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将来はピアニストになる。
これは夢ではなく、決定事項だと思っていた。
絶対音感を持ち、裕福な家庭。
幼い頃から厳しく母親にピアノを指導されてきた私は、物心がついた時には隣にピアノがある生活が当たり前だった。
幼い頃から数々のコンクールで優勝し、翌年から留学予定だった17歳の冬。
当たり前の日常と共に、見えていた未来が消えた。
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ここは、眠らない街。
足元でピンヒールをコツコツ鳴らしながら、足早に歩く。
26歳になった私の日常だ。
カランコロンと、音のなる扉を開けると、奥から金髪の男がひょこりと顔を出す。
「おっはよう〜凛ちゃん!今日も早いね〜!」
私の朝はこの男、アイちゃんの元気な声から始まるのだ。
…まあ、時間でいえば夜だけれど。
「アイちゃん、おはよ〜!今日も寿司よ。2日連続〜」
「え〜羨ましいっ!私もついてっちゃおか!」
ハハハ〜なんて2人で笑って、いつも中身のある会話ではない。
かれこれ8年ほどの付き合いになるが、彼について知っている情報は“アイザワ”という苗字だということくらいだ。
あとは、想像だけれども、おそらくゲイ。
ついでに、こんな軽薄な関係だが、私の“凛”という名前の名付け親である。
しかしまあ、いつもハイテンションなので顔の体操には丁度いい。
「ねね、凛ちゃん、今日雪降るらし〜よぉ」
「え、マジ?そこそこ薄着で来てもーたわー」
「マジマジ!風邪ひかないようにねっ!」
この街もたまに雪は降る。けれど、私の故郷のように積りはしない。
もう随分と帰っていないから、むこうの冬を忘れてしまいそうだ。
キラキラと光る地面。降ったばかりの真新しい雪道を歩くのが好きだった。
「凛ちゃん、今日も元気にいってらっしゃ〜い!」
「ありがとー!いってきまーす!」
ヒラヒラと手を振るアイちゃんに見送られながら、店を後にする。
私の今日が、また始まったのだ。
「凛ちゃーん」
前方に見えるスーツの中年男が今日の同伴相手。
すかさず笑顔を作り、手を振って駆け寄ろうとした瞬間、横から通り過ぎようとしていた手に掴まれた。
驚いて、振り向きざまに「えっ…」と自分から小さく声が漏れた。
私の手を掴んでいたのは、高身長のサングラスをかけた男だった。
「花音?」
時が止まったのかと錯覚するほど長く見つめあった気がしたが、実質は1、2秒ほどだろう。
私はまた笑顔の仮面を装着し直す。
「人違いです。」
そっと私の腕を掴んでいる手をどかす。
「うおっハルどうした?そんなとこに立ち止まって…」
道路脇に止まっているタクシーから、連れが降りて男にぶつかったようだ。
私は背中を向けて、同伴の男の元へ手を振りながら小走りで駆け寄った。
「大丈夫だった?知り合い?」
一部始終を目撃したであろう、質問が飛び出してくる。
「ううん!なんだか人違いだったみたい!」
何食わぬ顔で、嘘をついた。
2度と会いたくなかった男。
さようなら、私の純情。
どうか、笑顔で、幸せでいて。