23
太陽が昇り始めたアフター終わり、ポストを確認すると律から手紙が届いていた。
封筒に書かれた綺麗な文字に、我が弟が誇らしくなって笑みが溢れる。
けれど、手紙に書かれた内容に数分後の私は激昂することになる。
“大学は行かないことにしました。
姉ちゃん、今まで苦労かけてごめん。
何も知らない子供でごめん。
これからは俺が働くから、姉ちゃんは自分のために生きてほしい。”
ありえないありえないありえない。
私は今までコツコツ貯めてきた金をバックに突っ込んで、玄関を飛び出た。
時間がない。
向かう先は、まだ雪が残っているであろう地元だ。
空港に着いて、1番早い時間の飛行機を取った。
眠たいはずなのに、瞳孔が開いてしまっている。
ぐるぐると回らない頭で、同じことを繰り返す。
こんなことのために犠牲になるのは1人で十分だろう。
あんなに小さかった律は、何も知らずに生きるべきだろう。
頑張らなければ受からない大学に受かったのに、借金のせいで棒に振るなど馬鹿な話だ。
…大体、母は何をやっている?
忘れかけていた寒さを感じながら、電車を乗り継いで、やっと一度だけ行った母と律が住むアパートへ辿り着いた。
昂る心臓を必死に抑えて、深呼吸をしたあとインターホンを押す。
中から出てきたのは、知らない若い男だ。
その瞬間、頭の中で何かが切れた音がした。
私は全てを悟ってしまったのだ。
「…誰?」
そう言って男を睨みつけたあと、力を込めた手でどかして部屋の中に入り込んだ。
その先には、驚いて固まっている母。
仕事が終わってそのままだった私は、セットされた茶色い髪に厚化粧。
この人は私のことを娘だと認識できているのだろうか。
まあ、そんなことはどうでもいい。
私は一目散に母の胸ぐらを掴んだ。
「てめえ、ふざけんなよ!!律はどうした!?なんで律のことさえ大事にできねえんだよ。仮にも親だろーが!!!」
興奮して肩で息をする私の前で、母は何も言わずに唇を震わせていた。
この態度が、むかつくのだ。
側から見れば、弱い母を怒鳴りつける私の図。
少しだけ冷静になって、母の胸ぐらから手を離した。
「誰?あいつ。新しい男?…はぁ。昔からなにも変わってないね。気づいてないと思ってた?」
責め立てる私の言葉に、母の目に涙が滲む。
母は未だ、泣けば解決する世界にいるのだと思うと腹立たしい。
「律が大学に行かないって聞いたけど、どういうつもり?金足りない?ねえ、なにに使ってんの?」
母は涙を流しながら、崩れ落ちた。
「…ごめんなさい。花音ちゃん、ごめんなさい。」
「謝ってるだけじゃわかんねえから、説明しろって言ってんだよ。」
土下座をし、謝り続ける母に苛立ちが止まらない。
私は舌打ちをして、大きなため息をついた。
背後から、人が近づいてくる気配がした。
「姉ちゃん、俺だよ。俺が律だ。」
後ろを向いた私の視界には、壁に打ち付けられた腰を押さえながら近づいてくる先ほどの若い男。
「…律、なの?」
近寄って、まじまじと顔を見上げた。
すっかり私より大きくなった身長。
目の下のほくろが、幼かった律と重なる。
「律、ごめんっ。お姉ちゃん気がつかなくて…」
先ほどの自分の暴行を反省し、痛そうな腰を心配した。
「大丈夫大丈夫。それより、ごめん。大学のこと、母さんにはまだ言ってなかったんだ。母さんは毎日パートを掛け持ちして、家事もして、俺の知る限りでは責められることはなにもしていないよ。」
「…そう、なんだ。」
私は気まずそうに床を見た。
「うん。大事に、ここまで育ててもらった。」
見渡すと、質素だがきれいに掃除されて整った部屋。
用意された料理の匂いが漂う空間。
何より、律に味方をしてもらえることが、母が律と過ごしてきた時間の答えだった。
乾いた笑いが腹の底から出る。
「姉ちゃん、ちょっと出れる?…母さん、もうパートの準備する時間だよね?」
私が頷いたのを確認して、律は立ち上がれない母の元に駆け寄った。
私は支え合う2人を、ただ見つめていた。
「俺、もう決めたんだ。姉ちゃんは17歳で1人で全てを背負った。同じ歳になった今、俺だけ自分のしたいことを選ぶわけにはいかない。」
近くの公園のベンチに腰をかけて、律は話を切り出した。
「律、律はあの時まだ小さかったでしょ?何も背負う必要はないの。したいことをして。それが私の願いなの。」
「…この歳になると、姉ちゃんがどんな仕事をして借金を返してきたかわかるんだ。今の俺と変わらない歳で、どんな思いだったか、考えれば考えるほど辛い。俺が野山を駆け回っていた時も、つまらないことで学校に行きたくないと言った時も、姉ちゃんは…」
