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目覚めも良く、気分のいい起床。

私はやる気に満ち溢れていた。

早く借金を返して地元に戻ろう。そう決意して、夜の繁華街へ繰り出した。

無意識に背筋が伸びる。

携帯で見る時事もスルスル頭に入って捗る。


「ねえ、凛ちゃんいいことあったでしょ〜?」


鏡越しにアイちゃんと目が合う。


「え〜?特になんもないけどな〜。」


アイちゃんはニヤリと笑って頷いた。


「ふーん。なんか今日すごくいいよ。魅了されちゃう。うんと可愛くしちゃおっと!」


鋭い人だ。

いつも全てお任せにしている髪型だが、アイちゃんは天才的に可愛く仕上げてくれる。

酒でむくんだ日も、痩せてやつれた日も、髪をセットしてもらうと不思議とわからない程になる。

今日は顔まわりの髪を極限まで減らしたポニーテール。

これが今日のベストなのだろうと納得せざるおえない出来だ。


「凛ちゃん、あなたほんっとうに綺麗よ。今日はみんな凛ちゃんにメロメロね!」


「ありがとう!アイちゃんのおかげ〜!」


ニッと笑ってみせる。

コツコツと鳴る足元のヒール音が今日はやけにリズムがいい。

同伴を終えて化粧を直そうと更衣室の大きな鏡の前に行くと、瞳さんが口紅を塗っていた。


「おはようございまーす」


「おはよー」


いつもと変わらない挨拶だ。

瞳さんは、今日も艶やかで綺麗。


「瞳さーん。ご飯、連れて行ってください。」


鏡に映る自分の顔だけを見ながら、そう投げかけた。

鏡越しで、瞳さんがこちらをゆっくりと見る気配を感じる。

少しだけ緊張感が走る。

私はこの人との間で止まってしまった、時間の針を動かしてみたくなった。

手遅れだろう。恩を仇で返すような妹は。

それでも今日は、何か変わってくれる気がしたのだ。

沈黙の時間が流れたあと、瞳さんの小さな笑い声が聞こえた。


「うん、いいよ。」


そう言って瞳さんは颯爽と更衣室を後にした。

私がやっと瞳さんを直視した頃には、もう後ろ姿だった。

客席では躊躇いなく目も合わせ、会話ができる。

しかし、裏では挨拶しか交わさない。

表面上だけの馴れ合いは昔から慣れっこだ。

けれど、瞳さんは特別。

私を始めて救ってくれた人。

今でこそ会話はないが、あの時の私にとっては間違いなくオアシスのような存在だった。

後悔だけがしこりのように残る。

こんな不格好な誘い方しかできない、今の私にも。


「凛ちゃん、瞳さんと仲良かった…っけ?」


3歳下の凪沙ナギサだ。

凪沙は、4年前に入店した。

私たちが毎日一緒にいた時期を知らない。

凪沙だけではなく、もうこの店に私が瞳さんの後ろをついてまわっていた季節を知る人は店長しか残っていなかった。


「うん。まあ普通に。」


染みついた愛想笑いだ。

言葉を濁すのには理由がある。

この世界では瞳さんにも、私にも、敵が多いのだ。

話さないことが、自分の身を守る術になる。


「意外〜!瞳さんも凛ちゃんも店の子とあんまり飲みとかご飯行かないじゃん?え、ナギとも行こうよ〜」


「行こう行こう〜」


アフターでしか実現しない未来だ。

後輩に奢る余裕などない。


「てかさ、瞳さんっていい噂聞かないじゃん?やっぱ枕してんのかな?」


凪沙が小声で耳打ちする。

何度も何度も聞いた噂。


“Lacisの瞳は枕嬢”


