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弟の律から手紙が届いた。

月に一度程度送られてくる手紙には、綺麗な字が並ぶ。


“第一志望の大学に合格しました。”


律は勤勉のようだ。

家の近くで1番有名な大学に合格した。

嬉しい報告と共に、学費に頭を悩ませる。

今の仕送りでは足りなくなるだろう。

コツコツと貯めてきた端金もそんなに多くはない。

無意識にため息が漏れた。

今までに律から送られてきた手紙は何十通もある。

大事に保管して、たまに返事を書いて、手紙だけが私たちを繋いだ。

懐かしく昔の幼い字を眺めていると、外から階段を登る音が聞こえてくる。


トン…トン…トン…


随分と遅い。この音はクニさんではない。

クニさんがうちに訪れるのは、決まって集金の前後1週間。

今日はその日でもない。

手紙を丁寧にしまって、寝る支度を始めることにした。


ドゴンッーーー


突然、大きな音で玄関のドアが揺れた。

心臓の音だけが静かな部屋に響く。

しばらくそのまま固まっていたが、忍び足で玄関まで行き、恐る恐るドアスコープを覗いた。

人影は見当たらない。

ほっと胸を撫で下ろした時、小さな声が扉の向こうから聞こえた。


「やべ…どこだっけ…」


聞き覚えのある、低い声。

彼だ。

急いで鍵を開けて扉を開こうとしたが、重くてなかなか開かない。

内側から扉を叩いた。


「ねえ、そこにいる?どうしたの?」


少しの沈黙の時間が流れた後、外側から勢いよく扉が開けられた。

扉に体重を預けていた私は、よろけて壁に手をついた。

至近距離で目が合って、彼は見たことのない下手くそな笑顔を作った。

高いはずの視線は私よりも低く、前のめりに屈んでいるようだ。


「あれ、凛ちゃんだ。」


酒の匂いが漂う。


「…うん。私の家だもん…」


「あー、そっか。」


なだれるように部屋に入り込んで、玄関に腰を下ろす。

彼は今日も薄着だ。


「もしかして酔ってる?寒くないの?」


私の問いかけに、反応はない。

部屋の奥へ進もうとした歩みを止めて、靴も脱がずに座り込む彼の元へ少しだけ戻った。

大きな呼吸音が聞こえる。…寝息?