律は、時折苦しそうに唇を噛み締めながら、ぽつりぽつりと慎重に言葉を繋いだ。
ここまで大きくなる過程を、私も見たかった。
真面目で、優しくて、強い子。
「お姉ちゃんね、体を売ってたわけじゃないの。安心して!少し違う仕事をしてる。それに、私は律の歳までピアノを習ったり贅沢させてもらった恩があるのよ。」
できる限りの綺麗な笑顔を、律に向けた。
「それでも!ピアノだって、そうだ。姉ちゃんは夢を諦めたのに、俺だけ何も知らずにのうのうと生きていけない。」
「…借金ね、もう少しで返せそうなの。だから本当に心配しないでほしい。それに、昔律に言われたことがあったけど、実は私ピアノあんまり好きじゃなかったみたい。今はせいせいしてるくらい!」
「…俺、そんなこと言ったかな?」
顔を上げた律は、申し訳なさそうに眉尻を下げた。
素直で敏感だったあの頃の律は、私の小さな心の靄に気がついていた。
「うんうん。もう忘れちゃったよね。律も大好きな将棋を続けられなかったね…律は、将来何になりたいか聞いてもいい?」
「…まだ決まってないけど、法律に興味がある。」
「それなら、絶対に大学に行くべき!お姉ちゃんね、自分勝手だけど、律を借金に巻き込まない、自分だけで解決するって決めてるの。他の理由があって大学に行かないなら理解するよ。でももしも、借金のせいで律がこのまま夢を諦めてしまったら、一生後悔してしまう。だから、お姉ちゃんのためにも自分のために生きてほしい。」
言葉に詰まり、考え込む律を見つめた。
「律、頭撫でてもいい?」
頷いた律の頭にそっと触れる。
「大きくなったね。大変な思いをさせてごめんね。離れていても、ずっと律の幸せを願ってる。愛してるよ。」
そう言って、律を抱きしめた。
体が大きくなっても、私にはいつまで経っても可愛い弟。
「今日は泊まっていく?」
「ううん、もう帰るよ。今夜も仕事なの。会えてよかった。」
携帯で確認した時刻は13時。
同伴と来店予定のある私は、今日も働かなければならない。
1円でも逃したくないし、なによりここに残る意味もなかった。
「母さんには、会っていかない?」
「うん。律も、汚い言葉を聞かせてごめんね。悪いけど、あの人にも申し訳なかったと伝えてほしい。」
律は少し考えたあと、「わかった」と一言だけ呟いた。
暖かい日差しに眠気が襲ってくる。
別れ際に律が、
「姉ちゃん、また会えるよね?」
と、不安そうに私を見た。
「もちろん会えるよ!」
そう言って笑った私につられて、律も笑顔を見せた。
持ってきた有り金を遠慮する律に託して、急ぎ足でバスに乗り込む。
姿が見えなくなるまで手を振り続ける姿は、私の心をじんわりと温かくさせた。
バスの中で帰りの飛行機を取った。
少しだけ時間に余裕がある。
私は目的地をひとつ追加して、昔住んでいた家の付近でバスを降りた。
ぎゅっぎゅっ
降り立った足元で、踏み締める雪の音がする。
私の実家があった場所には、全く違う家が2軒建っていた。
見上げる知らない景色に、私の過去は本当にここにあったのか疑ってしまいそうだ。
上京してから、律は定期的に手紙を送ってくれるのに対し、母からの連絡は一度もなかった。
別に期待していたわけでもない。
ただ、母は欠落した人間だと思っていたのに、成長した立派な律を見ると一概にも言えない。
私の方が、よっぽど欠落した人間であるようだ。
意志や尊厳を捨てて、楽な方楽な方に流れ着いてしまったこと。
結局、1人で背負った借金も、それを懺悔する弟も、私の自己犠牲愛、独りよがりの結果だ。
少しでも背負わせた方が気が楽なこともあるだろう。
悶々と思考を巡らせながら、記憶を頼りに着いたあの公園は、木が伐採され見通しが良くなっていた。
ここももう、私が知っていた場所とは違う。
素手で雪をかき集めた手が次第に赤く染まっていく。
今の私は、紛れもなく現実。
彼との思い出に満ちたこの場所に、あの頃想像もしていなかった今を持った私が帰ってきてしまった。
彼は今、どこにいて何を思っているだろうか。
あんなに傷を負っても、どうして頑なに表舞台に立ちたがるのだろうか。
気持ちが理解できなくても、彼が望んでいるのなら応援したい。
そろそろバスがくる時間。
私は2体作った雪だるまを並べた。
その下に、何の気無しに文字を指で掘った。
“HARU 世界一!”
