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「花音ちゃん、ママ今日少し遅くなるわ。堤さんにお夕飯も頼んでるから。」
朝、母が優雅に朝食を食べながら言った。
母は滅多に家を空けない。
夕飯まで帰ってこないなんて、初めてかもしれない。
「うん。わかった。」
少しの違和感を感じながらも、笑顔で返事をした。
それよりも、今日も角の教室に行けることの方が私には嬉しかった。
午後、移動教室で3組の前を通った。
あ、合図…
そう思って廊下を歩きながら、ガラス越しに首を伸ばした。
思いがけずに、すぐ宮坂くんと目が合ってしまった。
まだ合図を考えていなかった私は右往左往して、なにを思ったのか咄嗟にウィンクをした。
自分の引き出しの少なさに落胆する。
やってしまってから恥ずかしさに耐えきれずに、顔を持っていた教科書で隠した。
隣を歩く友達に「どうしたの?」と尋ねられたが、「なんだか咳が…」と空咳をして誤魔化した。
誤魔化…せているのだろうか。
きっと今の私は耳まで千切れそうなほど赤い。
どうして咄嗟に出てきたのがウィンクだったのだろうか。
恥ずかしすぎて、今にも噴火してしまいそうだ。
もはや今日は、宮坂くんに会いたくない。
早く熱を逃したくて、早くこの時間が過ぎてほしくて、ぎゅっと目を瞑った。
わかっている。記憶は改竄できないし、時間は平等にしか過ぎない。
結局私は、恥ずかしさよりも高鳴る鼓動を優先させて彼の待つ場所に行くんだから。
放課後、角の教室の前で深呼吸をして、そっと扉を開ける。
今日はこの防音扉がいつもより重い。
彼は今日も私より早かった。
窓から外を見ていた坊主頭が、振り返って瞳に私を捉えた。
彼は少しだけはにかんで、また窓に向き直る。
私も耐えられずに、ぎこちなく顔を逸らした。
「き、今日も早いね!」
「うん。友達もいないから。」
「…友達、作らないの?みんないい人だよ?」
「うん。…友達になっても、みんなと一緒に遊べないし。」
どういう意味を含んでいるのか、考えて沈黙してしまった。
ついでにピアノを開く手の動きも遅くなる。
彼は続ける。
「うち、貧乏なんだ。ゲームの話もわからないし、休みの日に遊びに行くこともできない。友達になっても気を使わせるか、離れていくかのどっちかだよ。」
「…そっ…か…」
表情を変えずに淡々と、変わらず外を見ている彼に、気の利く一言が出てこない。
いろんな引き出しを探ってみても、どれも違う。
そもそも、友達とはなんなのか。
小学校からみんな一緒で仲はいいけれど、私にも放課後や休日に遊ぶ友達はいない。
常にピアノばかりで、遊びの誘いを断り続けていたら、とうの昔に誘われることもなくなってしまった。
誘われたところで、結局行けないのだけど。
私のスケジュールは、全て母の管理下にあるのだから。
沈黙が続く空間に、切り込んだのは彼だった。
「ねえ、そんなことよりさ、“合図”変えてくれない?」
不意に、1番痛いところを突かれる。
少しだけ忘れて傷が浅くなってきていたのに、再び思い出して顔が熱を帯びていく。
「あ、ち、ちょっといいの思い付かなくて!咄嗟に…」
「はははっ、頷くとかでもわかるからさ。君の“合図”でクラスが一瞬ざわついたよ。」
彼はたじろいでいる私を揶揄うかのように、声を出して笑った。
「えっ!うそ!宮坂くんにしか見られていないと思ったのに!」
私は不意に顔を覆った。
恥ずかしくて少しだけ涙が出てしまいそうだった。
早く時間が経って、みんなの記憶から消え去って欲しい。
「うん。俺だけ受け取っておくよ。」
そんな彼の言葉は、私のぐるぐるした頭の中には入らなかった。
次の日、また母の帰りが遅くなるようだった。
私は、宮坂くんに合図をする。
目が合った時に、軽く頷く。
合図を受け取った彼は、少しだけ優しく微笑んだように見えた。
すぐに目線が外れるから、錯覚かもしれないが。
「3日連続で来ることもあるんだね。」
彼が床に腰を下ろす位置が、また近くなった気がする。
「うん。私も初めて!」
「…そうなんだ。」
「いつもはお母さんが家にいるから寄り道できないんだけどね、昨日から夜まで留守にしてるんだ。だから、レッスンまでに戻れば大丈夫!」
「そう…厳しいんだね。」
「厳しい…?うん。でも、私にとってはもう当たり前なの。」
笑顔を作りながら彼の方に視線をやると、彼も私を見ていた。
床ばかりを彷徨っていた視線が、以前よりよく合うようになった気がする。
「将来は、ピアニストになりたいの?」
「うん。ならないとね。」
ピアニストには、なりたい。
ピアノが好きだし、正直才能がある自覚もあった。
それに、私にはそれ以外の未来が描けない。
私からピアノを取ってしまったら、何が残る?
「……親が、嫌にならない?」
彼の質問に少し困惑した。
「嫌に?…考えたことなかったな…」
「いや、いいんだ。そっか。」
“親を嫌いになる。”
そんな選択肢があることを、初めて知った。
この時の私には、全く理解ができなかったけれど。
14歳の私は、従順で、世間知らずで、酷く浅はかだった。