屈んで彼の顔を覗き込むと、目がぱっちりと開いていた。

驚いて、上半身が仰け反る。


「…どうしたの?入れば?」


呼吸を整えて彼に問いかけるも、また反応がない。

不思議に思って首を傾げた時、視界に入った彼の手が酷く震えていることに気がついた。

心臓がヒュッと音を立てて凍りつく。

咄嗟に彼の手を両手で包んだ。


「大丈夫だよ。大丈夫大丈夫。」


そうだ。彼は心が弱っていると、死んでいたかもしれないと、前に私に教えてくれた。

会いたくないと思いつつも心の奥では会えたことに浮かれて、彼の問題は今近くにいる人が支えてくれるはずだと深く考えていなかった。

2度と会うことはない見ず知らずの“凛”の支えなど、必要のないものだと。

急に恐怖と罪悪感が押し寄せてくる。

何の確信もない。ただ、大丈夫だと言い続けた。

それでも震えの止まらない彼の体に、着ていたパーカーをかけて抱きしめた。

頭を撫でて、背中をさすり、大丈夫だと言い続ける。

思ったよりも大きく逞しい体を、精一杯温めた。

どのくらい時間が経ったのだろうか。

わからなくなるくらいに、私は必死だった。

次第に彼の体の強張りが解け、震えが収まってきた。


「水、飲む?」


返事はない。

少しだけ体を離すと、支えを失った彼の体が前のめりに傾く。

彼は、スヤスヤと寝息を立てながら寝ていたのだ。

ゆっくりと、頭をぶつけないように慎重に、彼の体を床に下ろした。

居間から持ってきた枕を頭の下に敷いて、布団をかけた。

その横に座り込み、私は彼の無防備な寝顔を眺める。

綺麗。長いまつ毛も、通った鼻も昔のまま。

少しだけ角張った輪郭やおでこは、昔とは違う。

もったいないことをした。

今さら、目をそらし続けてきた彼の歩んできた道が見たい。

長くなった髪の毛をそっと撫でた。


「死なないで…」


つい。心の声が漏れ出てしまった。

今まで何人も心が病んで死んだ人を知っている。

彼だけは、連れて行かないで欲しい。

再会したところで、結局祈ることしかできない自分の非力さが歯痒い。


その夜、私はLUMATOMの動画を見漁った。

隣で静かに寝息を立てる彼をときたま確認しながら、キラキラと輝きを放つ画面越しの彼の成長を見続けた。

調べる途中で分かったことだが、LUMATOMは休止の理由を明らかにしていない。

もちろん、彼の心のことも公表していなかった。

そのうちだんだんと眠くなった私は、座ったまま彼の隣で目を閉じた。





「凛ちゃん、凛ちゃん…」


優しく肩を叩かれて目を開けると、座ったまま寝ている私の前に彼が立っていた。

カーテンの隙間から光が差し込んでいる。

おそらく昼頃だろう。


「ごめんね、あんまり記憶なくて…」


まるで昨夜とは別人のように、彼はいつも通り言葉を紡ぐ。

申し訳なさそうに眉毛を少し下げながら、平気なフリをするのだ。


「布団、借りちゃったね。もう帰るから、ゆっくり寝てね。」


呆然と彼を見る私にそう告げて、足早に部屋から出て行こうとする。

咄嗟に彼の手を掴んだ。

次は私の手が震えている。


「いいよ、もう。…無理しなくていいよ。」


彼は背中を向けたまま、沈黙の時間が流れる。


「…俺,昨日そんなやばそうだった?ごめんね、酒飲んでて記憶ないんだよね〜。」


ごめんごめん。と、言いながら振り向いて、片手で謝る仕草をして見せた。

仮面を被り続ける彼の目を見つめる。

久しぶりだ、この感覚は。

焦点の合っていない瞳が、次第に私を捉えていく。

彼は観念したかのように、仮面を脱ぎ捨てた。


「…なんでだろ。…凛ちゃんには敵わないな。」


そう言って、その場に力なく座り込み深いため息を吐いた。

光のない瞳で床を見つめながらポツリポツリと話し始める。


「どうしようもなく消えたくなる。もう自分でも自分がわからない。楽になりたい。消えてしまいたい。俺を嫌う人は多いけど、わかるんだ。俺も俺が嫌い。生きている価値がない。」


言葉が出てこない。


「…でも、まだ死にたくないんだよ。ベッドから起き上がれないのに、何日も眠れなかった。だから酒を飲んだ。そしたら記憶が飛んで、気づいたらベランダの柵に足をかけてた。そこからまた記憶がない。……きっと、止めてほしくて、ここに来た。」


