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「ねえ、もう帰ってくんない?」


瞳さんの呆れた声に重たい瞼を開けた。

なぜここにいるのか覚えてはいないが、どうやら私は瞳さんの家に来ていた。


「なんで?まだ飲もーよ」


そう言って握っていたグラスを口に運ぶ。

酔っていてもわかる。

この透明な液体は酒の味がしない。


「おねえちゃーん、これ水じゃない?お酒がいいんだけど!」


「うるせえ今頃かよ。今まで水しか飲ませたことないけど?」


瞳さんの言葉に私は頬を膨らませた。

向かいに足を組んで座る瞳さんは、呆れたように私の顔を見てタバコの煙を吐いた。


「あんた、ここ最近酔うとうち来るけどなに?ハルんちでも行ったら?」


タバコを吸おうとした手の動きが止まる。


「…ハル?」


「あーえっと、なんだっけ?あー…雪也雪也!」


「あー、雪也?切った。」


瞳さんが私の顔を確認した気配がする。

私は素知らぬ顔をしてタバコに火をつけた。


「ふーん。付き合うんだと思ってたわ勝手に。」


「別に、好きじゃないもん。お互い。」


瞳さんは、何も言わずに顔を逸らした。

いつもそう。この人は自分のことも大して語らない代わりに、人のことも深入りしない。

ここまでだろう。という明確な線引きが、人にも自分にもある。

そんな瞳さんが、私の目には強く見えて羨ましい。


「ねえ、LUMATOMのハルって知ってる?」


「ねえ、年増だからって馬鹿にしてる?知ってるよ。」


瞳さんは笑いながら、そう言った。

彼はアイドルに詳しくない瞳さんが知るくらい、大きくなったのだと実感する。

それもそうだ。

一時期耳を塞いでも、彼の声が私の両手をすり抜けて入り込んでくるくらいだった。


「あれ、今休止中だっけ?LUMATOMのハルがどうしたの?ハマった?」


私は笑いながら手元の水を飲み干した。

それでもまだ、私の身体の中はアルコールが侵食していてフワフワする。


「うん。あれね、私の初恋。」


「初恋?」


「うん。中学の同級生なの。」


視界の端で、瞳さんの顔から揶揄うような笑顔が消えた。


「私、昔ピアニストだったんだ。純粋で綺麗でさあ…今とは正反対よ。結びつかないよなあ今とは。」


乾いた笑い声が、口から漏れた。

静かな室内が、余計に自分を憐れにするようだった。


「じゃあ、“綺麗だった頃のあんた”は今のあんたを見たらどう思うと思う?」


「そんなの、失望するよ。ふざけんなって言うかもね。」


「は?本当にそう思う?昔の凛ってそんな性格悪いの?」


昔の私…

私はその言葉に何も返せず、ただ曖昧に笑って見せた。

瞳さんは私の目をまっすぐに見て優しく微笑んだあと、そっと手を伸ばした。


「今も綺麗だよ、凛。私のかわいい妹じゃない。」


頭を撫でられる温度が心地いい。

再び私は目を瞑りそうになる。

ずっと一緒にいてくれたらいいのに。

そんな独りよがりな願いは、もちろん叶わない。

引退の日まであと1ヶ月。

時計の針の音が、私の脳内に深く刻まれた。


「ほんと、馬鹿な子。失望するわけないでしょーが。」


寝息を立てる私の髪を撫でながら、瞳さんが静かに呟いた。

少しだけ掠れたその声は、眠ってしまった私の耳にはもう届かなかった。





翌朝、瞳さんと同じ布団で目を覚ました私は、昨日の記憶をほとんど失っていた。

ここ最近、酔うとすっかり瞳さんに甘えてしまう癖がついたらしい。

1ヶ月後には1人で乗り越えなければいけない夜に今から身震いがする。

襲ってくる孤独を、タバコの煙と共に体内から追い出した。

前に進みたいと思いつつも、強くなりきれない自分が歯痒い。

そして、全てを受け入れて進んでいく瞳さんの後ろ姿が眩しかった。

強くならなければ。瞳さんの後ろに続かなければ。

そう思えば思うほどに、息の仕方を忘れてしまいそうになる。



それでも酒に飲まれてしまう私は、まだまだ弱い。



