21
吐いた煙が夜の闇へと消えていく。
ぼーっと眺める時間は、頭が空っぽになるから好きだ。
家に置かれた、経口飲料水とゼリー、風邪薬。
携帯に届いた、“ありがとう”たった一言のショートメール。
一晩ですっかり良くなった体調に、手持ち無沙汰を覚える。
「あ、本当に見えた。」
頭上にわずかな星空が広がっていることに気がついて、1人呟いた。
まだ8個残っている卵も、手をつけていない食材も、一体誰が食べるのだろうか。
冷蔵庫の電気代も勿体無い。
それなのに、彼の笑顔が見られた私の心は晴れていた。
少し元気になった彼は、私のもとを離れて、もっと信用ができて安らげる場所へといったのだろう。
違ったとしても、私から深入りすることは厳禁だ。
特に会話もなかった。
体を重ねることもなく、ただ手を繋いで眠っただけ。
それなのに、寂しさを感じてしまうのはなぜだろうか。
携帯の通知音が静かな部屋に鳴り響いた。
客だ。休日でも容赦なく連絡をしてくる。
彼が部屋を出て、目を背けたい現実が押し寄せる。
いつになったら逃れられるのか。
逃れられたところで、私は何をして生きていけばいいのか。
不意にため息が漏れ出た。
タンタンタンタンーーーー
聞き慣れた外階段を登る音がする。
来ないでほしいと電話までしたのに、あの男はお構いなしだ。
つくづく自分の立場の弱さを知る。
今日は1人で寝たい気分だった。
が、そんな些細な願いすら許されないらしい。
「クニさん!」
玄関を開けて、気持ちとは裏腹に男に愛嬌を振り撒く姿は滑稽だろう。
クニさんは、顔色を変えずに玄関に入り込み、そのまま佇んでいた。
「どうしたの?入ってよ!あ、猫ならもういないよ。」
「…そうか。」
そう鼻で笑いながら答えて、のそのそと部屋に入った。
クニさんの目的である、札束の入った封筒を手渡す。
「…ねえ、あとどのくらい?」
金を数えるクニさんに、不意に尋ねた。
クニさんは静かに目だけをこちらに向けて、ゆっくりと口を開いた。
「どうした?もうしんどいか。」
左頬だけを微かにあげて笑う。
しんどくないわけがないだろうが。
言葉に詰まる。
クニさんが私から目を逸らした。
「お前の稼ぎならあと1.2年じゃないか?…金額くらいは覚えておけよ。他のやつだったら搾り取られてるぞ。」
「でも、クニさんは嘘つかないでしょ?」
背中を向けて座ったクニさんに投げかける。
沈黙の時間が、私を少し不安にさせる。
「…俺なんかを信じるな。」
クニさんはそう小さく呟いた。
私には信じてほしいと言ってるように聞こえてしまう。
頭がおかしくなってしまったのだろうか。
この男は、私の体を売って金にしようとした男。
そして、私の体を金で買った男。
それなのに攻める気持ちも不快感もない。
むしろ、胸に抱きとめられると安心してしまうのだ。
「あ、ねえなんか食べる?」
食材が余っている冷蔵庫を開いて問いかけた。
「お前、自炊なんかしてたか?」
冷蔵庫を見ながら、クニさんが鼻で笑った。
この家に彼を居座らせたことを、何故だか後ろめたい気持ちにさせられる。
家賃だって私が払っているのだから自由なはずなのに。
「まあ、たまにはいいかなーって…」
「いらねえ。」
そう言って、私の腕を引っ張って布団に投げつける。
今日はしたくなかったのに、そう思いながらいとも簡単に脱がされて散らばった服を見た。
「余裕そうだな。」
そう言いながら、クニさんは執拗に私の体にキスをする。
また私は快楽に溺れていくのだ。
彼と過ごした綺麗な数日よりも、この方が私に似合っている。
タバコをコソコソ吸いにいくこともない。
無理して自炊をすることもない。
自由で、気ままで、流れるような生活。
事が終わったとき、私はクニさんにキスをした。
“ただいま”と、心の中で呟きながら。
クニさんが自分から私の唇にキスをしたことはない。
けれどキスをしたあとは、少しだけ優しい顔つきになって私を撫でてくれるのだ。
私はその顔が好きだ。
「瞳さん、引退するんだってね。」
タバコを吸いながら、クニさんに話しかけた。
「瞳?ああ、あの暴れ猫か。…そうか、あいつもここを去るか。」
「暴れ猫?瞳さんにそんなイメージないけど…」
私の言葉に、クニさんは笑い声を上げた。
「そうか、あいつもいい歳だもんな。昔は手がつけられねえくらい暴れて、目つきも悪くて、そう呼ばれてた。クビにしろって何度も言ったけど保護者みてえのが謝りに来るんだよ。」
「保護者?」
「ああ。お前は知らねえよな。いたんだよ。昔、この街で有名なやつが。…最後くらいは顔出してやるか。」
クニさんは吐いた煙が上る空を見ながら笑っていた。
保護者とは、もしかして前に瞳さんが言っていた“サキさん”のことだろうか。
それにしても、瞳さんが手をつけられいほどだったとは信じがたい。
そして瞳さんのことを優しい顔で話すクニさんも、意外だった。
「クニさんは、家族がいる?」
何も知らないクニさんのことを、少しだけ知りたくなった。
不意にクニさんの顔から笑顔が消えた。
「家族か…家族ってなんだろうな。血のつながりならある。でも俺にはよっぽど、瞳とあいつの方が家族に見えたな。」
私は静かにクニさんを見つめていた。
この男はほとんど見えない右側に私がいても気にしない。
「お前はどう思う?小さかった弟はまだしも、多額の借金を残して死を選んだ父親も、娘が売り飛ばされることを止めない母親も、まだ家族だと思えるか?」
クニさんは私を正面に捉えて、逃れられない現実を投げてきた。
言葉にされると、これほど惨めなことはない。
冷え切った男の突き刺すような目が、男自身の孤独を写している。
「じゃあ、捨てられたもの同士家族にでもなる?」
重たくなった空気に、ヘラヘラと笑いながら冗談で返した。
クニさんは、呆れたように顔を逸らして鼻で笑った。
家族とはなんなのだろうか。
聞いた私も、もはやわからない。
律にとって、あの母親と田舎に住むことは正解だったのだろうか。
唯一の家族と思える弟が、やけに恋しくなった。