彼の頬を一筋の涙が濡らす。

気づいてないのだろうか、彼は拭おうとしなかった。

代わりに私が手を伸ばす。

頬に手が触れた時、彼の視線がやっと持ち上がる。


「しばらく、ここにいる?」


放っておけないのだ。

少しでも彼の力になりたい。

それが、自分の罪を増やすことになっても。




夕方、彼を家に置いたまま家を出た。

仕事は休みたくても休めない。

「なんでもいいから、少しでも不安になったら電話して。」と、電話番号を置いてきた。

彼は床に横たわりながら目を開けて、数回頷いた。

気がかりで仕方がない。

けれど、記憶がない中でも“凛”を頼った彼を信じた。

あとは懸念材料が一つ。


「もしもし、クニさん?今さ、ウチ猫いるんだよね。野良猫拾っちゃって…」


「……猫?」


「うん。だから、お金持って行く。場所行ってくれたらそこまで行くから。」


「ああ。いつまでいる?その猫。」


「あー…どうだろう。飼うことはないと思うけど、飼い主が見つかるまで、かな?」


「ふっ、わかった。」


クニさんは鼻で笑って、電話を切った。

とりあえずこれで、1ヶ月ほどクニさんは家に来ない。


働きながらも、携帯を肌身離さず確認した。

彼からの連絡はない。

今日はやけに時間の進みが遅く感じる。

やっと訪れた閉店時間で、急いで身支度をして店を飛び出した。

深夜になっても彼からの連絡は、やはりない。

外から見える家の電気は消えている。

階段を駆け上がって、鍵を開ける。

部屋の中は静まり返っていた。けれど、彼の靴はまだある。


彼は未だ、出勤前と同じ場所に横たわっていた。

近づいて顔を覗き込むと、目が瞬きを繰り返していた。


「ただいま。電気つけていい?」


返事がない。

悩んだけれど、私は独断で電気をつけた。

彼は眩しそうに顔を歪めて瞳を閉じた。


「お腹空いてない?なんか買ってくるけど、食べたいものある?」


「いらない」


困ったことに、家に食料は一つもない。

いらない。と、言われてもなにかしら食べ物は置いておかなければ死んでしまう。


「買ってくるから待ってて」


家の近くの24時間営業のスーパーへ駆け込んで、食材を適当に買った。

料理などしたことがないが、作るのが1番安上がりなのだ。

そして一度も使ったことのない前の住人の調理器具が、家にはある。

家に帰った私は、味噌汁を作ってみることにした。

昔家庭科の授業で作ったことがある記憶を辿って食材を切っていると、


「オムライス」


と、彼が呟いた。


「…オムライス、食べたい?わかった。買ってくる。」


オムライスの材料など、レンチンの米しか買っていない。

火を止めて、またスーパーへ行こうとコートを手に取った。


「行かないで。」


彼の弱々しい声が聞こえて振り向く。

ゆっくりと体を起こしながら、不安そうな顔で彼が私を見ていた。


「でも、オムライスの材料買ってきてないからさ。すぐ戻るよ。」


「いらない。だからここにいて。」


縋るような瞳で私を捉える。

ゆっくりと近づいて、彼の手を握った。


「わかった。ここにいるよ。」


そう言って、頭を撫でる。

再び横になった彼の頭を撫で続けた。

まるで子どものよう。

私が出会った頃よりももっと幼い彼を見ているようだった。

じきに彼は目を閉じて、眠りについた。

そっと横に並んで、私も目を閉じた。


目が覚めた時、時刻はもう昼を過ぎていた。

随分長いこと寝ていたようだ。

横にいる彼はまだ眠っている。

手は、まだ繋がれたまま。

起こさないように解いて、立ち上がった。


今日はまだ土曜日。

行きたくなくても、仕事に行かなければならないのだ。

化粧まで支度を終わらせて居間に戻ると、彼が起き上がって座っていた。


「あ、起きた?」


「うん。おはよう。」


そう言って彼は微笑んだ。

昨日とは別人のように、体調が良さそうだ。


「おはよう。よく寝れた?あ、味噌汁…すぐできるけど飲む?」


「あー、うん。少しだけ。」


食欲はまだなさそうだ。


「無理しないで。」


そう言って鍋に火をつけ、昨日の作りかけの味噌汁を完成させた。

彼は少しずつ口に含んで、時間をかけて飲み干した。


「もうそろそろ行くね。家のもの好きに使っていいから。シャワーも。何かあったら電話して。些細なことでも。」


そう言って、テーブルに置いたままの電話番号のメモを指差した。

彼はおもむろに携帯電話を取り出して、触り始める。

すぐに私の携帯電話が震え出した。知らない番号だ。


「あ、繋がった。」


そう言って彼は微笑んだ。

私も微笑み返す。彼との繋がりが、また増えていく。

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