短絡的な文字に、自分で鼻で笑ってしまう。
まあいいか。どうせ誰も見ないのだから。
冬の終わりが近づく。
照りつける太陽に、この雪だるまもすぐに解けてしまうだろう。
遠くに乗る予定のバスが見えて、急いで立ち上がる。
もうここへ来ることもないかもしれない。
歩み始めた私は、もう振り向かなかった。
戻ってきたネオンが光る街。
0時を回った頃、黒服の後ろをついて歩いた先で、雪也が私を見て微笑んだ。
私はもう決めていた。
流れるままに甘い時間に浸かるのはやめにしようと。
雪也との関係は、とうに客とキャバ嬢の垣根を超えている。
共に不安定な者同士。
見えないふりをして互いの傷を舐め合ったところで、傷が癒えることはない。
ただ、心ではわかっているのに、なかなか言い出せない。
なんとも弱い存在になったようだ。
ずるずると、結局誘われるがままアフターでバーに来てしまった。
いつも通り軽快に八重歯を見せながら笑う雪也につられて、“まだ手放したくない”と、この時間を惜しんでしまう。
このままでは、何も変われない。
次に律に会う時は、胸を張って背中を押したい。
小さく息を吐いて、切り出した。
「雪也、もう終わりにしようか。」
雪也は私を横目で見たあと、静かにグラスを口に運んだ。
「どうしたの?彼氏でもできた?」
そう私に尋ねた雪也の横顔は、笑っている。
「ううん。でも、私こういうのもうやめにしたいんだ。」
「こういうの…?」
口元は笑っているのに、眉間にピクリと皺が寄った。
「うん。私たち別に、お互い好きなわけじゃないでしょ?ただ、一緒にいると楽で楽しくて、離れられなくなった。でも、これがいい未来に繋がってるとは思えないよ。」
口に出しながら、自分の心を整理しているような気分だ。
「そういうのは時間が解決するよ。わざわざ話し合わなくても、恋人ができたりしたら離れればいいんじゃないの?」
「…私は、前に進みたいの。」
雪也の顔から笑顔が消えた。
視線は未だに交わらない。
「…一緒に、前には進めないの?」
そんなの、雪也自身だってわかっていることだろう。
「雪也は私の安定剤みたいだったよ。ありがとう。」
そう言って、席を立ち上がろうとした私の腕を雪也が掴む。
跡がついてしまいそうなほど力強く、痛い。
雪也は俯いたまま、掴んだ腕を見ていた。
「大丈夫だよ。雪也は綺麗だから、必ず幸せになれる。」
そう言って、手を重ねた。
より強く掴まれる腕に、顔が歪む。
ピクリと動いた私の体に反応して、雪也の手が緩み、力無く落ちた。
雪也の笑顔が好きだった。
何をしても笑って包んでくれそうな腕が好きだった。
考えることをやめて立ち止まった時も、何も聞かずに与えられる温もりが心地よかった。
ただ、彼に必要なのは私ではない。
背中を向けて、一歩ずつ踏み出す。
まだこの街にいなければいけないのに、雪也を手放すのは早かったのではないか。と、私の中の弱い心が囁いてくる。
首を振って、雑念を追い払った。
前に進むため。
雪也のため。
私自身のために。