数日後、私はもつれる足元でなんとか自分の家に向かっていた。

何度か押そうとした雪也の電話番号を、わずかな理性で引き留めた。


「アフター行ってくるけど、店で寝て待ってていいよ。」


と、瞳さんは言っていたけれど、私は1人の夜を選びたい。

これは試練だ。

程なくして必ず身に降りかかる孤独だ。

一度乗り切れば、次もきっとできる気がする。

寒い。寂しい。痛い。不安。いやだ。


「あー!くそさみー!」


そう大きな声で呟き、雑念を追い払う。

すれ違った人たちが振り返って私を見ているが、そんなことはどうでもよかった。


ようやく辿り着いたアパートの錆びた手すりをつかんだ時、


「りーんちゃん!」


頭上から知っている声が降ってきた。

私はまた、夢を見ているのかもしれない。

笑いながら、頬をつねってみたが寒さであまり痛みを感じなかった。


タンタンタンタンーーー


規律のいい音で階段を降り、私の2段上で止まった彼の靴先が、私の視界に入り込む。


「凛ちゃん、おかえり。今日はさ、報告に来た!」


「そう…なんの?」


「俺、また表に立つことにしたよ。まだ少し時間はかかると思うけど、少しずつ。まずは裏の仕事から復帰していこうと思ってる。」


彼の未来を真っ直ぐに見据えた軽い声色に、私は頷きながら少しだけ彼の顔を確認した。

フードの端から短く刈り上げられた髪が見える。


「髪、切ったの?」


「あー、うん。すっきりしたくて。どう?」


フードを脱いで微笑む彼を見上げる。

昔を彷彿させられるようなその姿が眩しくて、直視できない。


「ははっ、うん。似合ってる。」


「…凛ちゃん、もしかして体調悪い?」


そう言って私の顔を覗き込もうとする彼を避けるように後退りした足元がもつれた。

転びそうになった私の背中に、彼の腕が伸びる。


「やめて!」


支えてくれた彼の温もりを、私は思い切り振り払った。

よりによって、なんで今日現れたのだろうか。

彼の熱にも、甘えてしまいそうな自分が怖い。


「大丈夫?とりあえず、家入ろう?」


そう言って目の前に差し出された手を、私はまた拒絶する。


「無理。今日は帰って。」


「わかった。俺は入らないから…」


ふらつきながら後退りする私の体を支えようとする彼の体を突き放す。


「やだ!もう帰って。無理だから!」


次第に大きくなる私の声に、「凛ちゃん…」と困惑した彼の言葉がかき消された。

彼の心の傷は、まだ治り切っていないだろう。

それなのに、そんな彼を拒絶する私は、ひどく幼稚だ。

わかってはいるけれど、今日は無理。

私は綺麗な彼を汚したくない。

残りわずかな理性で、意識を失いそうな身体で、彼を思い切り振り切った。




「え、ちょちょちょちょ何?修羅場?」


荒い息を吐きながら座り込む私の前に誰かが屈んだ。

頬を両手で掴まれ、無理やり持ち上げられる。


「凛ちゃん?しっかりして!どうした?」


揺れ動いていた視界が、次第に見慣れた金髪の男に焦点を合わせる。


「アイちゃん…助けて…」


振り絞った小さな声で、私はアイちゃんに縋った。

アイちゃんは眉間に皺を寄せながら、私の目を強く見た。


「お願い…」


「うん…うちきなね?歩ける?」


アイちゃんの言葉に静かに頷いた。

腕を担ぎ上げられて立ち上がると、再び視界が回る。

もう限界が近い。


「いや、待てよ。誰?男に預けらんねーだろ。」


遠くで彼とアイちゃんの話し声がする。


「彼氏!!!」


彼に背を向けたまま、私はお腹から声を出してそう言った。

横でアイちゃんが壮大なため息を吐く音がした。


「これ、名刺。心配だったら連絡して。…も〜凛ちゃん歩けないじゃん。おんぶするよ〜。」


体がふわりと浮く。

必死に温かい背中にしがみついた。


「アイちゃん、ごめん。」


そう呟いた自分の声が震えている。

意思とは無関係にあふれ出る涙を、私は止めることができなかった。

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