どこに行っても人は噂好き。

何も知らないくせに。マイナスなことばかり広まるのだ。


「え〜?知らない!」


「さすがに聞いたことはあるしょ?マッキーとか橋本さんとかめっちゃ金使うけど、やっぱヤってんのかなぁ」


ヤってたらなんなんだよ。

しょうもない。結局足の引っ張り合いだ。

Lacisでは今、固定のNo.1がいない。

けれどNo.1を取るのは決まって、凪沙、瞳さん、私の誰かだった。

火のないところに煙は立たないというが、あながちそんなこともない。

全く見に覚えのない元彼や、友達が度々出現する。

知らないうちに黒服が彼氏になった噂や、妊娠した噂もあった。

噂は事実として共有され、瞬く間に広まる。

信用する人を間違えて、口を滑らそうものなら、簡単に転落してしまう。

だから嫌なのだ、人と親しくなるのは。


「どうだろうね〜。てかさ、じゃあ私の噂も聞くわけ?“酔ったらヤれる”…とか?」


笑いながら嫌味ったらしいことを言ってしまった。

性に合わない。

いつもなら適当にやり過ごすのに、忘れ去られた正義感がふつふつと湧き上がってくる。


「…え〜?凛ちゃんの噂は聞いたことないけどな〜」


気まずそうに目を逸らす凪沙。


「ま、噂なんて所詮噂だしね〜。瞳さん完璧だからさ、みんな弱点知りたくなるよね!」


こいつと話す時間も、気を使う労力も惜しい。

つい愛想笑いに磨きをかけて、すぐにその場を切り上げた。

酒が欲しい。軸のない毎日に、息が詰まる。






「凛ちゃーん。もう帰ろー。」


ハッと我に帰ったとき、目の前で瞳さんがタバコを咥えて携帯を触っていた。

突っ伏していたテーブルには、手の付けられていない焼鳥が並ぶ。

見覚えのある、昔よく連れてきてもらっていた店だ。


「瞳さん…?」


「あ、起きた?大丈夫?もう帰ろうか。」


瞳さんが携帯を置いて私に問いかけた。

状況を整理したい。

目の前にある水を流し込むと、吐き気が込み上げた。


「ちょ、ちょっと待ってください!」


トイレに駆け込む。

吐くことは、もう得意技だ。

しかし、私はなぜまた瞳さんとここにいるのだろうか。

冷えた頭で再び瞳さんの待つテーブルに向かう。


「すいません。私記憶ないです。」


正直に頭を下げた。

そんな私を見て、瞳さんは軽快に笑う。


「だろうね!私も帰ろうと思ったんだよ?でも凛ちゃんが、「ご飯連れて行ってくれるって約束したじゃないですか!やだ!」ってずっとまとわりつくから…」


「えー。なにそれ、やばいですね。すいません。」


酔った自分にまたもや白目を剥きかける。

他人事であって欲しいが、自分の話なのだ。


「うん。でも、かわいかった。私とご飯行きたいって思ってたんだ?って。」


「ええ、それは思ってましたずっと。瞳さんは私のこと嫌いかもしれませんけど、私やっぱり瞳さんのこと大好きなんです。」


まだ酒が残っているのか、考えるよりも先にスラスラと言葉が出る。

瞳さんは微笑みながらタバコの煙を見ていた。


「私、凛ちゃんのこと今でも妹みたいに思ってるよ。ライバルだけど、やっぱり気掛かりなの。売上が落ちてると応援したくなるし、やつれてると心配だし。ごめんね、私も初めてなんだ家族みたいに思えた子は。」


「…私、まだ妹でした?」


静かに涙がこぼれ落ちた。

安心したのか、嬉しいのか、もう自分の感情がわからない。


「うん。でも、見守ることしかできなかった。ごめんね。」


「嫌いになったわけじゃないですか?私、瞳さんの大事なお客さん、取りました。瞳さんはあんなに私に親切にしてくれたのに…」


「あー、あれは取ったわけじゃないでしょ?客なんて指名替えする生き物だから。でも嫌な態度取っちゃったね。うん。正直に言うと、売上が私の存在価値に感じるんだよね。争う以上は昔みたいに仲良くできなかった。ごめんね。」


「なんで謝るんですか。わたしも理解したんです。お金が必要で、瞳さんとライバルにならなきゃいけないこともわかってたんです。おかげで冷静に売上を追えて、ここまで来れました。瞳さんのおかげです。夜の世界のこと教えてくれて、優しくしてくれたからです…」


つい早口になる。

瞳さんは優しく笑った。

その顔に、時の流れを感じる。

まだ20代半ばだった頃の瞳さんは、もっと豪快で派手な化粧だった。

それもそうだ。あれから9年も経った。


「凛ちゃん、私引退するんだ。」


突然の告げられた予想外の言葉に、時が止まったかと思った。

いや、止まって欲しいと願ったのかもしれない。

瞳さんは、追い続けてきた背中であり、私の居場所だったのだ。

口を開けば「いやだ!」と縋りついてしまいそうで、唇を噛み締めた。


「気がつけばもう34だしさ、この街からそろそろ離れることにした!」


全てから放たれたような清々しい顔でそう言うのだ。

置いていかないで。もう1人にしないで。

溢れ出る言葉を次々に飲み込む。

瞳さんの引退日はもうすぐ、誕生日を控えた3ヶ月後だった。


「この街はね、私の人生の全てだった。昔、“ルル”のキャストに拾ってもらったの。そこから人生が始まったんだよね。」


“ルル・ミラージュ”

この街で有名なオカマショークラブだ。

瞳さんは過去を懐かしむように微笑みながら言葉を繋いだ。


「私の恩人。明るくて、正義感が強くて、おせっかいで、すごく綺麗な人だった。5年くらい一緒に住まわせてもらったんだ。…凛ちゃん、パンセクシャルって知ってる?私ね、好きだったの。彼女のこと。」


