25
瞼を開いた先に見えた、知らない景色にため息を吐いた。
呆れるほどに記憶がない。
ゆっくりと上体を起こすと、頭が締め付けられるように痛む。
けれど、いつもと何かが違う。
私は昨日と同じ服を、未だに身につけていた。
「あ、起きたー?水飲む?」
器用にボールペンで髪をまとめ上げている男が、キッチンでコップに注いだ水を飲みながら、気だるそうにこちらに問いかけた。
いつもなら一夜を共に過ごした相手くらい、なんとなくは覚えている。
おかしい。私はその男を凝視した。
私の視線に気がついた男は、「ん?」と、片眉をあげて不思議そうな顔をする。
「あ、眠かったら寝てていいよ。まだ9時だし。」
そう言いながら、水の入ったコップを持ってこちらに歩いてくる。
「…だれ?」
私の言葉に、男は立ち止まった。
「え、まじ?」
そう言って気だるそうに息を吐いたあと、満面の笑みをこちらに向けてくる。
「凛ちゃ〜ん」
高い声を出して、ヒラヒラと手を振って見せる姿には既視感しかない。
「え、待って。アイ、ちゃん…?」
「そう!!!アイちゃん!すっぴんで髪上げてるとわかんないか〜!」
「うん!ごめん!えっと…ごめん記憶ない!」
「うんうん。……もういい?俺朝からアイちゃんきついわ。」
そう言って、スッと顔の力を抜いたアイちゃんは、私の横に足を開いて腰掛けた。
「あっうん。ごめん無理させて…」
いつものイメージとかけ離れたその姿に、私は少し困惑した。
アイちゃんから発せられる低い声と、雑な口調は新鮮だったからだ。
「いや、ごめん。…凛ちゃん、俺のことおかまだと思ってたでしょ。」
油断しきっていた私の心は、すでに見透かされていた。
何も疑うことなくそう思っていたが、人によっては失礼だったかもしれないと、反省する。
「いや、俺がそう見せてたんだけど!実は普通にめっちゃ女好き。」
そう言って、気まずそうに目が揺れる私に笑って見せる。
私は何も言わず、理解したことを示すために数回頷いた。
「ねえ、昨日のこと本当に覚えてない?多分だけど、思い出したほうがいいよ。」
私は痛む頭を抑えながら記憶を掘り起こした。
昨日は、シャンパンを数本空けたあと、芋焼酎、そしてまたシャンパンを飲んだ。
心配する瞳さんに、大丈夫だと言って1人で店を出たのだ。
確か、そうだった。
家に着いて…いや、家の中まで辿り着いていない。
家の前に…蘇ってくる記憶にまた頭を抱えた。
そうだ。家の前で彼が笑って待っていた。
「…アイちゃん。もしかして、会った?」
「うん。会ったよ。多分、凛ちゃんの“愛”に会った。」
アイちゃんの不思議な言い回しに、私は首を傾げた。
「…“愛“?」
「うん。違った?」
「いや…え、どうだろう…」
「余計なお世話かもしれないけど、ちゃんと向き合ったほうがいいよ。あの子は向き合いたいと思ってる。」
「え?そんなはずないよ。」
私はアイちゃんの真面目な言葉を、笑って軽くあしらった。
「あの子、芸能人だよね?リスクを負って凛ちゃんに会いにきて、拒絶されても逃げなくて、俺の身元もしっかり確認して、今も見て。“凛ちゃんの体調はどうですか?”だって。しつこっ!それだけ心配なんだよ。」
アイちゃんが見せた携帯の画面には、1回の通話記録とメッセージが見えた。
鶴の恩返し的な?
