた。
あの照りつける太陽の下で、彼はどんな夏を過ごしたのだろうか。
角の教室でだけ、私たちは時間を共有し続けた。
ある日は取れかけている制服のボタンが気になって、裁縫道具を待って行った。
裁縫をほとんどしたことのない私は、レッスンまでの時間目一杯を使ってやっと縫い付けた。
手を傷つけないよう、たくさんの指サックをつけて。
秋になって、ふと初めて会った時よりも背がだいぶ伸びたことに気がつく。
ほとんど変わらなかった目線が、今は肩ほどの位置になった。
掠れた声も、もうだいぶ低い。
校歌を歌っていたあの音は、もう2度と出ないだろう。
私だけが知っているあの音を思い出そうとすると、どうしても音階に当てはめてしまう。
こうして、記憶なんてものはどんどん色褪せてしまうと知った。
雪が降り始めて、彼の進路を何気なく聞いてみたが、笑ってはぐらかされた。
いくら時間を共有しても、私が踏み込んでいい場所はないのかもしれない。
彼との距離は変わらず平行線だ。
雪が積もった頃、もう一度彼に踏み込んでみた。
「一緒に帰ろう?」
彼は少しだけ驚いた顔で私を見たが、返事はない。
私には、雪が積もると行きたくなる場所があった。
学校から少し離れたところにある、木に囲まれた小さな公園。
冬は人通りが少なく、誰も足を踏み入れていない雪が敷き詰められている。
小学生の頃、たまに遊んでいた友達に“秘密の場所”として教えてもらったのだ。
その子はすぐに転校してしまって、ここへ来るのは私だけになったけれど。
私は未だに、たまに1人でここへ来る。
まっさらな雪に一本の道を作って帰るのだ。
なによりも綺麗な雪を踏み締めた時の、“きゅっきゅっ”となる感覚が好きだった。
返事のない彼に、
「少し寄り道がしたいけど、誘える友達がいなくて…」
と、同情を誘うような口調で、少しだけ卑怯な手を取った。
1人で行けるくせに。
「友達ならたくさんいるだろ」
そう小さく嘲笑う彼を
「今日だけ!」
と笑って誤魔化し、半ば強引に連れていった。
次の日も、また次の日も、この公園に彼を連れて行った。
雪が降って、また新しく平される雪を彼と一緒に踏み締める。
公園を出るとき、振り返ると2本の道ができている。
会話などほとんどない。
それでも、その景色がなんだかとても愛おしかった。
そんな時、怒鳴り声にも似たような激しく言い争う声が聞こえてきた。
只事ではない気がして、咄嗟に体が声の方に動いてしまう。
破れて錆びたフェンス越しに見たのは、殴り合いの喧嘩だった。
私はこの時、生まれて初めて喧嘩を見た。
人から血が流れている。
理性を無くして、まるで獣のよう。
自分から流れているわけではないのに、サッと血の気が引いていく。
「どうしよう、どうしよう」そう呟きながら、止めに入ろうと身を乗り出した時、隣から遮る腕が伸びる。
「大丈夫だから。」
宮坂くんは、いたって冷静だった。
むしろ、いつもより冷え切った目で彼らを見ていた。
「今は興奮してるから、止めても無駄だよ。」
「で、でも血が…」
彼は私の肩を両手で掴んだ。
動揺して焦点の定まらない私と目を合わせる。
「大丈夫だから、先に帰って。」
そう言って、無理やりあげたような口角で微笑んだ。
いつもより優しい声に反して、彼の目は全く笑っていない。
冬だからだろうか。鼻の奥がツンとする。
彼の微笑みは、どこか苦しそうだった。