初めて聞く単語だった。

けれど、恩人の話をする瞳さんの表情から、彼女のことを愛していると十分すぎるほど伝わってくる。


「でも彼女は男の人が好きなの。頭では理解するんだけどね、私はまだ子供だった。たくさん迷惑かけて、心配かけて、最後まで感謝の言葉も伝えられなかった。」


最後まで…

瞳さんの恩人は、もしかしてもうこの世にいないのかもしれない。

それか、遠くもう会えない場所にいる。


「話が逸れちゃった!何が言いたいかというとね、凛ちゃん、“自分をもっと大事にしてね。自分のことを愛せるのは自分だけなのよ”。…これは彼女が私によく言ってた言葉。私がこの言葉を自分の心に落とし込めたのはつい最近なの。それまではうるせぇと思ってた!」


自分を愛せるのは自分だけ。

これは難題だ。自分を愛せる気が全くしない。


「私には、難しいかもしれません…。愛せるところが無さすぎて…」


気まずそうに笑って返した。

せっかくのアドバイスだが、私にはモノにできそうにない。


「うん。いつか理解できるよ。どんな自分も受け入れられるようになる。あとね、これも言ってた!“本当に愛している人には、寝顔にキスしたくなるものよ”って。」


「寝顔…ですか?」


「うん。起きてる時にキスをするのはパフォーマンスでもあるのよ。愛していたら、寝顔すら愛おしくてたまらなくてキスしてしまうでしょ?って。」


そういうものなのか。

今まで幾度となくしてきたキスに、意味のあるものは思い出せない。

その場の流れ、寂しさを埋める手段、確かにパフォーマンスだったかもしれない。

ひどく虚しさを覚える。


「凛ちゃんなら大丈夫だよ。いつか本物の愛を見つけ出せる。こんなこと言っていいかわからないけど、寂しい時には流されたっていいの。生きていれば、なんだっていいのよ。」


この世界に入って知ったこと。

人は簡単に死ぬと、儚くて脆い生き物だと。

心の病は、目に見えぬところで身体を蝕んでいく。

ついこの前まで笑っていた人が、突然消えるのだ。

これまで知っている人の1人や2人ではない。

何人も何人も、見てきた。

死にたい気持ちも、理解できてしまう。


「私、死ぬことはない、と、思います。」


「うん。それだけ、約束して。」


瞳さんは一瞬だけ真面目な顔をして私を見た。

私はその目に捉えられて、何度かコクコクと頷いた。




それから瞳さんは、閉店する私を見つけてはご飯に連れて行ってくれた。

まるで9年前に戻ったかのように、残りの時間を惜しむかのように。


あの日わたしに指名替えをした先生の話だが、まだ腹が括りきれなかった私は先生と枕をしなかった。

何度かその空気をかわしていると、悟った先生はすぐに違う子へ指名替えをした。

今なら、寝ていたかもしれない。

いや、返済額が足りなければ迷いなく寝ていただろう。


「ねー、瞳さん、ホストの人とまだ付き合ってる?」


いつもの焼鳥を食べながら、瞳さんに問いかけた。


「え、いつの話?とっくに別れたよ。あいつ、もう結婚したよ。子どもいる。」


「え!なんか、時の流れを感じますね。」


「早いよね〜。え、てかさ、晴たまに店来てるよね?」


「晴?あー、雪也ね!来てます来てます。」


雪也は未だ、たまに店に来る。

ラストの1時間だけ来て、一緒に帰るのがお決まりのコースだ。

雪也は、闇深い男だ。

関係を持って1年ほど経った頃、告げられたことがある。

母親に虐待されてきた、それ以来女が嫌いだと。

ホストは天職で、女を調教して言うことを聞くように仕上げるのが快感だったようだ。

長く続けなかった理由は、自分が人ではなくなってきている気がしたから。

このままでは、母親と同じになってしまうと思った。と言っていた。

雪也は行為中にたまに私の首を絞める。

その度に、私に謝罪して優しく口付ける。

お互いの孤独や、欲を満たすのには打ってつけの相手だった。

決して互いに愛し愛することはないと、わかっていたからだ。


「いつもラストに来るよね?」


瞳さんが私に問いかける。


「まあ、“アフター狙い”ですから。」


タバコに火をつけて、瞳さんに笑いかけた。


「ああ、やっぱり?付き合ってるわけじゃないの?」


「いや、付き合うとかはないです。お互いに。瞳さんは?もしかして寿だったりします?」


「いや、全く。恋人もいないし。今まで居場所が欲しくて求められるたびに関係持ったけど、やめたんだよね。やっぱずっと心の中にサキちゃんがいてさ、私これからもサキちゃんしか愛せないんだと思うわ。あ、サキちゃんって前に話した“ルル”の人。」


瞳さんはタバコを吸いながら、淡々と語る。

瞳さんの中にはもう不安や迷いがない。

ここに至るまで、彼女は何度葛藤したのだろうか。

それでも、なんとか引き留めようと伸ばしそうになる手を封じ込めた。

笑顔で送り出すことが、私にできる精一杯の恩返しなのだから。

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