あの時側にいたから、何か返そうとしてくれているのだろうか。
「凛ちゃんは何が不安で彼を遠ざけるの?」
「不安…っていうかさ、私、嘘つきなんだよね。」
「ん?」
アイちゃんが、眉頭を上げて私を見た。
「実は、中学の同級生なの。たまたま再会しちゃったんだよね。でも、今の私を知られたくなくて隠してる。向こうにとってもアイちゃんの言うとおり、私と関わることはリスクだと思う。だから、うん。まあいいんだ。嫌われても。」
「あんだけ泣いてたくせに?」
「………うそ。」
「ほんと〜」
「はあ。記憶ないのに恥だけ残るやつじゃんか!」
2人で顔を見合ってわざとらしく笑った。
「ごめんね、巻き込んで。」
私はアイちゃんから目を逸らして、小さく呟いた。
「凛ちゃん、“愛”はちゃんと受け取るべきだよ。後悔した頃には、確実に時は進んでる。出会ったことも再会したことも、きっと何か意味があると、俺は思う。」
「意味なんて、正直知りたくない。」
「変わらないものなんて、生きてる限りはないからね。俺も昔は変化を恐れたよ。でも、無理なんだよね。」
静かな空気が私たちの間に流れた。
アイちゃんは小さくため息をついて、
「俺はさ、死んだ人の鎧をかぶってるんだよ。もう10年以上経つのに、受け止められなかった愛を、正面から向き合わなかったことを、後悔してる。凛ちゃんには同じ想いをしてほしくない、かな。」
「…鎧?…恋人だったの?」
「ううん。恩人だった。俺にこの街で居場所をくれた人。俺は同じ愛を返せなくて、適当にあしらった。…病気だったんだよ。俺、なんも知らなくてさ。俺だけじゃなくて、誰も知らなかった。それでもずっと笑ってるような、強い人だった。」
アイちゃんの語る過去に、私はかける言葉がなかった。
淡々と話しているようでどこか苦しそうなアイちゃんは、まだ傷が癒えていないようだ。
重たい空気を払うように、アイちゃんがパチンと両手を叩いた。
「まあ俺の話は別によくて、どうすんの?」
私はまた黙り込んだ。
このまま流れに身を任せて、自分から動く気はないからだ。
「悪いけど、俺は踏み込むよ。凛ちゃんはそういうの嫌いそうだけど、関係ないやつだからこそ言えることはあるからね。」
アイちゃんの強い瞳に、答えを言わなければ逃れられないと悟った。
「このままでいいの。私は。」
負けじと強い瞳で言い切った。
「ふっ。絶対後悔すんなよ。」
そう言って、私の背中をバチン!と叩いた。
痛い。加減を知らない男の力だ。
背中を抑えながら、私は帰り支度を始めた。
玄関まで来た時、
「あ、来週店行くわ。」
と、アイちゃんが言った。
「え?なんで?」
「野良猫のラストだからさ。…いるだろ?瞳。」
そう言って、見たことのない柔らかい顔で笑う。
「ああ、うん。」
私はアイちゃんの口から瞳さんの名前が出たことが意外で、少し不思議そうな顔をしながら頷いた。
Lacisはアイちゃんの店と契約しているけれど、瞳さんは別のヘアセットに通っていたからだ。
そして、今まで1度もアイちゃんが店に来ているのを見たことがない。
たとえ誰かのラストであっても、綺麗な最終幕のセットを飾る専門だからだ。
なにより、2人の口から互いの名前を聞いたことが一度もなかった。
少しの違和感を覚えながらも、
「では、ご迷惑おかけしてすいません。お邪魔しました。」
そう言って、お辞儀をして見せた。
「はいはい、では後ほど〜。」
アイちゃんはいつも通り、ヒラヒラと手を振りながら玄関の扉を閉めた。
今にも雨が降り出しそうな空を見上げて、急いで家に向かって足を進めた。
思った以上にアイちゃんの家が近所で助かった。
私はまだ、1人の夜に耐えられたわけではない。
でも、次は耐えられる気がした。
自分の選択を信じて、あとは強さを持つだけだ。




